陸軍経理部(23) ―軍馬の話(9)―
はじめに
古代国家の騎兵の実態はなかなかわかりにくいのです。文書は少なく、また遺物も多くありません。今回も少ない文書から想像するものばかりです。
恵美押勝(えみの・おしかつ)の乱での騎兵と弓射
764年、恵美押勝こと藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が挙兵した。仲麻呂は大化の改新(645年)に活躍した中臣鎌足(なかとみの・かまたり)のひ孫にあたる。父は藤原不比等(ふじわらの・ふひと)の子である武智麻呂(むちまろ)。不比等の4人の息子たちが起こした4家のうち南家(なんけ)の継承者だった。
大化の改新以来、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・のちの天智天皇)に仕え、藤原の家名を与えられた鎌足は地位を大きく高めてきた。その後継者の不比等も大宝律令の制定(701年)などに活躍した。
729年には娘の光明子(こうみょうし)を皇后に立てた。光明皇后といわれる臣下の娘の初めて入内(じゅだい)である。その兄弟である武智麻呂ら4兄弟はそろって公卿(くぎょう)になれた。公卿とは従三位以上の高級官僚だった。しかし、その栄光も長く続かず、737年、都で流行った疫病によって4人はみな死んでしまった。
ところが、光明皇后はむすめを孝謙天皇として即位させ、皇后宮職を拡大した紫微中台(しびちゅうだい)という巨大機構をつくった。そして甥の仲麻呂をその長官にしてしまう。まるで唐の則天武后(そくてんぶこう)を思わせるような独裁者になった。
叔母の寵愛をもとにして権力を握っていた仲麻呂だったが、764年に光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇と対立する。その結果、ついに兵を起こしたのである。この記録の中に、騎兵と弓射が登場する。それを現代語に意訳してみた。
「9月11日、太師(たいし)藤原恵美朝臣押勝(ふじわらの・えみのあそん・おしかつ)の逆謀(反逆の計画)が明らかになった。高野天皇は少納言山村王を派遣して、中宮院の鈴・印を回収してきた。すると仲麻呂は息子の訓儒麻呂(くすまろ)を送って、鈴と印を山村王から奪い返した。天皇は授刀少尉(じゅとうのしょうじょう)坂上刈田麻呂(さかのうえの・かりたまろ)と将曹(しょうそう)牡鹿嶋足(おじかの・しまたり)らを派遣して、弓で射て、訓儒麻呂を殺してしまった。
すると、押勝はまた中衛将監(ちゅうえい・しょうげん)矢田部老(たやべの・おゆ)を派遣した。甲(よろい)を着て馬に乗り、詔使(しょうし)授刀(じゅとう)紀船守(きの・ふなもり)を脅して鈴と印を返せと迫り、断る船守を射殺してしまった」
この授刀少尉坂上刈田麻呂は、のちの征夷大将軍になった田村麻呂(たむらまろ・758~811年)の父親である。坂上氏は応神天皇(宋書にいう倭の五王の1人、讃ともされる)のころ、中国から渡来した阿知使主(あちのおみ)の子孫といい、大和国添上郡坂上里(奈良県)の里名が氏名の起こりとされる。「代代武を尊び、鷹を訓練し、馬をよく見て育てた」という。
刈田麻呂の父は坂上犬養(いぬかい)で大和守・正四位上で764年に亡くなった。刈田麻呂は、のちに左京太夫(さきょうのだいぶ)、従三位にのぼり、右衛士督(うえじのかみ)と下野守になった。鷹狩りも含めて、馬に乗って狩をしている様子が分かる。
授刀舎人(じゅとうとねり)について
この授刀舎人というのは、707年に設置された記録がある。授刀舎人寮という役所も設けられた。令(りょう)にはない官職であり、官衙である。これから授刀舎人という者たちの存在が確認される。
舎人というのは「軍防令五位子孫令」によれば、五位以上の子孫で21歳以上の者を、内舎人(うどねり)・大舎人(おおとねり)・東宮舎人(とうぐうとねり)に充てるとある。また「職員令(しきいんりょう)」の解説書によると、「大舎人、是京人(これ、みやこのひと)」とも書かれ、藤原京の高級官人の子孫であることは確実である。家柄のよいお坊っちゃんたちの中で、健康で、武技にも耐える者が選抜されたのだろう。
8世紀の史料を見ると、皇族や高位の貴族にはボディーガードがつけられていたことがわかる。たとえば、一品(いっぽん)舎人親王(とねり・しんのう)には内舎人2人、大舎人4人、衛士30人を賜っている。二品の親王にも同数の舎人と衛士20人がつけられていた。舎人は「左右雑使」に従い、衛士は行路防禦(こうろぼうぎょ)を行なうとある。舎人は現代風にいえば、副官や秘書官にあたり、衛士は身辺警戒を任務としたのだろう。なお、臣下と異なって、親王は臣下の正・従一位に相当する一品(いっぽん)から同じく四位にあたる四品(しほん)という位が与えられた。
