陸軍経理部(41) ―軍馬の話(27)

はじめに

 急に秋になりました。しかも毎週末が天候不順。そんな中で、自衛隊中央観閲式が行なわれました。順番でいえば、今年は海上自衛隊が中心になる「洋上観艦式」だったはずですが、埼玉県の朝霞訓練場が再来年に東京オリンピックの会場になるとか。すると陸上自衛隊が中心になる企画が立てられないということから今年になったという話です。
 わたしは8日の予行にうかがいました。堂々たる徒歩部隊の行進に、各種新型機材を目の当たりにして心強く感じました。
 今日はいよいよ「四百余州をこぞる 十万余騎の敵」という『元寇』の歌で知られる弘安の役(1281年)の新しい説をご紹介します。こうした見直しが次々と行なわれています。

蒙古日本再征の準備にかかる

 蒙古軍の文永の役での失敗は、わが国の「大宰府(だざいふ)」を占領しできなかったこと。九州を支配しようという戦略目標を達成できなかったことだった。蒙古軍の見通しの甘さである。渡海作戦はたいへんな準備を必要とするし、侵攻する現地の地形や状況も承知していなくてはならなかった。できれば現地の有力者が寝返って、侵攻軍の協力者が出れば望ましいが、わが先人たちからはそうした動きもまったくなかった。
 大陸では連戦連勝し、中国の王朝である「南宋」も滅ぼすことができた(1279年)。おかげで降伏した「宋軍」を日本侵攻に活用できるようになった。もとから高麗は反抗できない。ここで一気に威信をかけた大攻勢をかけようと元の皇帝フビライは考えた。
 1279年2月、フビライは揚州、湖南などの4省に対して遠征用の戦艦600艘の建造を命じた。これらの省はもともと宋の領土である。前回は高麗だけが戦艦その他の建造を受け持ったが、今回は宋を滅ぼしてすぐの計画になる。建艦命令を出したあと、フビライは宋の降伏した将軍である范文虎(はん・ぶんこ)たちを呼び、日本再征の検討会を開いた。范は出兵前にもう一度使者を送ることを提案する。宋の遺臣である立場からの説得を試みようとしたのである。
 使者は高麗を経由しないで6月に対馬に着いた。そのまま博多に向かったが、今度はその使者もそこで斬られてしまった。当時でも、使者を殺すのはとんでもない国際信義上の無茶だったが幕府にしてみれば、和平を結んだわけでもないのに図々しい、また防備状況を調べに来たと判断したに違いない。
 使者が帰ってくるのを待ちながらも戦備は進められた。やはり6月には高麗に戦艦900艘を建造せよという命令があった。前回と同じである。高麗には反対する力もなく、工匠・役夫・物資を徴発し、兵員の補充・新徴募も行なわれた。元の直轄領とされた耽羅(たんら・済州島)の負担は大きく、3000艘の船の用材を供出するよう命じられる。

高麗は積極的に参戦する

 1280年7月、侵攻軍の編制が定められた。
(1)洪茶丘(こう・さきゅう、王と関係が悪かった高麗人)と忻都(きんと、蒙古の将軍)は、蒙古・高麗と漢(中国北部人)の4万人を率いて合浦(がっぽ)から出征する。
(2)范文虎は蛮子軍(ばんしぐん、南宋人の軍)10万人を率いて江南を出発する。
(3)両軍は一岐(壱岐のこと)で合流し日本に向かう。
 9月末に高麗王は都に戻り、11月には戦艦900艘、梢工(しょうこう、技術者)、水手(乗組員)の1万5000人を揃えたとフビライに報告した。あわせて自分も最高指揮官の1人になされるよう、元軍の中で高麗軍の将兵が平等な扱いを受けることなどを要望する。12月、フビライは要請を受け入れた。高麗は要求に応じるのではなく、進んで日本侵攻に向かうことになった。
 1281(弘安4)年正月、蒙古人将軍阿刺罕(あらかん)、忻都(きんと)、范文虎(宋の降将)、洪茶丘(高麗の将軍)に正式な出征命令を出した。阿刺罕と范文虎は10万の軍を率い、江南を出撃する。忻都と洪茶丘は4万を指揮して高麗の合浦(がっぽ)から進撃し、壱岐で合流、九州本土を襲う計画である。

