陸軍小火器史(14) ─日露戦争を戦い抜いた30年式歩兵銃―
ご挨拶
みなさま、新年も瞬く間に過ぎた気がします。関東ではこの3連休、雪が舞いました。東北や北海道の皆さまには豪雪、寒気にお見舞いを申し上げます。
さて、2月9日、県下相模原市の座間駐屯地の第4施設群の創立記念式典にうかがってきました。雪が少し舞って、式典は急遽、体育館内に変更され、国歌斉唱から始まる厳粛な雰囲気で終始しました。来賓挨拶は、いつもながら誠実な佐藤正久外務副大臣で陸上自衛隊の基礎を支える精鋭、施設科(工兵)の重要な役割を語られ満場の拍手を浴びておられました。
祝賀会食は同駐屯地に在籍する在日米軍の各部隊の皆さんを交えての、日米両軍の絆をあらためて認識できた和やかなものでした。同時通訳を使わず、日米両国語で挨拶された陸上総隊日米協力隊長の野村将補のふるまいに深く感動しました。わが国語でスピーチをされるとすぐに息を継いで、見事な米語で同じ内容を語られたのです。
それにつけても年末来の某国海軍の暴挙についての進展はどうなのでしょう。加えて、その国会議長による無礼な言葉、天皇陛下に対する暴言です。「戦争犯罪人の息子」とは、なんとも呆れた表現でした。
これについてもわが国の対応を、わたしたち庶民にも知らせてもらいたいものです。それでは今回、少し長くなりますが、日露戦争を戦い抜いた小銃についてお知らせします。
30年式歩兵銃と騎兵銃
30年式歩兵銃は6.5ミリという小口径弾薬を使った5連発銃だった。『明治工業史』の記述によれば、「日清戦争で村田連発銃に不備の点が多くあった」とある。だから22年に制式化された村田連発銃は、わずか8年しか制式銃の地位が保てなかった。とはいえ、日露戦争でも動員された後備諸部隊では使われていた。また、口径8ミリの弾薬はマキシム機関銃の弾丸としても生産、補給がされていた。
東京砲兵工廠での新しい口径6.5ミリ歩兵銃の設計者は有坂成章(ありさか・なりあきら、1852~1915年)砲兵大佐だった。有坂は長州藩の支藩岩国の出身であり、1874(明治7)年、陸軍兵学寮に文官として出仕、82(明治15)年に砲兵大尉に任用された。この時代も、後になっても、陸軍では造兵技術のプロたちは砲兵や工兵科将校だった。
新小銃の要目は次の通りである。全長1275ミリ、銃身長795ミリ、重量3850グラム、最大幅は48.5ミリだった。村田連発銃に比べると全長で60ミリ、銃身長も49ミリ長くなった。ただし重量が約50グラム軽くなっている。
基本機構は諸外国の小銃に多くをならった。閉鎖機構はドイツのマウザーによってほとんど完成され実現化していたターン・ボルト・アクション(回転鎖閂式)である。撃針(げきしん、陸軍では撃茎といった)を内蔵した円筒形の遊底(ゆうてい)にはいくつかの突起が出ている。それをロッキング・ラグという。それらが銃の内部のロッキング・リセスというくぼみにかみ合って、がっちりと薬室をふさぎ、ガス漏れを防ぐのだ。遊底には槓杆(こうかん、ボルト・ハンドル)がついていて、90度に垂直に立てればロックが外れ、前後に動かすことができた。
ただし、おそらく参考にしたマウザーGew88小銃では、撃針がコッキング(後退制止)されるのは槓杆を垂直に立てたときである。これに対して、わが30年式小銃は垂直に立てて、後に引いたときに撃針がロックされた。薬室内にすでに実包が入っているとき、マウザーでは槓杆を垂直にし、おろせばすぐに撃発できた。これに対して、わが小銃は、立てる、引く、押すという三挙動を必要とした。そうした不利があっても機関部の製造工程では、そのほうが簡略化できたからだろう。この基本システムはその後の陸軍小銃に継承された。
