陸軍小火器史(36) 番外編(8)─予備隊の誕生さまざま―

ご挨拶

 先日は静岡県小山町須走にある陸上自衛隊富士学校の創立記念式典におじゃましました。天候は薄曇りで、用意した雨合羽も必要ではありませんでした。学校長の式辞、協力会長と来賓代表のお言葉だけがあり、とてもすっきりした構成でありました。
 例年、富士学校では、あるいはどこの駐屯地でも、政治家の方々が、入れ替わり立ち替わりご挨拶に立たれます。たいていが厳しい国際情勢についてお教えいただき、自衛隊に深甚の敬意を表され、地元災害への貢献を期待されるというどなたも同じ内容を話されるのです。
 それが与野党の差もない、老若、男女の差もなく、奇妙に一致されるという不思議な傾向があります。つまり、聞かされるわたしどもからすれば、憲法のこともなく、自衛隊への具体的な応援の話もなく(もちろん、たまに例外もありますが)、期待しているという言葉ばかり。
 そんなに大切な組織と思っておられるのか、ならばわたしどものように、自分の家族を自衛隊員にしているのでしょうか。寡聞ながら、佐藤正久(まさひさ)外務副大臣しかその例を知りません。
 今年は、そうした金太郎飴のような国会議員の先生方のお話もなく、たいへんすっきりした式典でした。ただ、お一人、今回、民主党時代に閣僚を務められ、先ごろ自民党の会派に移られた先生だけが、なぜ自分に話をさせないかと苦情をいわれたそうです。真偽は存じまぜんが、ああ、彼ならそういうだろうなと思いました。
 大きな変化の1つは、富士学校内に戦車がいなくなったことです。4月に機甲教導連隊が駒門駐屯地に発足しました。駒門にこれまで駐屯していた第1機甲教育隊、富士駐屯地内の教導団隷下の機甲教導隊、同偵察教導隊がそれぞれ廃止され、新しく機甲教導連隊として生まれ変わったのです。
 そのため、74式戦車、90式戦車、10式戦車が富士駐屯地内から姿を消しました。当日に私たちの前に姿を見せた戦車たちは、みな早朝に駒門駐屯地から走ってきた精鋭たちでした。観閲行進では、真新しい連隊旗をひるがえした装輪の16式戦闘車が連隊長を乗せて目の前を快走してゆきました。
 もう1つは陸上自衛隊調査学校の部隊・人員が参加したことです。迷彩服の襟もとからのぞく目にしみるような水色の部隊でした。はて、航空隊がいたのかと戸惑ったのですが、よく考えたら調査学校の学生隊だったのです。新しく学校ができて、はつらつとした隊員たちの整列でした。観閲行進では車輛の上にドローンが載っていました。

お礼

 Yさま、いつもご愛読ありがとうございます。たいへん元気が出るお励ましのお便りをいただき元気が出ました。これからも、事実を追究してゆくつもりです。引き続き、応援のほどよろしくお願い申し上げます。

