陸軍経理部(2)

はじめに

 明けましておめでとうございます。年末年始、わたしの暮らす京浜地帯は穏やかな天気で過ぎました。世間の話題も大相撲の「貴乃花親方」の問題、せいぜい冬季オリンピックの話題くらいで、もちろんミサイル、不審な北朝鮮からの漂流船なども聞かれました。
 いずれも解決は先送りの観があり、深刻(ほんとうは大変)な感じは見えませんでした。しかし、油断はできません。地震の頻発もあり、いろいろな不幸が忍び寄ってきているように、私には思えます。そのときに備えておきたいものです。

あたたかいお言葉へのお礼

 KM先生、ありがとうございます。拙著について、非常にわたしも気づかなかった諸点について明快に説いてくださいました。いまも原因が明確になっている病気は少ないこと、それでいながら症状を収めたりする薬品や技術は進んでいること。一人の医師の中には病理学を追究する森林太郎と、実際の現場で病気を治す高木兼寛が両方いなくてはならないこと。
 そして、気を付けないと高木式の行き方は人体実験にもなってしまうということ。しかし、成功を収めた高木は見事に「神様」にならずに天狗にもならなかったこと。その偉大さはすばらしいことなどでした。
 まさに、わたしの意図通り、いやわたしの予想を超えた読後感をいただき、ほんとうに勇気が出ました。ありがとうございました。
 今年もよろしくお願いいたします。

昭和初めの大不況

『大学は出たけれど』という映画があった。1929(昭和4)年に監督小津安二郎による、就職ができずにいた田舎出身の大学卒業生の物語である。もちろん、背景は1927(昭和2)年に始まる金融恐慌による不況だった。もっとも、わが国の近代を振りかえってみても、景気がよかった時期はきわめて短い。不況が普通であるのが日本経済の実態だった。それであっても、日露戦後からの中等教育、大正中期からの高等教育の拡充・発展で若者の進学熱は高まる一方だった頃の話である。
『末は博士か大臣か』とは明治末期の学士(帝国大学卒業者)に対する憧れをこめたはやし言葉だったが、昭和の戦前期、そんな言葉は誰も使わなかった。意外と指摘されない事実だが、人口1万人の中で何人が高等教育を受けていたかという数字がある。アメリカの90人は別格の第1位として、第2位が日本の29人、3位がドイツの20人、続いてフランスの20人だった(1930=昭和5年)。
 ここでいう高等教育とは中等学校(中学校や各種実業学校)を卒業し、その後に入学する大学予科、高等学校、高等専門学校、高等実業専門学校など、いわゆるカレッジや、その上の大学(ユニバーシティ)を指している。
 そんな教育大国だったのに、社会の仕組みがそれほど高学歴者を必要としていないのが実態だった。1929(昭和4)年から1931(昭和6)年までで株価は3割の下落、農家所得は50%になってしまった。大正時代の「大戦景気」による企業の膨張、設備投資の拡大、人材の雇い入れ、すべてが裏目に出てしまったのである。バブルの崩壊は1919(大正8)年だった。卒業生の就職率は1923(大正12)年には82%だったが、翌年には75%、その次の年は66%と低下の一途をたどる。1929(昭和4)年には50%にもなってしまう。ただ格差はあった。理科系の学生は76%、師範学校は70%をキープしている。そうなると、学歴を隠して中卒の資格で就職を図ろうとする者も出た。
 帝国大学(当時は東京、京都の2帝大)の文系卒業生も例外ではなかった。1930(昭和5)年度の高等文官試験(コウブンといわれた今の国家試験Ⅰ種)の合格者数は2240名、うち採用されて高等官になった者は約10.4%にしかならなかった。だから、多くの高学歴の無職の若者は当時、「高等遊民」などと呼ばれていた。

