陸軍小火器史(17) ─3年式重機関銃―

機関銃は頼りになった

 防衛研究所所蔵の『明治37・38年戦役死傷別統計』によれば、歩兵の戦死者の83.1%は銃創、つまり機関銃や小銃で撃たれた。戦闘は野戦と要塞戦に分けられるが、野戦では11万3559人(84.4%)が銃弾に倒れ、砲弾創は14.2%、白兵創はわずか1%、爆創(地雷や、手投げ弾などの炸裂する爆発物による創傷)は0.4%にしか過ぎなかった。要塞戦でも、銃創が67.7%、砲創は12.3%、爆創が8%、白兵創にいたっては0.8%にしかならない。
 ロシア軍は正確な記録を残していないが、銃弾による傷が同じように多かったことが想像できる。戦闘が終われば戦場掃除が行なわれた。遺棄死体や動けない負傷者を収容するが、その場合も銃で撃たれた敵兵が多かったのである。日本軍の場合は機関銃によるものが多かった。とりわけ旅順要塞や、野戦築城された陣地から撃ちだされたロシア軍機関銃からの被害が多かったのである。
 興味深いのは、この報告書では、死傷の原因の変化を日清戦役(1894~5年)、北清事変(1900年)そして日露戦役(1904~5年)で比較していることだ。結論は、銃創が減り、砲創が増えていることを指摘している。つまり銃創は88.3%から79.7%に減り、逆に砲創が9%から16.9%に増えていた。野戦でも明らかに砲弾による被害が増えていくことを示している。しかし、だからといって機関銃や小銃の地位が決定的に下がったわけではなかった。
 歩兵にとって機関銃は頼りになる。撃たれれば、発射音がしている間は誰も頭を上げられなくなる。味方の機関銃が掩護にまわれば、勇気も百倍になったと経験者の手記にもある。逆に味方の機関銃の発射音がなくなると、士気は阻喪(そそう)し、指揮官の声に応じて前へ進もうとする者もひどく少なかったという。
 戦争中、砲弾はいつも足りなかった。榴霰弾がいくら敵陣に降り注いでも敵の掩蓋はつぶれない。効果があった榴弾は生産数も少なかったし、配付する割合も榴霰弾の方が高かったのだ。ただし、機関銃弾が足りなくなることはなかった。小銃弾と共通だったし、機関砲隊は独自の弾薬馬をもっていたから補給が滞ることもなかったのである。
 1904(明治37)年6月の「得利寺」の戦闘では、第1騎兵旅団の第1繋駕機関砲隊が2300メートルの距離からロシア歩兵の密集縦隊に対して射撃を開始した。このことは当時、初めて行なわれたことだった。陸軍歩兵戦術訓練・教育を行なったのは戸山学校(現東京都新宿区)だったが、敵前2000メートルでは密集隊形で前進し、同500~600メートルを決戦射撃距離とする戦法を守らせていた。
 ところが、3000メートルくらいから野砲の榴霰弾が隊列を襲った。1000メートルに近づくと機関銃で射撃をされるようになった。『日露戦史』によれば、歩兵第42聯隊(山口)は敵前1200メートルで疎開隊形をとらざるを得なかったと報告されている。1500メートル以内では、機関銃の有無が勝敗に大きな影響を与えたのだった。
 また、連続発射による弾薬の消費が大きいのではないかという声に対して、戦場心理から説明があった。「敵が前進してくると歩兵銃手の緊張と動揺は大きくなってくる。まず、小銃は当たらなくなり、その点、冷静な器械である機関砲は照準にすぐれ、結果的に無駄弾は少なくなる」と説明された。
 ただ、ホチキス機関砲を改良した38式機関銃は故障が多かった。同時に、冷却が不足して銃腔内の摩耗がひどく、銃身の命数が1万発ほどしかなかった。弾着はちらばり、命中精度がひどく落ちた。こうした欠点を克服する改良された機関銃の開発が検討された。