安全装置は遊底の最後部に「副鉄」という部品がフックになっている。薬室に実包が入り、撃発状態になると14ミリ後部に突き出す。それを右に90度回すと安全状態になる。フックが垂直に立つので照門をのぞくことができなくなる。
騎兵銃とはカービンのことをいう。乗馬兵が鞍の上で取り回しやすいように歩兵銃の全長を切り詰めたものである。機関部はいじれないので銃身が短くされる。30年式騎兵銃は歩兵銃より銃身が310ミリ短く、重さも700グラムも軽かった。本来は騎銃と訳すのだが、おそらく機銃との混同を防ぐためだろう、日本陸軍では騎兵銃といった。負革(おいかわ、スリング)も背中で斜めに背負うことから、銃尾の左側に留め金がついていた。全長は965ミリ、銃身長は480ミリ、重量は3200グラムでしかない。行軍に苦しんだとき、歩兵と工兵たちは騎兵銃をうらやましがった。なお、初期の生産型では着剣するための台座がなく、後期になるとそれができた。
近代小銃がもたらしたもの
採用した6.5ミリ実包は全長が76.6ミリ、重さは21.5グラム、薬莢だけの長さは50.7ミリである。弾丸の長さは33.2ミリ、重さが10.4グラム、これを飛ばす炸薬量(無煙火薬)は2.11グラムで、銃口初速750メートル毎秒だった。弾丸にかぶせた被甲は銅80%とニッケル20%の合金である。薬莢は銅65%と亜鉛35%の真鍮だった。
8ミリから6.5ミリへの転換は省資源という観点からもたいへん重要だった。8ミリ弾は弾頭重量が15.6グラム。6.5ミリのそれは10.4グラムである。およそ3割減った。薬莢も含めて全重量では30.7グラムから21.5グラムと同じく70%と30%の減量となった。銅はほぼ国産でまかなったが、金属材料の多くを輸入に頼らざるを得なかった明治日本にとって、1つの会戦で数千万発を消費する小銃弾、機関銃弾の原材料を3割も節約できることは大きなメリットになった。
小銃弾は5発ずつクリップ(挿弾子、そうだんし)でまとめられ、3個で15発が1組となって紙箱に入れられた。紙箱から出された実包は弾薬盒にいれた。あるいは紙で梱包されたままかもしれない。弾薬盒は2種類である。前盒(ぜんごう)2個は腰の前に、後盒(こうごう)1個は腰の後ろにつけた。前盒も後盒も頑丈な牛革製で箱型になっている。
前盒の長さは150ミリ、高さは90ミリ、幅の上部は60ミリ、下部は30ミリで革の厚さはほぼ4ミリである。内部は2つに仕切られていてそれぞれ15発、クリップで止められた5発1組の実包が3組入る。これで合計60発。後盒は長さが174ミリ、高さ90ミリ、幅は73ミリで右側には油缶(あぶらかん)入れが付いている。内部は2つに分けられ、15発を一組として左右に2個ずつ、合計4個で60発をいれた。重さは実包60発を入れると約1.4キロになり、前盒の2個と合わせると2.8キロになった。兵士はこれらを太い革製ベルト(帯革、たいかく)に通して、銃剣といっしょに腰の周りにつけた。
陸軍兵士は近くによると、「汗と皮革と馬グソ」の臭いがするといわれた。これに加えて兵器手入れ用の油の匂いもあっただろう。30年式歩兵銃の日常的な手入れにはさまざまな道具が必要だった。後盒の右側には金属製の容量60グラムの油缶、左側には「転螺器(てんらき)、ドライバーのこと」が付けられていた。この他に遊底分解器、補助分解器、薬室検査鏡などと各種ブラシがあった。豚毛でできた、先の方が少し細い丸ブラシ(腔中手入用洗頭、こうちゅうていれようせんとう)、馬尾毛(ばびもう)で作られた腔中塗油用洗頭、同じく馬尾毛製の薬室塗油用刷毛、外部塗油用刷毛である。
陸軍が配付した『兵器保存要領』によれば、油とは鑛油(こうゆ)と油脂(ゆし)とそれらの混合油をいうものだった。「常用品の鉄部の防錆用、銃、砲の機関部、腔中、滑走部等の防擦用など」には鉱油であるスピンドル油を使った。またワセリンも粘度を調整するためにパラフィンも混ぜて使うことがあった。
