陸軍小火器史(48) 番外編(20)─日本の戦車の趨勢

はじめに

 話題が戦車のために「堅い話」になりがちです。脱線ばかりですが、いま、戦車の数がたいへんな勢いで減っています。今回はそんなことから始まって、履歴を消されそうな軽戦車M41についてお知らせしましょう。

第7「混成団」が編成を始める

 1955(昭和30)年3月には、30年度を初年度にして35年度までの「防衛六ヵ年計画」がつくられた。その特徴は、これまでの「歩兵師団」タイプの管区隊より規模が小さい「混成団」が企画されたことだ。「混成」というのは、戦前陸軍にもあった「独立混成旅団」という言葉でわかるように、諸兵科がバランスよく配分されたことをいう。混成団が編成された背景には、人員増も認められなかったこともあった。その編制は、普通科連隊4個大隊(12個中隊)に特車3個小隊、特科(砲兵)連隊は1個大隊3個中隊という。将来の13個師団体制にいずれ移行するための布石だった。
 同年12月1日、札幌市内の真駒内(まこまない)駐屯地に第7混成団本部を置き(現在は第11旅団司令部がある)、主力になったのは第18普通科連隊で警備区域は道南だった。このときの編制は、団本部、同付中隊、普通科第18連隊、第7特科連隊、同施設大隊、同偵察、武器、通信、補給、輸送、衛生の各中隊である。
 それが1961(昭和36)年2月28日には「機械化改編」が行なわれる。混成団(甲)と呼ばれるようになった。細かい話は煩雑になるので、おおまかなことだけ述べる。普通科連隊が3個あった。ただし、この普連には大隊がない。連隊長が直に本部管理中隊と4個小銃中隊、迫撃砲隊を指揮した。特科連隊は本部中隊、3個軽砲大隊(各105ミリ自走榴弾砲×10)、中砲1個大隊(155ミリ榴弾砲×10)、高射大隊(自走高射機関砲×24)となった。
 注目の特車大隊は本部管理中隊(軽特車×2、中特車×3、特車回収車)と4個特車中隊で構成された。特車中隊は各4輌の小隊3個と中特車×2と特車回収車をもった。この定数に対し、編成当初の実態は軽特車M24×2、中特車M4またはM41が59輌、特車回収車M32が5輌といわれる(『日本の機甲100年』P.85)。ここに「中」特車としてM41軽特車が出てくる。
 この第7機械化混成団にはほかに、施設大隊、通信同、航空、装甲輸送(60式装甲車)、武器、補給、衛生、偵察の各隊があった。偵察隊には隊本部、整備班、衛生班に偵察小隊3個である。各偵察小隊はM24軽特車7輌、本部以下に斥候、特車の各班、小銃、迫撃砲、無反動の各分隊というそうとうに強力なものだった。

戦場に出るなら61式かM41か

1961(昭和36)年8月、北恵庭にあった第103特車大隊にM41軽戦車が配備された。すでに1956(昭和31)年には第104特車大隊が編成されていて、第101、同103特車大隊とともに、第1特車群となっていた。群とは連隊とほぼ同じ戦力をもつが、独自の兵站機能をもたないものをいう。3個戦車大隊で成る戦車群、北部方面隊の貴重な機動打撃戦力だった。
このうちの1個大隊はM4からM41に改編されたのである。この戦車についても、葛原元1佐の回想を引用させていただこう。(「丸」2011年1月別冊『陸上自衛隊の戦車』)
「痩身ながら、高速でパワフル、パンチ力もあり、三拍子揃った軽戦車だった。夜間、マフラーからオレンジの炎を吹く後ろ姿はまるでジェット機のようだった。
特徴はエンジン部とトルコン部を一体化させたパワーパックにあり、エンジン出力がプロペラシャフトなしに直接、起動輪に伝わるため、エネルギー効率が高かった。しかも操縦はハンドル式、変速はレバーをスライドするだけで操作できた。
戦車砲は60口径という長砲身で高初速の76ミリ砲を搭載し、射距離は「バルスチックユニット」というアナログ計算機にハンドルを回して入力すれば、照準クロスが連動する新機構もあった。もし、戦場に乗って出るならM41か六一式か、意見の分かれるところであった」
また前掲の『日本の機甲100年』の93ページのコラムには、「61式戦車より優れたM41戦車」というタイトルで、車長用の測遠器と砲手用照準具が連動しており、自動的に射角が付与できたこと、バッテリー充電用に補助エンジンが装備されていた、操縦の変速機がオートマチックだったことで、61式戦車より優れていたようだと書かれている。

