陸軍小火器史(49) 番外編(21)─戦車や火砲の削減
お見舞い
またまた大型台風が東海・関東から東北地方を直撃しました。テレビでは昭和33(1958)年9月の「狩野川(かのがわ)台風」について語られていました。わたしは小学校1年の夏休みが終わって9月のことでした。神田川が氾濫して、家の周りも水浸しになった記憶がかすかにあります。静岡県の伊豆半島の狩野川が暴れて、1400人あまりの人が亡くなりました。伊勢湾台風が翌年のことです。これは約5100人の方々が亡くなりました。
当時と比べれば、治水も防災組織・装備も格段に整備されているはずですが、逆にそうした進歩に甘えて、かえって私たちの気持ちや暮らしは脆弱になっているのではないかと心配になりました。それにしても「コンクリートから人へ」とか唱えて、建設中のダム工事の作業を止めた人たちがいました。きちんとした検証はまだ不明ですが、いまの政権与党が工事継続を指示した、あの『無駄なダム』は役に立ったようですね。
わたしの家の近所の、横浜みなとみらい地区ですが、金曜日の夜にはスーパーの棚ががらがらでした。わたしたちは夫婦2人だけの暮らしですから大した準備も要りません。幼い子供さんがいる家や、兄弟姉妹が多いご家族などは心配です。強風、洪水、停電、恐ろしい事態に備えるべきと思います。
「防衛力はいまのままでいい」と戦車・火砲の削減
ちかごろ、とみに目立つのが戦車と火砲の削減である。もちろん、ここでいう戦車とは装甲を備え、路外行動能力に優れたキャタピラー(無限軌道)をもち、強力な武装を誇る車輌をいう。火砲とは大きな弾丸口径(現在では155ミリ以上)をもち、その射程は20~30キロという砲弾を撃ちだす「大砲」のことを指す。
この近代戦の主力を務める(といわれてきた)火力の中心をなす重火砲と戦車が、ちかごろとにかく減って来ているのだ。現在は、わずか300輌と300門である。最盛期は1200輌と約1200門ではなかったか。陸上自衛官の中に占める、機甲科と野戦特科隊員の数は減る一方である。
いまは戦車は主に北海道にある。戦車4個連隊を中心にした「重戦車」(もちろん、いまは主力戦闘戦車といい重、中、軽戦車という区分はない)がそろっている。本州や九州、四国では、戦車の姿はなかなか見られない。機甲教導連隊が駐屯する富士地区以外では、その雄姿を見ることが少なくなった。
もちろん、このことは新聞報道もされてきたし、毎年発行される防衛白書にも記載されている。だから建前上、国民みんなの合意があってのことということになる。有権者が選んだ国会議員が考え、そこから選ばれた総理大臣以下が決めたことである。
文民優先、シビリアンコントロールの下に自衛隊は存在する。だから、自衛官の要求などはなかなか通らない。戦争などは起こらない。世界は話し合いで紛争を解決する。だから、もっとも金のかかる人件費を下げろとなって、部隊の編成定数は減るばかりだった。
しかも、国民にアンケートをとってみると、防衛力について、大方が「現状のままでいい」という答えが最も多かった。だが、「現状のままでいい」というのは、実は不勉強、無関心の結果ではないのか。戦車は高価だし、火砲も同じ、しかもそれぞれ維持費がかかる。それが定数削減のもっとも大きな動機ではなかったか。
大正時代の軍縮の実態は、やはり火砲と馬の削減だった。現役軍人の多くが馘首され、火砲は油漬けにされて倉庫にしまわれた。金のかかる軍馬も数を減らされ、予備馬も買い上げを制限された。
「もう戦争はない」「列国とは話し合いで協調せよ」「海軍は海洋国家だから必要だが陸上勢力は不要だ」「軍備はもったいないから捨てて、陸軍は国境警備隊と自然災害対処隊に改編せよ」とは大正時代のマスコミや当時の学者たちの論調である。