また厳重に注意されていたのが射撃後の手入れである。「腔圧が高く、腔内に強摩する弾丸は瓦斯を腔内に堅く押しつける」ため、付着した汚れを取り除くことが必要だった。それを除くためには「腔中油」が支給された。この油は配合の重量比が決められ、スピンドル油70、オレイン酸9、カリ石鹸21というものだった。
オレイン酸は火薬の燃え滓(火薬燼渣、かやくじんさ)の溶解力が高く、腔内に付着した銅や鉛に作用して塩類にして除去を容易にするという。カリ石鹸はアルカリ性で火薬ガスによって生まれた水蒸気を加水分解し腔内のアルカリ性を高めるものだった。これらを怠れば、すぐに銃は錆びて、機関部は滑らかに動かなくなり、弾丸は照準通りに飛ばなくなった。
このように近代小銃は手入れだけでも厄介なものであるだけでなく、種々さまざまな物資や手間を要求したのである。
銃剣と着剣時の全長
先の大戦末期まで「牛蒡剣(ごぼうけん)」と愛称された銃剣の制式名称は「三十年式銃剣」という。片刃の刀剣型であり、のちに英国陸軍が1907(明治40)年に制定したリー・エンフィールド用銃剣にも影響を与えたとされる(『武器の歴史大図鑑』2012年・創元社)。
「三十年式銃剣」は、柄(つか)と剣身を合わせた全長は525ミリ、剣身だけの長さは400ミリ、溝が彫られ、前から190ミリまで刃が付いている。重さは680グラムとなかなか重い。鞘(さや)は薄い鉄製で、野外での訓練中や野戦では曲がってしまったという声もある。鞘から剣身が勝手に抜けないようにするために固定具が鞘の中に付いている。
剣を銃に着けるには、鐔(つば)の上部(龍頭)の環を銃口に通し、柄の上の溝へ銃剣止に止鉄体(してつたい)が固定するまで差し込む。外すときには、柄の左側後部にあるボタンを押して、前の方に引っ張れば抜ける。かなりきっちりした構造で、確実に固定できる。なお銃口からちょうど400ミリが突き出た形になった。
着剣すると全長は1670ミリ、1970(昭和45)年の17歳男子の平均身長である。1902(明治35)年の平均は158センチだから、日露戦争の現役兵の平均は160センチぐらいだろう。大きい人は砲兵や騎兵、工兵になった。普通の兵の場合、立て銃(つつ)をすれば帽子をかぶった状態とほぼ同じである。
対してロシア帝国の制式銃はどうか。1891(明治24)年に制定された口径7.62ミリ(3ラインという1ラインは2.54ミリ)、モシン・ナガン連発銃だった。口径は0.30インチにあたる。この口径はすぐイギリス、アメリカが採用した。陸上自衛隊板妻駐屯地(静岡県御殿場市)にはこのナガン小銃が保存されている。
その銃身長は802ミリ、銃全長は1290ミリで30年式より15ミリ長い。すごいのは銃の先にネジ留めされる銃剣(刺突用のスパイク、槍といったほうがいい)をふくめた長さである。なんと1730ミリもあった。しかも白兵主義のロシア軍らしく、照星にネジ留めするので簡単には外すことができなかった。ロシア兵はこの小銃で突撃を敢行してきたのだ。
白兵戦のために長くしたというウソ
まず、陸軍が白兵重視を打ち出したのは戦後の1909(明治42)年の歩兵操典の改正からである。それまではずっと「火兵」中心の考え方だった。1881(明治24)年の操典には、「歩兵戦闘ハ火力ヲ以テ決戦スルヲ常トス」とされていた。この頃には、歩兵は密集するのではなく、散開してそれぞれが射撃するのが当たり前だった。小銃の命中率が飛躍的にあがり、有効射程も肉眼で狙える限界の400メートルほどまでにも伸びていたからである。