パワフルでパンチ力があった

 重量は23.5トン、全長は76ミリ×60口径だから4メートル65センチの長砲身のおかげもあるだろう、6.94メートルもある。高さは2.73メートルである。これはM24の重量18.4トン、全長5.49メートル、全高2.56メートルと比べると一回り大きかった。エンジンはM24の出力220馬力と比べると、600馬力の高出力だった。トン当たり馬力では、M24が約84キログラム/馬力、M41が約39キログラム/馬力だから機動力が高いのも当然だろう。まさにパワフルだった。
 パンチ力では、なんといっても76ミリである。しかも、『日本の機甲100年』にあるように照準システムが進んでいた。M41では砲手用の潜望鏡内には射撃用の射撃距離目盛りはついていなかった。照準クロスだけがついていたのだ。砲手席左側の上部にあるバルスチックユニットという射距離目盛りがあった。砲や連装機関銃の射撃では、バルスチックユニットの中の各種弾薬の目盛りに合わせたあと、潜望鏡内のレクチルを目標に合わせて撃つ。どんなシステムにも一長一短があるもので、砲手は必ず潜望鏡から顔をそらさないと射距離を合わせられない。しかし、射距離目盛りの設定は簡単な操作だったから比較的楽だったという思い出話がある。
 変速機が現在のオートマチックのようにノー・クラッチだったことも好評だった。エンジンにはオキジャリー(auxiliary)という補助エンジンがあった。万一、バッテリーがあがって始動しない時、このエンジンでバッテリーを充電して始動するシステムだった。これも大変、好評だった。
 ギアは高速と低速に分かれ、速度計はマイル表示だった。カーブによってのギアの選定には苦労した。カーブの角度に合わせたギアの設定が必要だったのだ。何より凄かったのは、「超信地旋回」ができたことだったそうだ。戦車は左右の無限軌道(キャタピラ、最近は商標名を嫌ってクローラーと表記することが多い)の速度差で車体を曲げる。回転半径といわれる曲がるときに旋回する幅を表す言葉がある。たとえば、国産の61式戦車なら約10メートルといわれる。
 超信地旋回というのは回転半径がゼロということだ。同じ位置で車体が360度回転することをいう。右の覆帯(りたい・キャタピラー)が前進、左は後退にすると、車体はその場で前後には動かず左に旋回する。右旋回は左の覆帯が前進、右のそれを後退にする。
「変速レバーを超信地旋回の位置に入れ、操作ハンドルを右(左)に引くと、車体は前進方向と反対(180度)方向に向くことができたのである」(「丸」2002年1月号『体験的機甲史・自衛隊の戦車』)

大変だった覆帯交換と安心の歩兵跨乗(こじょう)

 キャタピラー(覆帯)は多くの板がピンで結合してある。このM41のピンは丸棒ではなく、六角棒だったという。覆帯の中に組み込まれている枠も六角の型をした鉄がゴムによって支えられていた。そのため覆帯を結合して連結する時に、六角が合わないと六角覆帯ピンは結合できなかった(桑原文雄氏の証言・前掲「丸」2002年)。
 車体の最大幅は3.20メートルである。M4が2.99メートル、M24も2.99メートル。61式戦車は2.95メートルだった。つまり、他の戦車に比べ車体幅があり、砲塔側面から約30センチも広かったのだ。これは随伴して行動する普通科隊員にとって大変有り難いことだった。戦車乗員にとっても、安心ができたのだ。
 戦車の外側に歩兵が乗って移動することを跨乗(こじょう)という。このときに歩兵にとっては掴まりどころと、足の置き場が大事になる。ほかの戦車より、幅があり、砲塔が車体側面より多く下がっているから乗りやすい。
 記録にほとんど残らず、保存されている実車も見たことがない。小・中学生の頃に見たM41は懐かしく、いい印象をもっている。次回は戦車の数の削減について語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)10月9日配信)