大きく外観も変わった3年式重機関銃

 日本軍の重機関銃といえば、放熱用のフィンがつき、左から保弾板が差しこまれ、重厚な音がする。味方にとってはその「ドッ、ドッ、ドッ」という発射音がたいへん頼もしかったとされている。太平洋戦線のアメリカ軍からは、その発射速度の遅いことから、「ウッドペッカー(啄木鳥・きつつき)」とからかわれたというが、その威力についてはかなり恐れられていた。たしかに発射速度が遅いと敵に前進する機会を与えてしまう。発射速度の増減は遊底の重さや複座バネの力の調整で行なわれたが、450発/分というのは機関銃としては珍しく遅い。やはり、排莢不良、ジャムを恐れた結果だろう。
 機関銃は火砲と違って、まだ銃身内部の腔圧がひどく高いときに薬莢を引き出さねばならない。前にも説明したが、スムースに装てん、撃発、抜莢、蹴出を行なうには、微妙かつ精密な薬室や遊底まわりの形状、寸法の工作が必要である。なかでも薬室経始(テーパー)とヘッドスペース(頭隙、とうげき)が決め手になった。
 薬室に弾薬が入って、ボルトで押さえられる。弾薬は後退も前進もできなくなる。薬莢のある部分が薬室のどこかの部分につかえて前進できなくなるのだ。このときに薬莢が薬室につっかえている位置と、弾薬を押さえているボルトの先端(ボルト・フェイスという)との間隔、距離のことをヘッドスペース(頭隙)という。
 この頭隙には、微妙な公差、つまり「ゆとり」が設けられる。このゆとりが全くないと異物、たとえば目にも見えない砂塵などが入ると遊底は完全に閉じ切らない。無理に閉じれば、腔圧が異常に高まって銃身や機関部が破裂することもある。逆にゆとりがありすぎると撃針が薬莢の底につけられた雷汞(らいこう)に届かない、また打撃力が不足するといったことで撃発ができない。そして薬室内の高温のために薬莢が膨張し、薬室に貼りついてしまう。薬室のテーパーと弾薬のヘッドスペースが、滑らかな作動に大きく関係することが分かるのは、まだだいぶん後のことである。
 陸上自衛隊富士学校に作動可能な3年式機関銃がある。口径6.5ミリ、全長1204ミリ、銃身長726ミリ、銃本体重量26.6キログラムで、三脚もつけた銃全備重量が55.4キログラム。銃のカバーもあった。牛革製で銃を覆うことができた。その重量は1.3キログラム。
 伏射姿勢で高さが375ミリ、膝射姿勢では555ミリ。また三脚架の先は「棍(こん)」を差しこむ環がついており、前方に2本、後方に1本の脚がある。2キログラムの重さがある「後棍(こうかん)」は後部の脚に差しこまれるとU字の形になり、2人で持つことができ、合計4人で「臂力搬送(ひりきはんそう)」を行なうようにもなっていた。
 この機関銃には装薬を減らした専用実包があった。38式小銃実包の装薬2.14グラムを2.05グラムに減装することで、後方への反動を減らし、ガス量もまた少なくしたのだ。これではせっかくの威力も少なくなり、弾の低伸(ていしん)性も損なわれたのだが、おかげで薬莢がちぎれるような事故も少なくなった。また実用上の制限、200発/分を守っていれば銃身交換の必要はなかった。
 もう1つの解決策は伝統となった「塗油」である。保弾板挿入口の上部に油壺と塗布用のブラシをつけていた。蓋状(前方に軸がある)の板をあげると、少しも欠けていない短いブラシがみっしりと植わっている。実包は密着してこの下を滑るから薬莢にきっちりと油を塗ることができた。
 引鉄(ひきがね)方式は、のちの92式重機関銃の左右の親指で押す「押し鉄(おしがね)」式と違って、左右の人差し指で引く。銃尾には2本の木製の左右同形の把握部があり、縦の長さは120ミリ、間隔も120ミリで当時の兵士の手の大きさに合っていたのだろう。照準装置は銃身の右側にずれている。照尺は遊標(ゆうひょう・可動式の標尺)を前方に滑らせていくと上へもちあがる。これは接線方式あるいはタンジェントともいう独特な方式である。照尺は2200メートルから300メートルまで、縦100ミリの板の左右に数字が刻まれていた。
 銃身交換は銃身基部をおおう環をゆるめることで、交換銃身を装着できた。放熱する鰭(ひれ)は25枚もある。また外部に露出した銃身にも細かい鰭があった。ただの棒状ではない。工作の細やかさを感じさせるものである。
 機関部左側の保弾板挿入口には転輪部分(ローラー)がある。銃尾下部の槓桿を右手で手前に引くと、ローラーがおりてくる。左側の排莢口が同時に開く。また活塞(かっさい、オペレーティングロッド)が後退し、銃身の下にある活塞筒(チェンバー)から顔を出した。油缶には300グラムほどの油が入れられていた。2000~3000発の実包に塗られた。実包の送りは、組み合わされた板が活塞の運動により横に動く往復送り(シャトル)様式であり、ホチキス機関砲のような歯車式と違っていた。