日清戦争はこの操典にしたがって村田(単発)銃で戦った。もちろん「突撃」も行なわれた。ただ、多くはすでに抵抗の意思を失い、敗走する敵兵を追うものだった。もしくは陣地で動けなくなった敵兵を捕獲するための行為に過ぎなかった。野戦では、わが砲兵の榴霰弾によって多くの損害を出した敵はかんたんに戦意を失っていた。陣地戦、市街戦でも敵は銃撃戦で死傷者を出すと、すぐに動揺し陣地から逃げ出した。銃剣突撃はあくまでも勝利の確認のためにする行為だった。
白兵とは刃のついた武器のすべてをいう。機能的には「刃兵(じんへい)」とは斬撃を行ない、「鋒兵(ほうへい)」とは刺突をするもの、「刃鋒兵」とは前の両者を備える。刃兵は刀剣、鋒兵とは鉾(矛、ほこ)や槍(鑓、やり)をいい、刃鋒兵は西洋のハルベルト(矛槍)などの例がある。
ただ鈴木眞哉氏の指摘によれば、白兵は明治になってからの翻訳語であった(『謎とき日本合戦史』2001年、講談社現代新書)。フランス語では arme blanche(アルム ブランシェ)、ドイツ語にはBlankwaffen(ブランクヴァッフェン)、英語ではcold steel(コールド スティール)というが、そのうちのどれかの和訳だったに違いない。1881(明治14)年の参謀本部発行の文書にはフランス語からの対照として載っている。おそらくこの頃に採用された用語だったのだろう。
この白兵に対する言葉が火兵であり、火薬を使う武器の総称である。だから火兵重視といい、火力優先というのも、銃や火砲などが戦闘の主役であるという考え方になる。もちろん、陸軍である以上、接近戦では白兵を使って斬撃、刺突を行なうことを軽視するわけではない。それなりの訓練もするし、いわゆる銃剣術や格闘という用語もあった。日露戦争でもロシア兵の銃剣突撃を受けて、わが歩兵が立ち向かうという場面もあったことは確かである。
ところが、『偕行社記事』を読んでみると、「日本兵はロシア兵の銃剣突撃をうけると、なすすべもなく潰走した」という外国観戦武官の報告がみられる。またわが陸軍の記録の中にも、「塹壕の中ですくんでいるところをロシア兵に上から銃剣で刺された」とか、「格闘をしようとしても大柄なロシア兵に押しまくられ、倒されて刺された」という体験談が多い。体格的に劣り、小銃の長さも重さも勝るロシア兵に押しまくられる日本兵。長さでいっても60ミリも劣っている。そうした不利はすでに設計段階でわかっていたことである。
「あの長さは銃剣格闘で有利になるように決められた。あの精神主義が間違っていたんだ」という大東亜戦後の「恨み節」はどこからきたものか。今も昔も、小銃の長さや重さは、使用する弾丸の性能、その発射反動に兵は耐えられるか、兵が行動をする際の重量制限などを十分に考えて決定されるものである。そういう点から、30年式歩兵銃が生み出された経緯を考えなくてはならない。
また、外見からの特徴では、30年式歩兵銃は銃床をみると、しっかり握って照準するためにセミ・ピストルグリップ型になっている。これに対してそれまでの村田銃のように用心鉄から床尾までほぼ真っすぐなのがストレートグリップ型である。現在でも、上向きに撃つことが多い鳥の狩猟用の散弾銃などにはこのタイプが見られる。ロシアのナガン小銃はこのストレートグリップのままだった。ドイツのマウザー86年型やフランスのレベル93年型なども、この水平射撃の安定感にやや不足があるグリップの形である。
30年式歩兵銃(西洋流では97年型)はマウザー98年型、オーストリアのマンリッヒャー95年型と同じように、しっかり右手で握りしめられるように用心鉄より後の銃床がカーブを描いている。1891(明治24)年に制定されたモシン・ナガン歩兵銃はいわば流行遅れの形だったといえるだろう。ただし、銃を格闘に使う時には、強度でいえば明らかにストレートグリップが有利である。事実、30年式歩兵銃は戦場で転んだり、強い力をかけたりすると、しばしばグリップ部分が折れたともいう。
日本軍は遅れていたか?