国民の多くも、それに賛同したはずだから「軍縮」は行なわれた。政党政治の力が強かった頃である。マスコミの煽動、学界人たちの言動の影響力は今と少しも変わりない。政党人は党利党略に走り、選挙ごとに大騒ぎになった。献金、供応、贈賄、買収、代議士の暴行事件・・・などなど。当時の代議士たちは、決して立派な人たちばかりではなかった。
現在はどうか。戦車や火砲は減らされ、入隊希望者は減り、人員定数はわずかに増えたものの、任務は大正時代よりはるかに広い範囲をもつようになった。海外派遣、災害派遣、先日は行方不明の少女の捜索、屋根を損傷した民家のブルーシートかけ。国民の生命・財産を守るのが任務だと与党政治家は胸を張るが、自治体は何をしているのか。
腹が立ってくるのはわたしだけではあるまい。それで「防衛力は縮小しろ」の数パーセントの回答者はいつも必ずいる平和主義者だから仕方がない。しかし、大多数の「現状のままでいい」という回答者たちは何を考え、何を見ているのか。国民の多くはきちんと学び、自分の意見をしっかり持った方がいい、などとは余計なお世話だろうか。
戦後初の国産戦車61(ロクイチ)式の採用
1961(昭和36)年に待望の国産戦車が制式化された。計画は1955(昭和30)年に始まった。技術的には10年間の空白があったとはいえ、米軍の供与戦車の整備や、オーバーホールを行なうことで、かろうじて技術的経験は積みあげられてきたのである。
国土防衛作戦における戦車運用は、欧州のソ連軍勢力との対抗を考えた米軍戦車用兵とは異なる。体格も異なる米軍規格を改めよう、より国土防衛戦にふさわしい主力戦車をもとう、そういった思いから新戦車は企画された。
基本設計は防衛庁技術研究本部、車体関係は三菱重工、砲塔関係は日本製鋼と分担が決まり、研究開発が始められた。
この戦車の開発の背景には1954(昭和29)年のMSA(日米相互防衛援助協定)の締結もあった。アメリカの駐留軍経費、いわゆる防衛分担金を削減する、その代わり日本の自主防衛努力をもっと高めるという約束である。昭和30年度の予算編成でクローズアップされたそれは、航空機や艦船の国産化が活発となったのだ。
なおこの61式戦車は1973(昭和48)年までに約580輌が生産された。
狭軌線路の制約
開発に際して問題となったのは、搭載砲の口径、車体重量、射撃統制装置、エンジン、そして鉄道輸送の条件などである。まず、砲については、列国の中戦車の砲口径は、アメリカ軍のM47、M48の90ミリ砲がスタンダードだった。ソ連は100ミリ砲を搭載するT54が出現しようとしていた。朝鮮戦争のT34/85の85ミリから一気に100ミリという大口径化だった。
戦車にとっては重量のことが大事になる。重ければ装甲も厚くできるが、エンジン運搬車などと悪口が言われるようではいけない。また、道路や橋梁、支援部隊の渡河材料の能力もある。そうしたことから重量は35トンを目標にして、砲の口径は90ミリとなった。
戦車の輸送は鉄道で行なうというのが原則でもあった。そうなると、大きさに限界が出る。トンネルや橋梁の幅、ホームの設備、さらには鉄道線路のポイントのカーブ・大きさも考慮に入れなくてはならない。そんなことから61式は幅と高さのバランスなどがいささか阻害された。
全長は8.19メートル(砲を前にしたとき)、車体長6.30メートル、全幅2.95メートル、全高3.16メートル、砲塔上面高2.49メートル、地上高さ40センチメートルと正面から見ると幅が狭く、大地に踏ん張っているという感じがしない。
M4イージーエイトと比べてみよう。M4の全長は7.73メートル、これは61式の砲身長が52口径だから約4700ミリもあるおかげもあっただろう。幅はM4が2.99メートルだから61式はむしろ狭くなった。高さはM4の2.98メートルに比べて14センチ高くなった。正面から見ると、M4はほぼ正方形だが、61式はいささか縦長のようになった。
