陸軍小火器史(35) 番外編(7)─予備隊・保安隊・自衛隊―
ご挨拶
九州その他の地域の豪雨災害に遭われた皆様、いかがおすごしでしょうか? 陸自をはじめ、自衛隊の皆さまも災害派遣お疲れ様です。いつものことながら、対策には、さまざまな課題が見つかり、見直しが始められているとのこと。担当者はご苦労ですが、少しでも早くより安心・安全なシステムの構築をお願いいたします。
さて、少し、息を抜いて、陸上自衛隊駐屯地の資料館紹介から、派生して出てくる雑談などをしてみます。資料館に入ると、たいていの館内構成は「旧軍コーナー」、「自衛隊コーナー」と分かれています。もちろん、自衛隊コーナーでは「海外派遣」、「国際貢献」、「災害派遣」などと細分化されて、活躍ぶりが丁寧に紹介されています。
しかし、自衛隊コーナーの初期の部分、警察予備隊、保安隊のことになると、説明も簡単です。遺品も案外少なく、初期のM1ガーランド小銃や、M1カービンなどがあるところも少ないようです。
わたしが生まれたのは昭和26(1951)年で、わが国が「独立」を果たした年になります。いわゆるサンフランシスコ条約の締結で、日本は連合国による長い「占領」を脱して、ようやく独立国になりました。私事ですが、わたしの名前の「肇」は「国肇(はじむ)ること」の「はじめ」になったのは、そこからです。
わたしが小学生の頃に「管区隊」が師団になりました。自宅近くの川越街道には神宮外苑でパレードを終えたM24チャーフィー軽戦車が走り、沿道から拍手を浴びていました。やはり近所の中仙道ではM4シャーマン中戦車が行進し、都電の敷石近くにキャタピラーの跡が残り、「大きいなあ~」と友達と叫んだ記憶があります。
そんなことを駐屯地の資料館は思い出させてくれます。
マッカーサーの書簡から始まるといわれる再軍備
若い読者にも理解してもらいたいので、知識のある方々には辛抱をしていただこうと思う。まさに「学校で教えない近・現代史」である。まだまだ当事者の関係者もおられ、どころかその当事者自身が生存していることすらある。
また、敗戦後の占領時代には、社会に混乱をもたらした勢力がいた。そして、現在もその考え方を継承する人々もいる。それが厄介な戦後民主主義社会というものだが、聞きにくいこともとりあえず聞いてほしい。
わたしは、ただの時代の探究者であり、過去の人々の行為や、出来事を評価する立場に立つことはない。これから語ることは、手に入った事実の他にはすべて個人の感想にしかすぎない。
尊敬する元陸上自衛官の葛原和三1佐の教えにしたがえば、1871(明治4)年に発足した帝国陸軍は74年間の歴史をもった。陸上自衛隊の前身である警察予備隊は、1950(昭和25)年7月8日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の指令によって創設された。
戦争に敗れ、憲法を変えさせられた。圧倒的な武力をもつ連合軍によって、わが国は占領されていた。その憲法には、国の自衛権の一部である交戦権すら認められていなかったのである。アメリカは平和国家の建設をいい、非武装を押しつけた。わが国の非軍事化と民主化が連合国軍総司令部(GHQと略称した)の基本方針だった。
ところが、国際情勢が変わった、アメリカは今度は自前の軍隊をもてという。
その時から2019(令和元)年の今年は、70年目にあたる。帝国陸軍でいえば、1941(昭和16)年になる。その後のわが国の命運を決めた、まさに日米開戦の年にあたる。組織としての帝国陸軍が敗亡への道を踏み出した年でもある。
いま、憲法改正をして自衛隊を国軍化せよという輿論がある。その一方、頑なに平和憲法を守ろうと主張する勢力もいる。どちらが正しいかは、まだ誰にも言えることではない。せいぜいが好みの問題として互いに罵りあっていると言っては言い過ぎだろうか。もちろんわたしは、信条として自衛隊の国軍化に賛成だが、反自衛隊、反日米同盟を語る人を説得する自信もない。
なぜかというと、両論には大きな問題があるからだ。警察予備隊の発足が、すなわち再軍備の礎(いしずえ)が、占領軍の決定によるものであって、当時の国民みんなが議論した結果ではなかったことである。そうして、警察予備隊は保安隊となり、自衛隊と姿を変えて現在につながっている。そのルーツを知り、防衛力の再建の過程を知ることは、少しでも健全な判断につながると思っている。
中国大陸の国共内戦の影響
陸海軍720万の復員は着々と進んだ。外地からは370万の陸海軍軍人・軍属が次々と帰国をしていた。もちろん、ソビエト連邦(現ロシア)による不当なシベリア抑留等は別である。ついでにいえば、わが国が受諾したポツダム宣言には、「連合国は領土的野心をもたない」と明記されていたのに、ソ連はそれも破った。わが「北方領土」に侵攻し、自国の領土としていた。
よく無条件降伏をしたのだから・・・などとしたり顔をする人もいるが、ポツダム宣言には「日本軍の無条件降伏」と明記されている。国家そのものは無条件降伏などしていない。
GHQ(連合軍総司令部)と総称されるが、わが国の民主化を進めたアメリカの事情は詳しい研究がたくさん発表されている。それによれば、ひたすら非武装化を進める勢力に対しアメリカ本土政府はブレーキもかけた記録がある。以下は、『警察予備隊の創設と日米軍事思想の葛藤』(葛原和三、「陸戦研究」2010年)に多くをよっている。
