陸軍経理部(42) ―軍馬の話(28)

はじめに

 あたらしい発見や仮説は、「権威者の言うことを疑え」「教科書を信用するな」ということから始まりますね。先般のノーベル賞受賞者の本庶先生のおっしゃる通りです。今回の「元寇」についてもまったくそのようなことが言えます。
 本稿ではあえて戦術用語や組織用語も現代のような書き方をしております。

壱岐奪還を目指した6月29日の攻勢

 志賀島を占領した蒙古軍。しかし、さらに海を越えての博多へ上陸はできなかった。糧秣や武器などの補給は壱岐からの海上輸送にたよるしかない。日本軍はこれを妨害し、兵站地である壱岐を奪回しようとした。
 これには薩摩国御家人が多く参加していた。比志島時範(ひしじま・ときのり)の文書に「6月29日、蒙古人の賊船、数千余艘、壱岐島を襲来のとき、かの島に渡り向かった」とある。また、時範とその親族が「あいともに、長久(島津大炊助)の乗船に乗り組んで壱岐島に渡った」と記録に残る。肥前国龍造寺家清(りゅうぞうじ・いえきよ)宛ての北条時定(ほうじょう・ときさだ、肥前国守護)書状の中には、「7月2日に壱岐島瀬戸浦で合戦したということ」がある。
 壱岐攻撃にあたって、日本軍は肥前国松浦郡呼子(まつうらぐん・よぶこ)、あるいは近くの名護屋(なごや)から出撃した。呼子は佐賀県北西部の東松浦半島の北端にある。玄界灘からの天然の防波堤にもなる加部島(かべしま)をもち、壱岐、対馬を経て大陸に渡る道のりの出発点だった。名護屋はのちに豊臣秀吉の朝鮮出兵の根拠地になった。それというのも、加部島が北西の季節風をさえぎり、周囲に良港が多かったことからだろう。
 呼子から壱岐までは海上およそ6里、24~5キロだった。当時の帆を張った1人漕ぎの小舟が半日で着いたらしい。主力は肥後国御家人たちで守護北条時定が率い、予備隊は薩摩国御家人たちであり、指揮官は島津大炊助長久(しまず・おおいのすけ・ながひさ、守護島津久時の弟)だった。
 前回紹介した高麗軍人張成(ちょうせい)の墓碑銘を服部氏が紹介している。
「自分の率いる部隊は、休息をとり補給をするために、いったん壱岐に戻った。6月29日から7月2日にかけて賊(日本兵)がまた攻めてきた。これも撃退し、多くの敵の武器を鹵獲した」

江南軍が鷹島にやってきた

 降伏した宋軍で構成された江南軍がやってきた。寧波(ニンポー)を出発したのが6月26日(元史による)、高麗史には18日とある。病にかかった阿刺罕(アラカン)に代わって阿塔海(アタハイ)が指揮官になった。総勢、約10万という伝承がある。高麗史には戦艦3500艘ともあるが、どちらも「白髪三千丈(はくはつ・さんぜんじょう)」の大げさにいう国のことである。誇大にことを書くのは今も昔も変わらない。
 朝鮮から出撃した東路軍は9960人、梢工水手1万7029人という精密な数が残っている。これに蒙漢(蒙古兵と漢人、北方の女真族)軍が加わるから、兵士だけなら1万数千人と服部氏も想定される。江南軍は大規模だとして2倍としても、戦闘員は両軍合計で3万人くらいだろうか。対して日本側は、少弐景資(しょうに・かげすけ)が500騎だから総兵力は1500人か2000人くらい。九州全土で3万人くらいだろうか。
 鷹島(たかしま)は長崎県北松浦郡にある面積17.1平方キロメートル。伊万里湾の口にある。地形は台地状で平坦な農耕地が開けるが、海岸付近は急傾斜でリアス式の海岸に良港が点在する。江南軍は21日に朝鮮の済州島、25日過ぎに五島北端(宇久島・小値賀島・うく、おじか)に着いたらしい。
 五島とは五島列島をいう。長崎市の西、およそ100キロのところにある。北東から南西方向に約150キロにわたって、島数は141にもなる。もともと宇久と小値賀は古代には遣隋使、遣唐使の寄港地でもあった。大陸との連絡にはなじんだ所だったから、元の宋軍将士にはよく知られているところだっただろう。
 馬は大量の水を必要とする。1日に25リットルから30リットルを消費するし、放牧して青草も食べさせなくてはならない。2万の陸兵なら、乗り換えの馬も入れて6000頭と考えたら多すぎるだろうか。
 五島列島や鷹島でも戦闘があったと思われるが、記録はない。肥前国御家人たちは呼子に集結していたから事実上、無抵抗であったのではないか。7月初めには平戸島、15日には鷹島にやってきたのではないかと思われる。平戸島は長崎県北西部になり、北松浦半島の西側になる。南北約40キロ、東西約10キロで、幅約570メートルの平戸瀬戸をはさんで本土の田平(たびら)に対面している。海岸線は複雑だが、南海岸は比較的単調である。山地や丘陵地が多く、兵站補給に役立つ場所は少ない。
 鷹島に着いた江南軍のもとに、張成が率いる部隊がやってきた。補給、もしくは兵員の休養のためだろうか。7月27日には鷹島で激戦があった。張成は艦船の迎撃態勢を整えて、日中から夜に至るまで日本軍を皆殺しにする勢いで戦ったという。明け方になってようやく日本軍は引き揚げていった。
 過去の学界の大家の解釈では、元軍が志賀島を放棄して全軍が鷹島に向かったとしたが、これは誤りだった。博多への侵攻のために必要な志賀島を放棄するわけもない。しかも、志賀島は要塞化されてもいた重要な拠点だったのだ。江南軍の目標はあくまでも博多の制圧であり、続いての内陸進撃、大宰府の攻略だった。鷹島は給養、整備のために碇泊したもので、志賀島での東路軍との合流こそが当面の目標である。