この30年式歩兵銃は、日露戦争の戦訓から改良され、「三十八年式歩兵銃」へ進化をとげる。基本的には完成されたボルト・アクションの優れた小銃であり、海外でもアリサカ・ライフルといわれ、その評価はいまも高い。38式は正確にいうと制式化されたのは1906(明治39)年だが、日露戦勝を記念して名付けたものである。これを「明治の時代に造られた小銃を第2次大戦でも使いつづけた非科学性」といまも悪罵を放つ人がいる。そういう人は、きちんと列国と事実を比べて語っているのだろうか。
ジョン・ウィークス著、床井雅美訳の『第2次大戦歩兵小火器』(2001年、並木書房)にしたがってまとめてみよう。
英国陸軍は1895(明治28)年に制式化されたSMLE(ショート・マガジン・リー・エンフィールド)ライフルを1902(明治35)年に短く、軽量化し、39(昭和14)年に完成させたものを使っていた。ボルト・アクション5連発、口径は0.303インチ(約7.7ミリ)である。カナダでもアメリカでも、それぞれ100万挺の生産がされ、陸軍や海兵隊、英連邦軍にも配備された。マレー半島やビルマ、タイ、ジャワ、ボルネオなどアジア・豪州正面で38式銃と戦ったのはこれである。
ドイツ陸軍も1898(明治31)年制式の7.92ミリ口径マウザー銃を使っていた。5連発、ボルト・アクション。ただしKar98kという名称で知られるように歩兵銃の短小タイプだった。1935(昭和10)年に制式化された。ドイツは戦線の拡大にともなって動員兵力も増えて、いつも小銃不足に悩み、敗戦までこの生産を続けていた。
ソビエト陸軍はやはり日露戦争時と同じ、1891(明治24)年制式のモシン・ナガン小銃、口径7.62ミリ、5連発である。1930(昭和5)年に軽量化、短小化がされて、38年に追加されたカービン・タイプとともに、なんと1950年代まで主力小銃として使われている。
イタリア軍は「旧式で劣悪な性能の小銃」で第2次大戦を戦ったといわれている。主力だったのは1891年型のマンリッヒャー・カルカノ、口径6.5ミリ小銃だった。増口径はイタリア軍の悲願でもあり、口径7、35ミリ、ボルト・アクション6連発のカルカノM1938ライフルが製造はされたが、部隊での実用は少なかった。
フランス軍は1886(明治19)年に制式化されたルベル銃、口径8ミリ、管弾倉連発式を使い続けた。製造当時は世界中の既成の小銃をすべて時代遅れにしたものが、2次大戦中には骨董品として生き残っていたのである。もっとも1890(明治23)年に制定されたベルティエ・ライフルもあった。1936(昭和11)年にはMASモデル36ライフルが最後のボルト・アクション小銃として採用された。口径7.5ミリ。
最後はアメリカ合衆国軍である。初めに断っておくが、第1次大戦が終わって第2次大戦が始まるまでの「戦間期」に自動装てん式小銃に関心をもたなかった国はない。研究され、試作され、一部は実用テストもされたが、全軍に配布するように制式化したのはこの大国だけである。ただし部隊配備され、第一線で使われるようになったのは第2次大戦中のことだった。それまでは1903(明治36)年に制式化されたスプリングフィールド・口径7.62ミリ、5連発のボルト・アクション小銃である。日本軍が初めてセミ・オートマチック・ライフル小銃M1ガーランドに出会ったのはガダルカナル戦より後のことである。この小銃は撃発すると、自動で排莢され、続いて実包が薬室に送りこまれた。ただし、引鉄をひきっぱなしにしても機関銃のように連発はしない。そこでセミ・オートマチックという。
このように、わが国はむしろ完成されたボルト・アクションの連発銃を生産し続けた。改良の余地もほとんどないものだったからだ。その事情は列国も変わらない。ただ一つ、欧州諸国のように第1次大戦の塹壕戦を経験しなかったために、歩兵銃や銃剣の短小化はされなかったという事実がある。もちろん、30年式歩兵銃にも、38式同にもそれぞれ短小化した騎兵銃があった。
その性能は歩兵銃とほとんど変わらず、軽くて、扱いが楽といわれたものだった。これだけが惜しまれるところである。とはいえ、日本陸軍の主敵は極東ソ連軍であり、予想された戦場は広大な満洲北方の大陸だった。射界が密林でさえぎられ、せいぜい200メートルまでの南方戦線では小銃が長大に過ぎたといえるだろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2019年(平成31年)2月13日配信)