君なら大将になれる

 昭和8(1933)年の春のことだった。京都帝大法学部を卒業した若者(K君としよう)は、その年末の現役入営を前にしていた。もちろん就職先などなかった。高等文官合格者でさえ、採用率はせいぜい20%、中学校教員にもとてもなれない。三井、三菱などという大企業も夢もまた夢だった。
 東京帝大経済学部を出た同年代の若者が満洲鉄道株式会社を受けて不採用、しかたなく簿記学校へ通った。商業簿記を身に着けて、小さな貿易会社に中等学校である商業学校卒業者と偽ってようやく入社した時代である。
 大学の先生のところに相談に行くと、『キミ、陸軍に行きたまえ』といわれた。
『ええっ、軍事教練も下駄ばきで出席したほどのわたしです。とても軍人なんかに向きません』というと、先生は言う。
『なに、陸軍などたいしたところじゃあない。ぼくの兄貴などは何回も落第を繰り返し、どうしようもないやつだったが、今は立派な中将だ。君ならきっと大将になれる』
 K君は26歳、明治40(1907)年生まれ、中学から高校へ進むときに2年浪人してしまった。おかげで徴兵検査を受けて甲種合格。しかし、高等学校入学の切符を手にしていたので入営延期となっていた。ついでにいえば、高等学校へ入るための浪人はけっこう多かった。ある高校では入学者の平均は2.6浪だったともいう。
 それだけに就職相談は真剣である。それが最も意外なことに陸軍へ行けという。驚いていると、経理部だという話であり、軍事にうとい君でも大丈夫だといわれた。しかし、逆に事情にうといのは帝大教授の方だった。大卒の入る経理官の最高は中将相当官である主計総監である。逆立ちしても大将になれるはずがなかった。
 草履ばきで教練に出たという思い出も、大正末期の高校生、帝大生気分丸出しの軍事教練の実態がうかがえて面白い。大正14(1925)年から現役将校が全国の中等学校以上に配属され、授業もあったが、ほとんどの学生・生徒は真面目に受けようともしていなかったのである。
 こうしてK君はその翌年、1月に故郷の歩兵聯隊に入営した。もちろん、聯隊区司令官には役場の兵事掛を通じて、経理部乙種学生を希望することを報告する。司令官はその書類を確認、たしかに帝国大学法学部出身であるか、その卒業証明があるかを確かめ、聯隊に通報した。聯隊では有名になった。身体検査では聯隊付医官が『キミ、本気か?』と確かめ、中隊長はわざわざ初年兵教官の少尉と一緒に面談した。高級経理官希望の帝大卒業生など珍しいとしか言いようがなかったからだ。

経理科幹部の補充

 陸軍経理部には兵卒がいない。士官以上と准士官・下士官だけである。ところが海軍主計科には士官、准士官、下士官がいた。艦内や団体には厨房業務をこなす主計兵が必要だったし、管理業務もあったからだ。海軍経理学校には他の兵科将校養成のための兵学校や機関将校養成のために士官候補生がいた。経理部士官候補生は遠洋航海もしたし、卒業してからも士官学生として学び、上位に進んでもいった。
 陸軍には主計総監、主計監という将官、主計正の上長官(のちに佐官)、主計の士官(のちに尉官)、上等計手(准士官)と計手(下士官)しかいなかった。それは陸軍の仕組みの1つであり、内部で何でもまかなうので、飯を作るのも兵科の兵と下士官の臨時勤務でしかなかったし、縫工(ほうこう・縫い物をする)、靴工(かこう・軍靴などの修理にあたる)なども一般兵の特業(特技)として扱われたからである。
 では陸軍の経理部幹部の養成はどうだったか。若い経理官の補充は大正14(1925)年には経理学校の生徒課程は廃止され、下士官からの昇進と、兵科将校からの転科と一般大学・高等商業などからの公募でまかなってきたのである。
 もともと経理部高等官は軍吏(ぐんり)といわれる現場実務の尉官と、会計監督業務や契約業務等にあたる佐官である監督の2系統があった。軍吏は「計算出納点検照合及び物品調理」を任とするとされていた。明治19(1886)年には軍吏学舎が開校し、1等書記(曹長相当)を選抜教育して3等軍吏(少尉相当)に任命していた。それが明治36(1903)年に主計候補生を中等学校卒業者主体に召募(しょうぼ・士官候補生を公募すること)するようになった。
 並行して実施されたのが高級幹部養成の監督講習生制度となる。明治28(1895)年には各兵科の大尉からの転科者と民間の高等商業学卒業者を選抜して教育した。明治35(1902)年には大学出身者も採用の対象とする。しかし、この制度は失敗に終わった。わずか3期、4名で打ち切られてしまう。それは大学出身者が軍隊の実務に慣れず、あまりにも異色の人材が多かったからとされる。