服部卓四郎という大佐

 マッカーサー書簡による「警察予備隊」の設置の担当は、国家警察本部だった。参考書などには「国警本部」などとさらりと書いているが、前回で警察が国家警察と自治体警察に分かれていたことは説明した。
 国家警察を所管したのはGHQのG2(第2部・情報を主任務とする)だった。再軍備について深く関わったのは、その部長だったウィロビー少将である。彼はマッカーサー元帥の情報参謀を長く務め、日本陸軍をなかなかに評価していた。どうせ再軍備をさせるなら旧陸軍の人材と組織を活用すべきだと考えていたようだ。彼が、とりわけひいきにしたのは、元陸軍大佐服部卓四郎である。
 わたしなどは大東亜戦史に疎いから、その名前は聞いたぐらいだが、調べてみると陸軍中枢を歩いてきたトップ・エリートである。1901(明治34)年、山形県鶴岡市出身、仙台陸軍幼年学校から陸士34期を優秀な成績で卒業、陸軍大学校は42期の優等卒業、原隊は歩兵第37聯隊(大阪府)、のちにそこの中隊長も務めた。
 この陸士34期は秩父宮雍仁(やすひと)親王(大正天皇の第二皇子・昭和天皇の弟宮)が在籍した。同期生には、西浦進(にしうら・すすむ)、堀場一雄(ほりば・かずお)、赤松貞夫(あかまつ・さだお)などの各大佐といった戦後史にも登場する有名人が多い。どなたも敗戦後、生きながらえ、自分が関わった陸軍史についてしばしば語り、著作も残している。詩人の三好達治、昭和維新運動の青年将校たちに影響を与えた西田税(にしだ・みつぎ)なども同期生として知られている。
 服部の経歴の中で、とりわけ有名なのは、ノモンハン事件(1939年)で後輩の辻正信参謀と組んでの強引な作戦指導だ。もちろん負け戦でも、参謀には責任はない。指揮官たちは予備役編入や、悲惨なことに(強制)自決といった処分がされたが、彼らスタッフは一時的に左遷されるが、すぐに復活する。しかも、服部は「東條閣下のお気に入り」といわれ、戦時中のいっとき、東條首相の副官も務めていた。
 ガダルカナル戦(1942年)のときは参謀本部作戦課長であり、部下の兵站班長は辻正信中佐だった。服部は現地視察を行ない、「補給路は確立されつつあり、兵站には不安はない」と虚偽の報告書を書いたとされている。それが大量の餓死者を出した。ノモンハンの精神主義、ずさんな兵站計画を立てたコンビ、服部と辻の再登場だったわけだ。
 評論家の保阪正康氏などは、この服部に対してひどく点が辛(から)い。「責任ある立場にあって、最も無責任だった軍人」とまで言う。それは戦中のことはまだしも、戦後の生き方も問われているからだ。服部はGHQに取り入り、(本人はつらかったというが)戦後28年には『大東亜戦争全史』という巧みに構成された著書までものにしている。しかも、ウィロビー少将を中心にしたG2では、服部を最高指揮官にした「新日本国防軍」を構想し、それにうまうまと服部とその周囲は乗ったのである。

服部機関の再軍備計画

 多くの庶民は飢餓の中にあり、上官、部下、同僚の多くが公職追放の憂き目にあったなかで、服部は変名を使って第一復員省(元陸軍省)にもぐりこんだ。歩兵聯隊長を務めていた中国からもGHQの指令で、聯隊の中でもいちはやく復員してきていたのである。第一復員省(元陸軍省)史実調査部長という肩書だったが、ウィロビーの指示でマッカーサー将軍賛美の「太平洋戦史」を書くためだったという。
 この服部が人集めの中心になって、元陸軍高級将校たちのグループができた。戦史をまとめる作業を行ない、GHQ・G2から特別な給与を出されていた彼らは1948(昭和23)年頃から「国防軍」建設計画を練り始めた。率直な感想をいえば、こういう存在を生むところが戦後社会の「陸軍嫌い」の元になっているのではないだろうか。
 多くの民間人を悲惨な戦場に引っ張りだし、ずさんな計画で殺してしまった連中が、敗れた責任をとるわけでもなく、占領軍の庇護をうけながら、ぬけぬけと再軍備計画を立てたのである。わたしは誰がどう弁護しようとも、この服部機関の人々を好きにはなれない。
 
 1950(昭和25)年の初頭には、4個師団を基幹とする「国防軍」の編制ができあがった。そのおおよそは次の通りである。
 総帥として天皇をいただき、総理大臣を国軍最高司令官とし(ただし、大元帥命令の範囲において統帥を専断する)、参謀総長は国軍最高司令官を兼ねて(陸海空)3軍を統合する統帥機構を総括する、国防大臣は軍事行政を総括するとなっていた。前の大戦の敗戦の原因の1つに陸海軍が一致協同しなかったことを反省し、3軍の統合運用を図り、中央機構の整備をしようというのである。
 米軍の指導もあおぐが、米軍式の直訳的な制式や方式によらずに「自主的軍隊」の建設を目指すというものだった。
 将来の見通しも立っていた。10年前後のうちに朝鮮半島を舞台とした米ソ戦争が起きる。その際は緊密な日米軍事同盟のもとにアメリカ側に立って参戦するというものだ。空軍は保有2000機、人員10万名、陸軍は15個師団、同20万名、海軍艦艇10万トン、同3万名と具体的な数字もあげてあった。
 しかし、その国軍最高司令官に服部卓四郎元大佐が就任するというのである。語るに落ちるとはこのことだ。服部機関といわれたこの組織の構成者はみな、戦前からの服部の部下たちだった元中佐、少佐クラスである。師団長や航空隊司令などの人選は、みな彼らが自分で名前を書き込んでいた。
 この計画は結局、G2と対立する民生局の反対にあった。政府内部でも、「あの東條の秘書官だった服部大佐か」と驚きをもって迎えられた。軍人だらけのG2の視野の狭さもあったのだろう。民間研究者が多かった民生局の対立もあったが、吉田首相による拒否がもっとも大きかったように見える。そのかげには辰巳栄一(たつみ・えいいち)元陸軍中将による口添えがあったらしい。
 辰巳中将は元英国大使館付武官として駐英大使だった吉田茂と親しくなり、戦後も吉田の軍事顧問のような役割を果たしていた。以前、産経新聞にもその伝記が載った。話題となったのは、10年ほど前に米国公文書が公開された時のことである。辰巳元中将が自衛隊創設に関わるものや内務省文書をCIA(中央情報局)に送っていたということが、ある研究者の調査で明らかになった。彼もまた、しっかりアメリカの工作員だったのである。

