陸軍経理部(32) ―軍馬の話(18)

ご挨拶

? 立秋とは名のみで、暦ではこれから残暑といいますが、長期予報では8月いっぱい猛暑が続くとのことです。みなさま熱中症にはくれぐれもお気を付けください。
 HYさま、いつも素晴らしいご感想をありがとうございます。今回は「城郭」について調べております。近世城郭と異なり、中世前期のそれはバリケードのようなものでした。でも、それがどう役立っていたか。戦闘様式と軍隊の編成上の問題がそこに現われてきます。また、ご批評をよろしくお願いいたします。
 ところで、義経と有力御家人の不和と反目の理由がいろいろと言われてきました。正当な戦技訓練(大番役のおかげで)に接してきた豪族武者たちと、浮浪人である義経以下の郎等たちの戦功の問題についてのご指摘、なるほどと感服いたしました。また、非戦闘員たる水主(かこ)や船頭たちの射殺の指示など、旧い武者たちは納得もできなかったことでしょう。
 通信手段や兵站等につきましては、「蒙古襲来」の竹崎季長の絵詞(えことば)でふれてみたいと思っております。
 TSさま、ご無沙汰しておりました。ありがとうございます。お刀の抜刀、納刀のことなど、たいへん嬉しく思いました。今後ともよろしくお願いいたします。暑さの中、わたしの体調のこともご心配くださり、ありがとうございます。意気地がないものですから、一日中、エアコンの中におります。
 MSさま、嬉しいお便りをありがとうございました。堺の商人のお話、愉快です。「筋切り」についての記載も楽しく拝見しました。ただ、「去勢」という註があったとのことですが、不勉強で初耳でした。といいますのは近世江戸時代になると、武士はふだんの乗馬で馬が勢いよく歩くのを見せるために後肢に「筋切り」をしたというのです。具体的にはまだ調べておりませんが、おかげで持久力がなくなったともいいます。勉強になりました。

治承・寿永の戦いでの城郭(じょうかく)

 野戦築城とは、恒久的な防御施設ではなく、戦術上で必要な簡単な陣地を造ったり、防禦施設を整えたりすることをいう。
「城(しろ)」というと読者の皆さんは、どんなものを想像するだろうか。白亜の白壁、天守閣、堅固な石垣、水をたたえた堀、というのは近世城郭である。江戸期の大名は、領内外への権威を示すために、もちろん戦時のためにも競って城郭を建設した。
 大名の格付けにも使われた。領主(城をもたない1万石~3万石未満)、城主(3万石以上)、准国主(じゅんこくしゅ・律令体制の一国を領地とする大名に准じる)、国主(前に同じで2カ国以上もある)と大名にも格の違いがあった。大名の半分以上は、領地に陣屋(じんや)しかもたなかった1万石から2万石の家だったから、同じ大名でも城持ちというのはそれだけで威勢があった。
 その城が文献の中に登場し始めるのが、この治承・寿永内乱期(源平合戦の時代)である。貴族の日記や、『平家物語』、幕府公認の歴史書『吾妻鏡』にもしばしば見ることができる。
 1180(治承4)年5月23日、以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)が立てこもった近江国園城寺(おんじょうじ・三井寺ともいう)のことを、『吾妻鏡』は次のように書いている。
「三井寺(みいでら・園城寺のこと)の衆徒(すと)等、城を構え、溝を深くし、平氏を追討すべきの由、僉議(せんぎ・相談すること)すと云々(うんぬん)」と、このように平氏軍の来襲に備えた動きが見える。溝(みぞ)を掘り下げたのである。
 また、同月の25日には以仁王と頼政が南都(なんと・奈良)に逃れようとした。そのとき追撃したのは平重衡(たいらのしげひら)である。重衡は1157年、清盛の5男として生まれた。宗盛(むねもり)、知盛(とももり)、建礼門院徳子(けんれいもんいん・とくし)は母と同じくする。1179年には左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)と蔵人頭(くろうどのとう)を兼ねていた。知勇兼備の武将といわれたが、この頼政軍を撃破したのち、12月には興福寺・東大寺攻撃の指揮をとり、大仏殿を焼き払った。おかげで「仏敵(ぶってき)」とされた。不運にも「一の谷の合戦」で捕虜となり、鎌倉府で厚遇されたが、仏教勢力の要求で引き渡され、斬首された。『平家物語』では勇敢だったが不運の武将とされている。
『山槐記(さんかいき)』という名前で知られる権中納言中山忠親(ごんのちゅうなごん・なかやまただちか)の日記には、この重衡の戦闘指揮ぶりが書かれている。
「蔵人朝臣重衡(くろうど・あそん・しげひら)、左少将維盛朝臣(さしょうしょう・これもり・あそん)宇治に追い向かい、おのおの城郭を構えざる前に、直ぐに進み」
 2人の指揮官が追撃し、宇治で頼政軍が「城郭(じょうかく)を構える前」に攻撃を開始したことが分かる。
 つづいて、『平家物語』の記述を追おう。この重衡軍と抵抗する南都勢力の行動である。
「大将軍には頭中将(とうのちゅうじょう・天皇の秘書官長である蔵人頭と近衛府中将を兼ねた人をいう)重衡、副将軍には中宮亮(ちゅうぐうのすけ)通盛(みちもり・生年不詳~1184年、中宮寮の次官)、都合其の勢四万余騎で、南都へ発向(はっこう)す。大衆(だいしゅ・興福寺などの門徒)も老少きらわず(みんな)、七千余人、甲(かぶと)の緒(お)をしめ、奈良坂・般若寺(はんにゃじ)二箇所、路(みち)を掘りきって堀ほり、掻楯(かいだて)かき、逆茂木(さかもぎ)ひいて待ちかけたり。平家は四万余騎を二手に分かって、奈良坂・般若寺二箇所の「城郭」に押し寄せて、時をどっとつくる。
 平家軍は南山城(みなみやましろ・京都府南部)から大和(やまと)国に侵攻した。奈良坂(ならさか)は平城京の北から京都府木津町(きづちょう)へ向かう道であった。逆に侵攻する平家軍からすれば木津から東大寺の北にあたる般若寺(はんにゃじ)を目標に進撃する坂をいった。般若寺は654年、蘇我日向(そがのひむか)の創建と伝えられる。真言律宗の寺である。
 これを読む限り、般若寺と奈良坂で南都勢力の軍は、道路を遮断して待ち受けた。「城郭」というのは、堀と掻楯(かいだて・垣楯とも書く)、逆茂木(さかもぎ)などの施設を指したということが分かる。掻楯とは厚い木製の楯を横一列に並べたものである。楯1枚の大きさはおおよそ高さ140センチメートル、幅は45センチ、厚さは3センチ。逆茂木というのは、棘(とげ)のある木の枝などを束ねて横に結んだ木柵をいう。当然、馬を当てれば大けがをさせてしまう。
 したがって、この時代でいう「城郭」とは、これらの簡便な交通遮断施設であり、いまではバリケードともいうべきものに過ぎない。簡単な野戦築城施設でしかなく、当時の「城郭」とはこうしたものを指したことを覚えておくべきだろう。