散弾銃のような狙撃銃

 三脚架に装着されている機関銃は前面に付いている直径12センチの転把(てんぱ・円形ハンドル)を回すことで高さが調節できる。左右の振りは右手で方向緊定桿(きんていかん)というレバーを上に上げると自由に動いた。角度は60度までの刻みが鉄板に付けられている。レバーを下にすれば固定される。銃口の上下も機関部左側の緊定桿を操作することで自由に選べた。
 この優れた固定機能が3年式機関銃を「散弾銃のような狙撃銃」にしたという。兵頭二十八氏によって、そのメカニズムが解説されている。上下も左右も固定された機関銃は連続発射しても、その発射反動はすべて重量が引き受ける。理論上、弾道はすべて同じで、一点に弾着は集中するはずである。ところが、実際はそうはならない。
 なぜなら実包ごとに、工場での装薬充てん量の微妙な違いや、燃焼速度の差があるからだ。また射撃を重ねることで銃身は熱せられ、微妙な変化がある。そのため連射すれば、まるで網をかぶせるように左右縦横に被弾面が広がったのだ。600メートルの射距離では、たとえていえば弾着パターンが広がる散弾銃のように敵を捉えるわけだ。

「貧国弱兵」

 明治末期から大正、昭和初期のわが国は「貧国弱兵」だった。そう著作に書いたのは中原茂敏(なかはら・しげとし)陸軍大佐である。大佐は陸士第39期生、砲工学校高等科から東京帝大工学部の員外学生として学び、軍務局軍事課員、大本営兵站総監部参謀、企画院調査官、敗戦時には第15方面軍参謀として軍歴を閉じた。主に後方兵站関係の担当者だった。
 1989年に原書房から『国力なき戦争指導』という本を出された。帝国陸海軍の戦争計画の場当たり性、組織の欠陥などを鋭く説かれている。その中に明治以来の「富国強兵」の真反対の実態を表すとして使われたのが「貧国弱兵」という言葉だった。それを具体的に見てみよう。
 1907(明治40)年から11年までの5年間の合計で、陸軍予算は5億7000万円、海軍は4億円だった。11年にはほぼ同額の陸海軍それぞれ約1億円。国家予算全体のおよそ36%ほどである。
 世界大戦の結果を見て、海軍は八八艦隊、8隻の戦艦と8隻の巡洋戦艦という大主力艦隊を建設しようと考えた。1920(大正9)年には初めて予算化され、大正16年に完成させるということだった。1927(昭和2)年には軍事費が4億9100万円、内訳は陸軍2億1800万円、海軍2億7300万円で、総国家予算の28%を占めて、国民所得比の4.2%となっていた。
 ところがわが国の工業生産の内訳を見れば、重工業国家への道のりはまだ遠かった。重工業対軽工業の生産額の比率は、明治40年に33:67、大正末年に37:63、昭和7年にようやく45:55になってきていた。鋼材生産量も、明治の末には20万トン、大正半ばに60万トン、昭和初めには150万トンと伸びてはいたが、まだまだ欧米並みとはとてもいえなかった。
 機関銃隊を平時陸軍部隊の編制に初めて入れたのは1917(大正6)年のことだった。1個歩兵聯隊に1隊(6銃)ずつの配当である。師団は21個、歩兵聯隊は4×21、84個と台湾駐屯歩兵2個聯隊の合計86個である。歩兵聯隊は3個大隊(各4個小銃中隊)の合計12個小銃中隊に1個の機関銃隊を含むことになった。定員表には、大尉1、中・少尉・准尉4、特務曹長1、曹長1、軍曹・伍長9、上等兵17、1等卒34、2等卒68、上等看護兵1の合計136名となっている。ここにある准尉とは昭和期の准尉とちがって、少尉相当官の階級をいう。特務曹長がのちの准尉である。
 ただし年に9個隊しか編成されなかった。大正15年度までの10カ年で改編する計画だった。当初は38年式機関銃、大正8年からは3年式重機関銃が配当されるようになった。