閏(うるう)七月朔(さく)の暴風と残敵掃討戦計画

 わが国の暦では閏(うるう)7月1日、元暦では8月1日に台風がやってきた。鷹島周辺の艦船が被害を受けて沈んだ。元史にも「風破舟」とあり、張成の墓碑銘にも「海風が舟を壊し、軍は京に引き返した」とある。いまも鷹島海岸や海底には蒙古軍の遺物がある。
 閏7月1日は太陽暦の8月23日にあたる。いまも台風シーズンである。九州から動いたこの台風は当時の都にも吹き荒れた。1日の夜になってから嵐になった。幕府の記録にも、「30日夜から翌日の閏7月1日に大風」とある。この大型台風は先般、関西地方にも被害をもたらした台風のように、ふつうの台風と異なり日本海方面に北上しなかった。山陰地方を東北東に向かって、京都の北に抜けていったと思われる。
 5日には博多湾で総攻撃が行なわれた。7日には鷹島への総攻撃が行なわれる。5日の明け方には博多防衛軍の本部である「生の松原(いきのまつばら)」に関東からの連絡将校がやってきた。生の松原は福岡市西部にあり(現西区)今津湾にそう海岸松原である。神功皇后(じんぐうこうごう)が征西のときに戦勝を祈願して挿した松の枝が根付いたとの伝説がある黒松の防風林でもあった。
 そこに登場したのは鷹島攻撃隊の肥前国御家人である。現地の状況を報告にきたのである。「一昨日の三日のことでした。鷹島の西ノ浦から、破損をまぬがれた船に多くの敵兵が乗り込んで、将軍クラスの高官たちが逃げていきました」という報告だった。これが元史のいう范文虎(はんぶんこ)総司令官の逃亡、5日の記事にあたるなら、すでに3日から撤退は始まっていたようだ。
 これについて『蒙古襲来絵詞』にも記録がある。われらが季長は「船に乗っている者こそ大将にもあたるでしょう。これを1人でも討ち取りたいものです」と上申した。鎌倉からの連絡将校は、「敵は逃げかえろうとしています。追撃隊を送りたいと思います。このことについては少弐殿に申し上げましょう」と答えた。このとき、おそらく少弐景資は本営である警固所(現在の福岡城)にいたのだろう。東へ8キロの地点である。
 追撃隊の行動開始は引き潮になる時間帯になった。昼の12時過ぎのことだった。季長にとっての痛恨は、このとき生の松原に彼の兵船がなかったことだった。彼は自分の船で作戦に参加できなかったのだ。もっとも、彼の兵船も同族の飛田秀忠(ひだ・ひでただ)や小野頼承(おの・らいしょう)らを乗せて戦場に遅れて到着した。
 嵐は公平だった。蒙古軍の船ばかりか、日本軍の船もまた被害を受けていた。したがって5日の攻撃に日本軍は船が不足していたのである。季長はどの船にも同乗を断られてしまった。博多湾では5日早朝の作戦会議を受けて、夕方には行動を開始できたが、鷹島方面はそうはいかなかった。2日間遅れて7日に攻撃が始まった。
 これが軍隊の行動の大変さである。5日の夕刻、もしくは6日の早朝に生の松原からの指令を受けたとしよう。唐津、呼子、名護屋、仮屋湾などに散在する各部隊が鷹島対岸に集結するにはまるまる1日がかかったのだ。兵員の移動ばかりではない。糧秣は2~3日の携行品でまかなうとしても、武具、兵器などの予備も携行して行動する。作戦が長期化することも予想して、予備の物資も運ばねばならない。