車体の幅については、同世代のアメリカ軍戦車と比べよう。アメリカのM48、M60はそれぞれ3.60メートル、前回紹介したM41軽戦車も約3.3メートルだったことを思い出してほしい。
主な性能は、最高速度45キロメートル/時、登坂力31度、超壕力2.7メートル、超堤力0.8メートル、渡渉水深1.0メートル、最小旋回半径約10メートル。
砲の口径
後になって、やれ口径が小さい、先見性がないなどと「後出しジャンケン」の声が出る。しかも、それも自分が戦車に乗ることもないマニアや自称研究者が口に出すことが多い。
90ミリ砲の採用決定についてはいろいろな議論があった。狭い国土で戦うのだから76ミリで十分だという意見も出た。砲が小さくなれば戦闘室に余裕も生まれるし、軽量にもなるからその分装甲を厚くできる。搭載する砲弾数も増える。
しかし、結局、列強の主力戦車の趨勢に合わせて90ミリ砲になった。これはソ連のT55級の100ミリ砲搭載戦車に対抗できるようにするためだった。砲身の重量は1150キログラム、通常の後座長(発射の反動で砲身が後退する長さ)は300ミリ、最大初速1160メートル/秒である。時速に直せば4176キロメートルであり、約マッハ4だから速さが想像できる。もっとも、戦車の実包を撃つ場面を見れば、1000メートル離れた標的に当たるのが1秒ほどかかるから、意外とゆっくり見える。最大射程は1万9455メートル。
弾種というが、61式は5種類の弾を撃てた。曳光高速徹甲弾、曳光被帽徹甲弾、榴弾、曳光対戦車榴弾、発煙筒などである。車内に格納するのは50発だった。曳光というのは、戦車はふつう直接射撃(敵を直接見て、照準して撃つ)なので弾の後部から光を出して弾同を見せるからである。榴弾で撃つのは装甲のない車輌や建物などである。精密な射撃でなくてもよく、着発信管と組み合わせれば炸裂の光や煙が見えるからだろう。
機関銃は砲と連装されたM1919、7.62ミリと、12.7ミリ(キャリバー50)M2対空・対地機関銃各1挺だった。
戦車のエンジン
わが国が世界に誇っていいのが、戦車への空冷式ディーゼルエンジンの実用だろう。すでに戦前から水が乏しい満洲を想定戦場にしてきたから、89式中戦車(1929年制式)以来の空冷ディーゼルエンジンは得意分野だった。61式は4サイクル12気筒、2100回転の時、570馬力、最大トルクが約205kgm、90度V型、直接噴射式ターボ・ブロワー付エンジンとなった。
570馬力といえば、ふつうの乗用車の5倍くらい、トルクも10倍くらいになるからすごいようだが、出力重量比で考えれば大したことはない。普通乗用車が重さ1トンで100馬力なら、1馬力あたり10キログラム、61式戦車は35トンだから570で割れば、1馬力あたり60キログラムほどである。動きも鈍重にならざるを得ない。
空冷のメリットはエンジンに直接冷却の装置を組み込まずにすむ。ふつうの自動車エンジンにはラジエーターという、循環するエンジンの冷却水を冷やすシステムがついている。これに対して空冷エンジンは外側から空気を吹きつけるファンを付ければよい。その分、構造が簡単になる。ただし、水冷の方が冷却効果が高いので、ふつうエンジン出力を大きくできる。
2サイクルエンジンは、一回の燃料がもえるときにエンジンのピストンが2回動くという意味になる。4サイクルエンジンはピストンが4回の上下で、1回分の燃料が使われるということである。出力が高いのは2サイクル、燃料消費で有利なのは4サイクルエンジンとなっている。
ちなみに61式の燃料消費率は1リットルあたり350メートルとされた。燃料を補給せずに行動できる距離は約300キロメートルという。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)10月16日配信)