720(養老4)年には「右大臣正二位(じょうにい)藤原朝臣不比等(ふじわらのあそん・ふひと)に授刀資人(しじん)30人を加える」という記述もある。翌年にも右大臣従二位長屋王にも10人、不比等の子である武智麻呂(むちまろ)にも同数が勅によって給された。また帯刀(たちはき)資人という言葉もあった。資人とはその給与が公的なものであったことを表す。
要するに、私的な武装者ではないということである。軍制用語としての帯刀や授刀というのは、国家の要請で武装を義務とされ、その武力が国家のために供される存在ということになる。
すでに武官と文官(もんがん)の規定が、令にあったことは書いた。しかし、規定では、武官とされていた者たちの他に、武装した文官ともいうべき人々もいたことが分かる。内舎人は「諸帯仗者=武官」には入らないが、その任務は「帯刀宿衛(武装して宿直警戒)」とされていた。武装し(つまり弓矢も、場合によっては槍も携帯し太刀を帯びる)、夜間のガードをするのが任務だった。東宮とは現在でも皇太子の別称だが、東宮舎人も皇太子の身辺雑用に従いつつ、宿衛をすることになっていた。
仲麻呂、押勝が派遣した中衛将監とは当時、増設された中衛府の判官(尉官クラス)である。反乱をほう助したとも考えられる。756年には授刀舎人の管轄官庁は中衛府であり、舎人の人数は400人、考選(採用、勤務評定)・賜禄(給与)・名籍(名簿記載)は中衛府だが、名称は中衛舎人とせず授刀舎人とするというお達しが出た。選抜や給与、人事管理は中衛府ということになる。
健児の制・地方武士団の起源か
歴史教科書に必ず出る「健児(こんでい)」が762年に生まれた。
「伊勢(三重県)・近江(おうみ・滋賀県)・美濃(みの・岐阜県)・越前(えちぜん・福井県)などの4カ国の郡司(ぐんじ)の子弟および百姓で、40歳以下20歳以上の者のうち、弓馬をよくする者を健児(こんでい)とせよ」
という記述がある。採用されると、田租(でんそ・収穫された米の3%)と雑徭(ぞうよう・国司への労力奉仕)の半分を免除するそうだ。この健児は律令国家体制の中での地方の軍事力の中心になった。
これには背景があった。国司や軍団勤務の毅官らが、兵士を私用に酷使するという実態があった。780年の記載である。天皇へ、太政官から奏上した文章を紹介する。
「各国の兵士は、とにかく脆弱(ぜいじゃく)な者が多く、庸役(ようえき)を逃れているだけで、国家の役に立っていません。いくら弓馬(武器全体を指しているようだ)を支給しても、それらはいたずらに貯蔵されるだけで、兵士は薪(たきぎ)取りや草刈りに働かされています。たとえ、そんな兵士を戦場に投入しても、まるで彼らを捨てるという言葉がふさわしいのです。
そこで太政官は奏上いたします。三関(伊勢鈴鹿すずか・越前愛発あらち・美濃不破ふわ)ならびに辺要の地の国はともかく、他の国においては、その国の大小にあわせて額(さだめ)として、殷富(いんふう・富裕なこと)な百姓の弓馬に優れた者を集めて訓練します。そこで脆弱な者は故郷に帰して農事に務めさせるべきだと考えるからです」
国司は主に中央の貴族が任じられた。各国の軍団の指揮官(大毅・少毅)は、おおよそ郡司の血縁者だったことは前回にも書いた。郡司ははるか原始・古代からの有力氏族が務める職務だった。だから馬を飼い、十分な世話をし、弓射も訓練する暇もあったことだろう。家柄の高さもあり、同時に圧倒的な武技を農民に見せつけることもできたのだ
792年には新しい制度が出された。陸奥(むつ・青森、岩手県)・出羽(でわ・山形県)・佐渡(新潟県佐渡島)・大宰府(だざいふ)管内(九州地方)などの辺要な地を除いて、軍団制は完全に廃止された。代わって、健児の制度が発足することになった。
この健児はこれまでも弓射騎兵と考えられてきた。
810年に健児には「馬子(めご)」を官給するという太政官の命令が出された。馬子とは健児の馬の世話をする者である。それは当然のことで、武装して騎乗する者は、中世・近世・近代においては士官にあたる。その乗馬を養い、世話をする者が必要なのは当然である。1000年以上の後代になる帝国陸軍にも、「馬取扱兵」が司令部などの定員には必ず含まれていた。
そして、健児の武装は、弓箭(きゅうせん・弓と矢)が必須のものだった。しばしば馬上からの射術で獣を狩る猟が国司などに披露されていた。健児とはまさに弓射騎兵だったことに疑いはない。そうしてこれが、中世の武士団の祖になるのではないだろうか。
東国防人(さきもり)
ここで古代末期の弓射騎兵である「地方武士」の登場の前に、駆け足で防人という制度についてふれておこう。まず、防人の成立過程である。