「徒(いたずら)ニ民ヲ殺スコト勿(なか)レ」

 2月20日、征東軍(日本侵攻軍)の諸将は意気高らかに燕京(えんきょう・元の首都)を出発した。そのときにフビライは勅語を下した。意訳する。
「日本からの使者(実は対馬から拉致した民間人)が来たので、われわれも使いを送った。ところが日本はわが使いを留置して返さない(実際は殺してしまっていた)。そういうことから卿(けい・貴官)らにこうした行動をとらせることになった。朕(ちん・天子の自称)は漢人から聞いた。『他者の国家を奪うには、百姓(ひゃくせい・民間人)・土地を得ることが大切だ。もし、百姓を皆殺しにしたら、ただ土地を得るだけではどうにもならない』」
 今回の遠征は土地を奪い、住民を殺すのではなく、元軍を駐屯させ永久的に占領し、支配することが大きな目標になっていたのである。したがって用意された物資の中には、鋤や鍬といった農具や、住居用の資材までもあった。
 また、フビライは次のような指示を下した。
「もう一つ重要なことがある。朕はこのことを憂いている。貴官らがよく協力をし合わないことだ。仮にもしも、日本人が貴官らと話し合う、協議し合うということがあれば、まさに心を合わせて相談し合い、誰もが同じことを口にするようにせよ」
 要するに出先の軍司令官たちの独断や不和を恐れていたのだ。

東路軍の出撃

 3月16日、高麗の主将金方慶(きん・ほうけい)は高麗軍を率いて高麗の都(開京)を出て、乗船地に合浦に向かった。18日には忻都と洪茶丘が元軍を率いて開京に到着した。20日には高麗王と軍議を行なった。忻都と洪茶丘も合浦に向かった。
 4月1日、高麗王も合浦に出発した。15日に合浦に到着。18日には大軍の閲兵を行なった。人員4万、900隻の大艦隊である。
 5月3日、忻都・洪茶丘の率いる元軍、金方慶を指揮官とする高麗軍は合浦を出撃した。計画では、この東路軍と中国本土から来航する江南軍は6月15日に壱岐で合流することになっていた。
 これまでの研究では、なんとこの艦隊は5月26日に対馬に到達とされてきた。対馬の佐賀に上陸したといわれている。しかし、近来の学説では、対馬への上陸はその日のうちである。理由は文永の役と同じ。風待ちをして、日和をみて(それこそ観天望気である)出撃日を決めるからだ。潮流と風を利用すれば、合浦と対馬は1日で到達可能なのである。これまでの補給や兵站を考えない学者たちの説では20日近くも、4万人の大艦隊が合浦にいたことになってしまう。遠征初期からそんな無駄、兵粮の浪費をするほど、昔の軍人が愚かであるわけがない。
 3日に対馬に上陸、そうして8日までに対馬の全土を元軍は掌握するようになった。ここで再び、島内を押さえたところで部隊を整理し、15日に壱岐に到達するのである。

日本世界村大明浦(せかいむら・たいめいほ)の誤読

 これまでの権威者らの説では、この「日本世界村大明浦」を「対馬、佐賀」と読んでしまい、そこに誤りがあった。「世界」は「シイガイ」と読み、博多湾の入り口にある「志賀島(しかのしま)」という解釈が正しい。「世界村」は中国浙江省寧波(にんぽう)では「siga-cen」と発音する。韓国では「sega」である。志賀島を世界村としたのは、その音からだろう。また服部氏の指摘の通り、志賀島には志賀大明神が祀られていたから「大明浦」の地名も適合するのだ。対馬の佐賀には、「大明」にあたるような浦はない。
 江戸期の学者の著書には「世界村大明浦は志加島(志賀島)で音が近い」とされていた。それが100年ほど昔、ある東洋史の大家が「世界は佐賀の訛り」とある文書の書き込みを見つけて、それが地名辞典に引用されてしまった。こうしたことから「学界の定説」になっていってしまう。まことに権威の言うことを鵜呑みにすること、教科書の記述を疑わないことは「真実」に迫ろうとする者にはあぶないことだ。
 日付の誤った読み取りによる解釈は、たいていが当時の逓信組織についての無理解によるものだ。たとえば、5月26日に対馬到達という間違いは、都の官人の日記の日付に従ったものだ。この日は、博多湾の入り口、志賀島に元・高麗軍は上陸した日である。