マッカーサー書簡、ポツダム政令

 当時のアイケルバーガー米第8軍司令官は危機感をもっていた。次々とアメリカ軍が撤収し、極東空軍だけの兵力になったら、空軍だけではとても日本は防衛できない。赤化分子、ないしはソビエトの勢力が浸透し、南樺太もしくは千島から一気に侵攻がされるかもしれないというのである。
 さらに国内赤化の危険地域は、日本の警察軍(コンスタビュラリー、Constabulary)を増強するほうがいいと日本駐留の第8軍は認識していた。1950年1月1日、マッカーサー元帥は年頭の声明で、「日本国憲法は自衛権を否定していない」と明言もしている。この年は、1月10日、東京警視庁ではS&W拳銃を警察官全員に配布した。沖縄県には恒久的基地を建設するとGHQが発表する。引き揚げ促進協議会の発表によると、ソ連残留者がなお1万9000人を数えると発表した。
 6月17日、米国特使ダレスは日本政府に「限定的な再軍備」を宣言する。しかし、ときの総理吉田茂は「国民感情といい、経済状況といい、とても再軍備などと言い出せるわけもない」と拒絶した。
 ところがである。その1週間後の6月24日、T34戦車を先頭に押し立てた北朝鮮軍が突如、38度線を越えて韓国に侵入してくる事態が起きた。火力、対機甲戦力も乏しかった軽師団にしか過ぎなかった韓国軍の4個師団はなだれをうって敗走する。26日には首都ソウルも陥落した。マッカーサーは直ちに韓国の救援を決めた。
 最近でこそ、ソ連と中国の了承をとった北朝鮮の金日成主席による侵攻だと解釈も確定したが、長い間、アメリカの陰謀、はたまた韓国の侵攻といった宣伝を信じる人が多かったことを付け加えておこう。ついこの間まで、「北朝鮮は平和愛好国家であり、日本人を拉致などするわけがない」という大学教授や革新政党の議員がいた。そのことを忘れていないのはわたしだけではないだろう。
 法務府や国家警察本部は、ただちに国内在留外国人の動向監視を指令した。スパイ活動や妨害工作への備えである。29日には福岡県板付基地周辺に空襲警報が出された。
 7月8日、マッカーサー元帥は、吉田首相にあてて「日本警察力増強に関する書簡」を送った。7万5000人からなる国家警察予備隊(ナショナル・ポリス・リザーブ)の創設と、海上保安庁定員の8000人増員に必要な措置を取ることを許可するという文面である。許可というと申請、もしくは嘆願があってのことかを連想するが、これは命令ということになる。占領下にある政府は、GHQに逆らう自由はない。しかも当座の経費は、一般会計予算のうちの公債償還の割当基金から流用するようにというお達しである。
 7月14日には、GHQは部隊育成指導のために米軍顧問機関をおいた。17日に政府に出された大綱(たいこう)案は次の通りだった。

  1. 事変・暴動に備える治安警察部隊である。
  2. 中央に本部を置き、全国を4つの管区に分ける。各管区に部隊を置く。
  3. 総理大臣の直轄で、その下に専任の国務大臣を置く。
  4. 総理大臣は本部長官を任命し、長官が警察予備隊を統率する。
  5. 治安警察隊にふさわしい機動力をもち、拳銃・小銃等の装備をする。

 これはどうみても再軍備だろう。4個管区隊とは4個師団のことである。どうして、国民全体の議論にならなかったのか。国会でどうして審議されなかったのか。この理由は、ポツダム命令(管理法令)にあった。このポツダム命令をみな忘れ、あるいは忘れさせられてきたのである。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)7月17日配信)