経理学校乙種学生

 1907(明治40)年に陸軍経理学校で主計候補生として教育され卒業した第1期生が76名。以後、廃止されるまでの大正9(1920)年入校の16期生(77名)まで続いた。その合計は905名となる。この人たちは大正時代には中堅となり、昭和時代には高級経理官となった世代である。平均すれば毎年約50名の現役主計が生まれていた。陸士を出る兵科将校の数と比べると、およそ8分の1といっていい。
 主計候補生は18歳以上21歳以下で、中学校もしくは同等の学校を卒業し、あるいは予備役幹部養成の1年志願兵からの応募もできた。また経理部下士のうちから満26歳未満でも入港することができた。召募試験の合格者は歩兵聯隊で9か月の兵科士官候補生と同じ一般教育を受け、その後経理学校で1年9か月の候補生教育を与えられ、部隊に赴任し、見習主計(みならいしゅけい・士官候補生たる見習士官と同じ)9か月を経て3等主計に任官した。
 ところがである。1922(大正11)年には経理部士官候補生の制度がなくなってしまう。各兵科らの転科者が足りなくなってきた。軍縮時代である。各兵科の将校の中には整理に対抗して経理部に移ろうということが許せない気分だったに違いない。そこで1926(大正15)年に補充令を改正して、「大学の法学部、経済学部、または商学部学生」から依託学生を採用するとした。また法学士、経済学士、商学士の大学卒業生を見習主計として採用することにする。
 見習主計は歩兵聯隊でおよそ2か月の訓練を受け、師団経理部の教育も受け、2等主計にした。大学出身で学士だから当然、初任階級は2等主計(中尉相当官)だった。任官して経理学校で8か月の課程があった。初採用は1927(昭和2)年採用を1期として、1935(昭和10)年の課程卒業を乙種学生と言った。合計で8期生になったが、人員数は79名でしかなかった。この人たちはK君も含めて、「学士将校」といわれ、1936(昭和11)年の採用者からは丙種学生と名称が変わった。

乙種の逸材ぶり

 経理部に挨拶に行くと大歓迎された。学士はとんでもない高学歴者であることは違いない。しかも帝国大学である。進級も早いし、高等文官試験に受かって各省に採用されても40歳でようやっと3等県知事くらいに違いない。貴官が40歳なら大佐たる1等主計正であるとおだてられた。それなら陸軍は悪くなかったかもと思わされた。
 およそどれほどの経理官がいたかというと、主計候補生はおよそ900名、兵科から転科した人が大正10年から昭和8年までで70名、兵科・経理部准士官からの進級者が1700名ということになるから、合計で約2670名となる。そのうちの乙種はさっき述べた約80名でしかなかったからエリート中のエリートだったわけだ。
 
 手元にこの乙種1期生の方の思い出話がある。原文の趣旨を損なわないように意訳抄出する。
「同期生は5名、出身は特長あるようにと、東北大、東大法、東大経済、慶応、日大と異なっていた。4月中旬、歩兵第1聯隊に入隊した時も、幹部候補生から転身してきた2人は別にして、あとの3人は3様。羽織袴にフェルト草履といった様子もあり、師団高級主計もいささか当惑顔だった。
 営内での起居その他にも目に余るものがあったらしく、2か月の終わりに近づき、将校詮衡会議で任官できるかどうか分からない者もいるから軍服の注文はしばらく見合わせろといわれいささか拍子抜け。すると陸軍省主計課長から『不適格者は1名も採っていない』と一喝があり、どうやらそろって任官した。
 5月末に2等主計(中尉相当)に任官し、それぞれ在京の歩兵聯隊に隊附きし、わたしは近衛歩兵第2聯隊になった。経理学校入校前のここでの暮らしは数多くの楽しい思い出があった。(中略)
 学生となってからは思い上がりと甘えから、だらしのない毎日で、5名が揃うのは俸給日くらいのもので、わたしの場合もある教科には出席わずか1回、試験は前代未聞の白紙を出すことになり、学級主任には多大な迷惑をかけた」
 こんなことにもなった理由は、乙種学生はどんなものかという実態がまったく学校側につかめていなかったからだとこの人は語る。過大に評価したり、あるいは過小評価したり、時には腫れ物にさわるように、あるいは高圧的に、時には過保護と思えば投げやりだったともいう。
 まったくの異質な人間、あるいは異文化を備えている相手にどう接したらよいか分からなかった。このことは組織に異文化が入ってきたときに今も起きることだろう。この1期生は東大経済卒業、敗戦時には陸軍主計大佐だった。乙8期の方は同じく主計中佐、戦後、陸上自衛隊に入隊、陸将にもなった。まさに戦後に中将になったというわけで、京都大学の先生の予言通りになった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)1月10日配信)