海岸線の防塁が生んだもの

 前回の襲来から鎌倉幕府は防備を怠ったわけではなかった。海岸線に20キロメートルあまりにもなる石塁(石築地・いしついじ)を御家人たちに築かせた。高さは2メートル、幅は3メートルにもなり、その基底は当然、幅が6メートル余りもあった。その分担は、御家人たちの支配地の田一反ごとに一寸(約3センチ)というものだった。1反は約10アール、1000平方メートルである。
 そうして、武士たちの集団ごとの突出ができなくなった。周囲を見ずに猪突して包囲攻撃を受ける危険が大きく減った。石塁上の守備範囲を割り当て、そこから武士たちは突撃せずに射撃戦だけを行なうことになった。元・高麗軍の主要な戦闘方法だった集団戦とまともに対応せず、防塁によった弓による狙撃戦に切り替えていったのだ。無駄に突撃すれば元・高麗兵は身を隠すこともできない浜の上で射殺されるしかなかった。たまたま石塁に近づけても高さはおよそ2メートル、馬は越えられず、兵も一気には登れない。
 志賀島は占領された。博多正面に重点配置された日本軍の防備は薄かったに違いない。元・高麗軍もそこで野戦陣地を造った。このありさまは、竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。志賀海神社(しかうみじんじゃ)の横には、先端が尖らせられた馬防柵の列や、高い望楼(ぼうろう・やぐら)があったことが分かる。

志賀島での戦闘

 珍しい資料が発見された。『張成墓碑銘(ちょうせい・ぼひめい)』という。新附軍(しんぷぐん)に参加した軍人の子供たちが父親の顕彰のために建てた墓碑である。1925(大正14)年に満洲大連市金州(だいれんし・きんしゅう)で発見された。
 張成はいまの湖北省の人で、降伏して宋から蒙古に従った軍人だった。新附軍というのはそういう部隊だった。墓碑には弘安4年4月から8月までの軍功が記されている。
「6月6日に倭の志賀島に着いたところ、夜半に賊兵(天子に刃向かうから賊、すなわち日本兵)が舟に乗って来襲した。部下とともに艦で戦い、暁(あかつき)の頃、賊の舟は帰って行った」
 野戦である。しかも太陽暦7月の月齢5の日(旧暦6日)の博多湾の潮汐表は深夜1時前後と昼の13時が満潮のようだ。そして朝7時と夕方の19時ころが干潮である。博多から志賀島への舟は引潮に乗ることができる。深夜に満潮から干潮に向かう潮にのって、武士たちは志賀島の海岸に碇泊する蒙古の艦船を攻撃した。6日の月だから深夜を過ぎれば月明はないはずだ。複数の舟艇で近づいていって包囲するように攻撃したのだろう。
 これに対応する日本側記事も多い。
「6月16日、鎮西(九州の司令部)から早馬がきて、『敵の舟、3隻を捕獲した』という」。京都で16日だから、現地では6日ころになるだろう。
 蒙古側、張成の記録によると、8日も攻撃があった。
「8日に賊は陸を伝って再びやってきた。張成は陸上にいたので、弓や大弓で迎え撃って撃退した。また、午後4時ころにまた来襲したが追い返した」
 陸伝いにやってきたというと、海の中道に沿ってやってきたものか。翌9日もやってきたが、日本軍は多くを殺傷されて撤収していったらしい。この戦闘で張成は褒章をもらっている。よほどの激戦があったものか。この戦いは『高麗史』にも記録されていて、「6月8日には金方慶(きんほうけい)らが日本軍と戦い、斬首するもの300余騎。翌日も戦いがあり、洪茶丘の軍は幾たびか戦ったが不利だった」という記録がある。
 さて、次回はまたまた竹崎季長の奮戦である。記録の紹介をしよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)10月17日配信)