逆茂木をひき、高矢倉(たかやぐら)かき・・・

 堀は「ほる」という、逆茂木は「ひく」といい、高い矢倉は「かく」という。こうした戦場用語は長く用いられた。近世にあっても軍法用語として、「我の旗はたてる、敵の旗はなびく。平時にお殿様といい、家臣というを、戦時には御大将(おんたいしょう)といい、軍兵士卒(ぐんぴょうしそつ)という」などとされていた。
 1183(治承2)年4月、反乱を起こした北陸道の木曽義仲軍が官兵である平氏軍を越前国火打城(ひうちじょう)で迎え撃った。
「城郭の前には能美河(のうみがわ)・新道河(しんどうがわ)とて流れたり。二の河の落合い(合流点)に大木をきって逆茂木に引き、しがらみ(柵)をおびただしうかきあげたれば、東西の山の根(ふもと)に水さしこうで、水海(みずうみ)にむかえるが如(ごと)し」
 同じく10月に備前国(びぜんのくに・岡山県南東部)福隆寺縄手篠(ふくりゅうじなわてささ)の迫(せまり)という戦場があった。妹尾兼康(せのおのかねやす・生年不詳~1183年)の軍勢が木曽義仲軍と戦ったところである。兼康は平清盛の家人(けにん)、備中国妹尾村(岡山市)を本領とした。いったんは木曽義仲に降伏したというが、このとき反乱を起こした。
「都合其の勢二千余人、妹尾太郎を先として、備前国福隆寺縄手、篠の迫を城郭に構え、口二丈深さ二丈に堀をほり、逆茂木引き、高矢倉かき、矢先をそろえて、いまやいまやと待ちかけたり」
 二丈といえば、20尺、1丈は3.03メートルであり、二丈はおよそ6メートルにもなった。幅6メートルで深さ6メートルでは落ち込んだら大変である。
 また、1184(寿永3)年1月に木曽義仲軍と鎌倉軍の宇治川合戦でも、
「宇治も瀬田も橋をひき、水の底には乱杭(らんぐい)打って、大綱(おおづな)張り、逆茂木つないで流しかけたり」
 というバリケードが描かれている。「橋をひく」というのは、橋脚はそのままにして、橋板を外してしまうことをいう。徒歩や騎馬では橋げたしか残っておらず、すらすらと渡ることはできない。