5日の博多湾海戦

 台風の通過で蒙古軍は大きな被害を受けた。しかし、それだけで戦争が終わったわけではない。都の貴族は「神風が吹いた」「祈祷のおかげだ」「神国だった」と手放しで喜んでいたが、現地では「残敵」どころか、なお強力な艦隊と兵力がいすわっていた。いろいろな説があるが、服部氏は鷹島には2000人あまり、20隻の大型船が残っていたと推測されている。
 では志賀島に残っていた高麗兵が中心の東路軍はどうか。高麗史によれば生還率は72%だったというから、たしかに大損害ではある。ただこれには水手なども含まれ、交代要員なども重複しているから確実な数字ではない。いずれであれ、志賀島の陸上要塞にこもっていれば、台風の人的損害もそれほどではなかっただろう。日本軍はなかなかの苦戦をするのだ。
 季長は能古島(のこのしま)攻撃隊に入った。博多湾内の南北約3.5キロ、東西2キロの台地状の島である。志賀島の対岸にあたる。この戦闘では季長は乗馬を射殺され、本人も手疵(てきず)を負った。いろいろな記録を見ると、弓箭中心の戦闘では蒙古軍は大きな損害を受け、日本軍はさほどでもない。
 これはやはり、大鎧(おおよろい)という日本武士の「騎射戦」用の防御力を重視した防具の優秀さだっただろう。「油断して裏をかかれるな」という言葉があるように、強力な和弓でも、なかなか大鎧を射通すことは難しかった。蒙古軍の短い弓では致命傷を与えられなかったと考えられる。逆に軽快な運動を行なう蒙古軍の革鎧は、刀などの斬撃には耐えるが、強力な和弓の貫徹力には弱かったと思われる。それに加えて、武士たちの芸術的なほどの射撃術があった。
『蒙古襲来絵詞』の記述をみると、季長の配下の小野頼承は敵の矢を受け、弓を使えなくなった。接近して、敵船に乗り移り薙刀で白兵戦をしようと主張したが、水手が恐れて櫓をこがなかったという。よく絵を見ると、「櫓」ではなく「櫂(かい)」のようだ。水手は全裸で鎧などは身に着けない。蒙古の弓の射程には入りたがらないのは当然だろう。
 季長の射術はここでも明らかになっている。敵船の上では矢で喉を貫かれ、激しく流血する敵兵が1人。もちろん、季長や船をねらう蒙古兵もいる。他にも2人の敵兵が仰角を大きくして遠距離に矢を届かせようとしている様子が描かれる。とにかく、この日は逆風をついての出撃でもあった。

敵船に乗り移る白兵戦

 戦闘シーンがある。蒙古船に乗り移って「大矢野三兄弟」と注記されている大鎧着用の武者がいる。後ろ向きに描かれている武者も見える。そして大熊手で船をつけようとしている武士もいた。3人と後ろ向きの武者は船内から突き上げている蒙古兵の矛と戦っている。
 その船の左端である。季長は蒙古兵を組み敷いて、首を獲ろうとしている。右手には短刀を握って、血に濡れた太刀は前に転がしている。そして後方には、すでに絶命していると思われる蒙古兵が血を流して倒れているのだ。おそらく首からの出血を見るに、季長は太刀でこの兵の首筋に斬りつけ一撃で倒したのだろう。
 激戦である。季長の右腕には蒙古兵の矢が立っている。そして兜はかぶっていない。代わりに脚に着ける「すね当て」が傍らに落ちている。矢はどんどん飛んでくる。5人、4人、2人、そして2人、合計13人もの弓兵が季長や大矢野三兄弟(後の加筆といわれる)他の武者を狙っている人数である。
 季長にもっとも近い敵兵は狭い海を隔てて10メートル余りの近距離にいる。現代弓道でも近的は30メートルである。いかに不安定な洋上の船の上でも、10メートルならそうそう外れない距離だろう。ところが季長は助かるのだ。その秘密は敵兵の様子にある。まず、1人は頭部に矢を受けている。
 他には何人もが目をつぶり、鼻をおさえ、明らかに戦闘意欲を失っている。また、あっちを見ろというように同僚に注意を喚起している兵も見える。船の中に明らかに異変が起きていた。目を開けられない、鼻をつまむ、ふつうにしていられない刺激臭、妙な気体が周囲にあることが分かる。
 おそらく、それは日本軍が放った化学兵器だった。糞尿を煮立てて、アンモニア臭を強くし、別種の毒物も混ぜたものだろうか。割れやすい壺、あるいは瓶(びん)のような物に、液状の異物を詰めたものを投げ縄の投擲機などで蒙古船に投げ込んだのだ。
 蒙古軍は残虐である。しかも毒を塗った矢も使った。卑劣である。ならば何をしてもいい。そういうように日本武士たちも思ったのに違いない。日本軍同士でものちには楠木正成の戦記などでは籠城側が攻囲軍に糞尿を投げつけた記録が残っている。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)10月24日配信)