米国務省極東アジア局は、1948(昭和23)年4月に「日本にコーストガード(沿岸警備隊)を含めた警察組織の強化が必要だ」と意見を出した。それは、日本軍が撤退したことによる中国大陸の国民党と共産党の内戦が激しくなってきたことによる。しかも、毛沢東が率いる共産党の勢力が圧倒的になってきた。
それによって、アジアの安定が損なわれ、日本がソ連の支配下になることも起こり得る。そうなると日本列島は西太平洋の米軍基地への攻撃基地となるだろう。ここからアメリカはわが国に基地をもち、それを維持する権利の確保が必要になった。日本の限定的自衛力の保持の必要性も米統合参謀本部は主張を始めたのである。
誰も「戦後」を覚えていない
鴨下信一さんとおっしゃるテレビ演出家がおられる。その方が、「忘れてしまった戦後」を知ることが大切だという。文春新書から『誰も戦後を覚えていない』という本を2005(平成17)年に書かれた。
「食糧難、銭湯、列車の殺人的混雑、間借り、闇市、預金封鎖、ラジオ文化など、日本の最も長かった誰もが忘れかけている、あの5年間」とある。鴨下さんは1935(昭和10)年生まれだから、わたしより16歳も年長になる。
氏によれば、戦後は3つの時期に分かれるという。「敗戦後」、これは1950(昭和25)年に朝鮮戦争が始まるまでの5年間。つづいて「終戦後」といわれた5年間、そうして1956(昭和31)年からが「戦後」という分け方だ。鴨下さんは10歳から敗戦後の社会で育った。東大を出たのは、わたしが小学校に入った頃である。だから記憶の幅と質がずいぶん違う。
実は戦後の共産党、社会党、労働運動の激しさ、教育界の左傾のことなどをどれだけ書かれたかを探して真剣に読んだ。ところが、シベリア抑留の話は書かれているが、せっかくの敗戦後の思想運動のことは書かれていない。そりゃそうだろうと、わたしは読後に思った。東大の美学科を出られてからテレビ界で活躍された人である。反体制的気分も十分にある業界だろう。とても、当時の左翼運動家の実態など書けなかったのだ。
占領期の混乱は、あらゆるところで起こった。とりわけ思想界、歴史学界などでは弾圧された戦前への反動から、一気にマルクス・レーニン主義、唯物史観がまったく正しいとなった。苦しかった戦争はすべて、軍国主義者と騙された大衆のおかげで起きたことになった。日本軍は愚かで、残虐で、非人間的で、特別攻撃隊員までが犬死になどとバカにされた。
今からでは信じられないことに、アメリカに占領されているくせに、ソビエトを祖国と呼び、革命を起こしてアメリカ軍を追い出そうと主張する人もいたのだ。もちろん、中国は偉大な毛主席に指導された人民中心の正義の国だった。北朝鮮もそうである。すでにこの頃から「地上の楽園」といい、朝鮮戦争すら米韓連合軍の謀略で起きたと一部インテリは説いた。資本主義国家による侵略だと決めつける人までいた。北朝鮮は被害者であり、アメリカを中心にした国連軍は、正義の軍隊である中国義勇軍によって懲らしめられたという人もたくさんいたのである。
朝鮮戦争になって予備隊が計画されていたのではない
1949(昭和24)年8月29日、ソ連は原爆実験に成功した。「きれいな原爆」とソ連びいきの人々は言った。アメリカ帝国主義のもつ汚い原爆への対抗手段として、評価したわけだ。つづいて10月1日には大陸に中華人民共和国が成立する。
このころ労働争議もあいついだ。なかでも大規模だったのは昭和23年4月8日に起きた「東宝争議」である。1200人の人員整理に反発した労働組合がスト。武装警官2000人と米軍戦車7輌、飛行機3機、騎兵1個中隊が出動と新聞記事にある。信じられない記録もある。大阪で緊急採用した新人警察官400人の本採用を取り消した。応募動機の多くが「悪いことをするには警官の制服が都合がよい」ということが分かったためという。
昭和24年にはシベリアからの帰還者240人が共産党にいっせいに入党する。このころ、共産党員によるテロや強盗事件などが起こる。大作家松本清張などは、ぜんぶ米軍やCIAによる謀略だと後になっても書いている。国鉄の下山総裁が変死体となって線路上で発見されたのもこの年、7月のことである。中央線の三鷹駅での電車暴走もこの月、8月には有名な松川事件も起こる。いずれも国鉄の人員整理にともない反発していた労組員に疑いがかかった。
いま民間企業JRとなって鉄道員はずいぶん大人しくなった。乗客による暴力にさらされたり、暴言を受けたりするそうだ。しかし、わたしは忘れていない。子供の頃から青年にかけての時代、国鉄職員は荒れ狂い、列車を勝手に止め、それを「正しい闘争」だといっていた。
わたしと同世代の駅員は運動靴のかかとを踏みつけ、腕には「ベトナム戦争反対」とか「米帝国主義粉砕」とかの腕章をつけていた。駅構内で勤務時間に集会を開き、シュプレヒコールをあげていることはしばしばだった。改札口では、お客に対して「おい!お前」である。上司の駅長や助役、鉄道公安官にも数を頼んで暴言を吐き、暴行も加えていたのだった。
ほんとうのところは分からない・・・ということになっている。しかし、社会がほんとうに貧しく、荒れていたことは間違いない。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)7月10日配信)