生田森(いくたのもり)と一の谷の城郭

 ふたたび京都の奪還をねらう平家軍は摂津国生田森(せっつのくに・いくたのもり)に城郭を築いていた。東から攻めた源範頼(みなもとののりより)の軍勢は、ここで激しい迎撃を受けた。西にある主陣地である福原(ふくはら・神戸市兵庫区福原町あたり)の防衛ラインの第一線が生田森だった。生田森は現在の神戸市中央区にある生田神社の境内である。関東方の新田氏、足利氏はここで大変な苦戦をした。
「一の谷の西の木戸口に進んでいったら、城郭の構え方は、まことにすごいものだった。陸地を見れば山のふもとにまで大木を切って置いてあり、そのかげには数万騎の軍勢が並んでいた。海岸線には山のふもとから遠浅の海中まで大きな石を積み重ねてあり、乱杭(らんぐい)を打ち込んであった。大船が数知れず海岸に乗り上げていた。そのかげには数万疋(ひき)の馬が重なり合ってつながれている。その背景には赤旗(平家軍の赤い旗)が数知れずたなびいて、矢倉(やぐら・狙撃用の高い建物)の下にも雲霞(うんか)のように敵兵がならんでいた。海には数千艘(そう・隻のこと)の軍船が並んでいるので、容易に攻め落とせるといったようには見えなかった」
 川合博士は次のようにまとめている。ふつう「一の谷の合戦」といわれているようなものは、ほんとうは「生田の森・一の谷合戦」と呼ぶべきだという。当時の戦闘は、こうした地形を利用し、人工工作物を使った防衛ラインをめぐる戦いだった。
 構築された城郭をめぐる攻防がふつうだったのである。

馬の性質と行動

 まず、大河ドラマや時代小説で養われたわたしたちの戦争観から点検を必要とする。それはあまりに簡素な、堀、逆茂木、掻楯といった交通遮断バリケードに対応するような戦闘様式と軍隊の編成・構造を考えてみよう。
 堀といえば、わたしたちはすぐに近世城郭の満々と水をたたえた水濠を思い出す。ところが中世初期の堀は、ほとんど空堀(からぼり)だった。江戸期の城は長く続いた戦国期の教訓から、あまり深いと船を使われてしまうし、浅ければ歩いて攻めかかられてしまう、ということから深さ3メートルあまりの水濠が増えた。幅についても同様であり、城攻め用の梯子が届かないようにせいぜい15メートル余りがふつうだった(特別な例として最大が15メートルである)。
 ふつうの堀は、前に記した奈良坂の例でもわかるように、せいぜい6メートル、道路を切り取ったようなものだった。これは、近世あるいは戦国期の歩兵の攻撃を予想したようなものではなかった。馬の習性に対するものだったと考えていい。
 馬はもともと草原に暮らすものである。山坂にも弱い。それは昔からけわしい山岳地などでは馬は荷物運搬には使われなかった。牛である。背中に荷を載せ、平地を歩くのは馬である。牛はひずめが2つに割れた「偶蹄目(ぐうていもく)」の動物であり、馬より坂道には強かった。
 同時に、馬は柵を越えたり、不整地を飛び走ったりするのは苦手である。そこで、馬術の障害競技を見るとよい。人馬一体となって・・・といわれるが、実は騎手がいつも馬を励まし、苦労して飛び越えていることがよく分かる。ときどき、「拒止(きょし)」といってどうしても馬が飛ばないこともある。元来、馬は障害物を飛び越えないものなのだ。
 それが証拠に古代の牧(まき)、牧場の格(木柵)や土塁を見ればいい。また、堀があったことも馬の逃亡を防ぐには、そうした地形としての高低差を設ければいいことが分かる。つまり、中世前期の城郭とは、騎馬隊の移動を困難にさせるためのものと考えていい。

高矢倉からの狙撃

 前面に空堀を備え、逆茂木で敵騎馬の前進を防ぐ。そこで混乱し、停まる騎馬隊に向けて高い足場を組んだ射座から矢を射る。「矢先をそろえて」「いまやいまや」と待ちかけているのである。また、川底に乱杭を打ち込まれ、太い綱をかけられた川を騎馬で渡ろうとした場合も危険だった。脚をとられ、前進をしぶる馬に乗る騎士を狙撃し、馬も射倒す攻撃が行われた。
『平治物語(へいじものがたり)』の中には敗者の藤原信頼(ふじわらののぶより)と源義朝(みなものとのよしとも・頼朝の父)を討ちとろうとする比叡山横川(よかわ)の法師たちの様子が描かれている。
「横川の法師たち、2、300人が信頼と義朝が落ちて行くだろう。捕まえようといって、龍華越(りゅうげごえ)に逆茂木をひっかけまくって、掻楯をこしらえて待ち伏せた。そこへ30余騎ばかりが来て、下馬して逆茂木をものともせずにどかそうとしたところ、横川の法師たちがさんざんに矢を射かけた。陸奥六郎義高(むつのろくろうよしたか)の首の骨に矢が一本当たって貫いた。六郎は馬から落ちた。」
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)8月15日配信)