689(持統3)年、東国から集められた兵士たちが筑紫(つくし・九州北部・現福岡県周辺)に派遣された。対外防衛と九州の「令制実施」のためである。当時、アジア最大というより世界最強・最大の中華帝国である唐や朝鮮半島の新羅による侵攻を恐れたためでもあった。また、同時に「令体制」の整備のためである。ところが8世紀前半から「征隼人軍(せいはやとぐん)」が編成されるようになると、その存在意義は急速に失われていった。
筑紫を支配していたのは筑紫太宰(だざい)だった。これは律令体制の国・郡・里の行政体制が整う前の仕組みである。各国はいくつかの郡に分かれ、郡もまた多くの里によって構成された。それ以前はおおまかな国界があり、太宰だ治めていた。
伊予(いよ・愛媛県)、周防(すおう・山口県)や吉備(きび・岡山県)などにも置かれた太宰、惣領(そうりょう)といった行政官と変わらない。それが689年には筑紫太宰は筑紫太宰帥(だざいのそつ)となった。他の地域は依然として太宰、惣領といっていたのに、筑紫だけが別格となり軍事体制が増強された。それは筑紫だけは令体制にスムーズに移行しにくい事情があったからである。以下は、立教大学の野田博士による研究に多くを負う。
防人軍の変質過程と解散にいたるプロセスは6期に分けられる。
(1)689~712年 筑紫防人の成立後、おそらく文武(もんむ)天皇期(697~707年在位)に壱岐(いき)、対馬(つしま)、豊前(ぶぜん・大分県)などに諸国防人の配備が終わった。
(2)713~744年 筑紫地域に「征軍」が派遣され、領域の拡張がされる。同時に任務達成と認められ、防人軍の行動も「停止」された。
(3)745~756年 大宰府防人として復活する。
(4)757~794年 東国防人の派兵を停止する。防人軍は現地の兵士による「西海道軍制」に替えられた。
(5)795~825年 防人軍の解体。
(6)826年以降 防人軍制は解消し、選士衛卒(せんし・えいそつ)制が替わる。
桓武天皇による794年の平安遷都(せんと)、まさに平安時代といわれるその頃から防人軍は解体されていった。
このごく初期の防人軍は、東国防人といっても、決して東国に土着し続けてきた豪族の支配下の人々ではなかった。ただ漠然と名称にだまされるわけにはいかない。実は、この東国人とは、畿内(きない・大和を中心にした令文化先進地)から東国に派遣、移住させられた開発者集団だったのだ。
筑紫防人を構成したのは、当初、東海道諸国から徴集された人々である。信濃(しなの・長野県)、上野(こうづけ・群馬県)、下野(しもつけ・栃木県)、武蔵(むさし・神奈川県北部と東京都)の、元は西国からの移住者だった。彼らは「律令体制」の推進のために東国に派遣された人々や、その子孫である。万葉集(まんようしゅう・奈良時代の歌集)の巻20には70首の防人の歌が載っている(755年次の兵士)。それぞれ国造丁(くにのみやつこのよぼろ)、主帳丁、助丁、火長、上丁などの肩書があり、国造軍の編制に従っているとみられる。
防人たちは国衙(こくが・いまでいう県庁)に集められ、部隊行動をとって都まで進んだ。本来、そこで再編成されて「征軍」として筑紫に出発するというものだった。
防人軍の総数は3000人といわれ、諸国に1000人、壱岐・対馬に2000人が送られた。壱岐・対馬防人2000人の中には、大宰府(福岡県)に600人、壱岐対馬には300人、筑後(ちくご・福岡県南西部)に400人が分遣された。残りの700人は筑前(ちくぜん・福岡県北西部)や、筑紫大津(つくしおおつ・現博多港)に配備されたという。
防人がいたのは鎮戍(ちん・じゅ)といわれた。壱岐島には14か所の戍があったといわれ、各戍には10人から20人くらいの「火(か・10人くらいで編成)」がいたらしい。鎮は大きな拠点で100人単位の防人がいたという。指揮官は平時は国司であり、大宰府史生(だざいのししょう・士官)、鎮長(士官)、火長(下士官)などがいた。その装備はいたって軽いもので、横刀、弓箭をもち、槍(ほこ)、桙(ほこ)などは持っていなかった。よろいも身に着けることもなく、軽快な機動力を頼りにした軽歩兵といっていい。
彼らは任地を1年間で4回交代するとされた。任務についたのは年間で60日でしかなかった。うち50日は守備地で勤務し、あと10日間は大宰府で訓練を受けた。およそ300日は農業にしたがっていた。つまり後世の北海道の屯田兵のような集団でもあった。
795年には都の防人司(さきもりのつかさ)は廃止され、防人もなくなった。東国に帰れなかった防人は土着し、家族をつくった者も多かった。
次回はいよいよ地方武士団の起こりや弓馬について語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)6月13日配信)