輸出もされた機関銃

 わが国には泰平(たいへい)組合という兵器輸出団体があった。1908(明治41)年6月、三井物産、大倉商事、高田商会という3つの会社が共同出資して起こした会社である。もとから三井物産は明治の頃、英国ヴィッカース社の代理店だった。高田商会も英国アームストロング社の代理店、大倉商事はドイツのクルップ社とつながりをもっていた。
 泰平組合は、まず余剰兵器、つづいて新兵器についても輸出を目指した。日露戦後には多くの新兵器が制式化された。38という年式がついたものがそれらにあたる。歩兵銃、騎兵銃、野砲、12糎榴弾砲、15糎同、10糎加農などである。ということは30年式歩兵銃や騎兵銃、30年式速射野砲、同山砲などは払い下げが可能になった。当座の輸出は中国に指向された。中国は長い間のドイツとの付き合いがあり、国内情勢の不安定のおかげで、いつも兵器不足だった。そのドイツ製兵器の牙城に、果敢に挑んだのが泰平組合だったといえるだろう。
 この泰平組合が海外向けに作ったカタログがあった。『日本陸軍兵器資料集―泰平組合カタログ』(宗像和弘、兵頭二十八、1999年、並木書房)は宗像、兵頭両氏の力作である。そこから3年式機関銃についての記述をみてみよう。
 弾薬箱は歩兵用の甲と騎兵用の乙があった。甲は保弾板入りの紙函が18個、540発入った。乙は25個入りで弾数750発になる。真鍮製の保弾板は135グラムで、30発をつけ紙函に入れると830グラムになった。したがって甲に入る弾薬の重量は14キロ940グラムである。木製の箱の重さと合わせて19キログラム。この4箱を駄馬の背に載せた。
 運ぶ箱はさらにあった。属品匣(ぞくひんこう)という。分解器、スペアパーツ、工具、洗桿(せんかん)などを収める箱になる。重量は5.753キログラム。これは1個分隊(1銃)ごとに配付された。
 これに対して大きい器具箱があった。1個機関銃隊に1組である。したがって6銃で共同使用となった。歩兵隊用の甲、騎兵隊用の乙、左右2個で1組とした。
 左箱の入組品(いりくみひん)は保弾板修正器、万能ハサミ、万力(まんりき)、金剛砥(こんごうし、研磨用のザクロ石の粉末を固めた)などの工具類。それに脂肪缶3個(ワセリン1300グラム、複合脂650グラム)、油缶5個(常用鉱油2800グラム、石油700グラム)、携帯測遠器1台である。
 右箱には、第一予備品匣2箱(円筒、撃茎、抽筒子、蹴子などの予備品)、第二予備品匣1箱(撃茎、表尺板、送弾子坐、槓桿発条などの予備部品)、脂肪缶3個、油缶5個などである。重量は25キログラムで、これに予備銃身3本が付けられた。布でくるまれて器具箱といっしょに駄載された。
 これらを軍馬の背に縛着(ばくちゃく)した駄鞍(だあん)に装着していった。鞍は銃鞍と箱鞍に分かれ、それぞれ重量16.2キロになった。銃鞍は左側に銃身、右側には三脚架と属品匣を載せた。機関銃1個分隊は班長の下士官、射手の上等兵、弾薬手などの1、2等卒で合計12名である。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)3月6日配信)