陸軍経理部(5)

はじめに

 立春も過ぎましたが、寒波はまだまだ続くようです。わたしの周囲でもインフルエンザに罹った方も多くおられます。みなさま、ご自愛ください。
 このたびは読者の皆さまからの反響にたいへん励まされました。それはご質問です。長い連載になりました。おかげで重複した内容や、改訂している記述もあり、初めて読者になってくださった方々もおられることを忘れがちです。「歴史を学ぶことが好き」と言ってくださったS・Nさま、ありがとうございました。そして、軍令系統と軍政系統の人事交流といった興味深い内容をおたずねくださったI・Hさま、ありがとうございます。
□命令受領者と部隊について
 まず、Sさまのおたずね、「命令受領者」とはです。ここでいう命令とは必ずしも「軍令」上の「作戦命令=作命」とは限りません。日常生活の細々とした部隊の運営など、たとえば人事異動、衛生関係に関する達しなども広義の命令になります。だからこそ、「作命」という言葉があり、軍隊指揮権をもつ人がそれを発した場合、「天皇陛下のご命令」ということになりました。
 一般に「命令受領者」とは広義の命令(上司から下級者への法令に則ったもの行動指示)も、狭義の命令(作命=軍隊の武力発動に関する命令)も発令者と受令者があり、受け取る者を「受領者」と言いました。そこには適用を受ける部隊名が必ず書かれていて、単に受領する人と実行を命じられる人は別であることがしばしばです。師団長の文書命令を前線にいる大隊長が直に「受領」することはまずありません。「命令受領者」が出かけて行きました。
 平時の聯隊や特科の大隊(工兵や輜重兵)の日常生活を支える喇叭号音の中に、命令会報の伝達のために「えんぴつもって かみもって れんたいほんぶに こおい」と覚えさせられた「命令受領」という曲譜があります。こんなときは各中隊の文書掛曹長、もしくは週番下士官が聯隊本部に命令受領に行きました。
 次に「部隊」ですが、これはご指摘通り、2人以上を部隊としました。つまり2人で外出していて、前から上官・上級者が来た場合、「部隊ノ敬礼」を行ないました。片方が指揮官となり、歩調を取らせ、挙手注目の礼をし、もう一方は目視・目送します。直属上官の場合は停止敬礼です。
 また、防諜上の理由から有事には「第○歩兵聯隊」を指揮官の名前をとって「○部隊」とし、中隊以下は「○隊」といったこともありました。
□軍政と軍令、各部門の人事交流について
 これも気になる話題です。陸軍には「三長官」、「三次長」、「三官衙(かんが)」という言い方がありました。陸軍大臣、陸軍参謀総長、陸軍教育総監を三長官といい、同じように陸軍次官、陸軍参謀次長、陸軍教育総監部本部長を三次長といいました。これらのトップがあったのが、三官衙、すなわち陸軍省、参謀本部、教育総監部でした。
 なお、教育総監部は天皇直隷の組織であり、教育総監は大将で、本部(長は本部長・中将)の他に騎兵監部(長は騎兵監)、砲兵同(前同)、工兵同(前同)、輜重同(前同)と組織されていました(昭和11年平時編制表)。のちに化兵監部、高射砲兵同、通信兵同なども設けられます。
 さて、陸士出身の現役兵科将校の歩むコースです。ただし、分かりやすく平時にあたる大正時代から昭和戦前期までを考えてみます。まず、士官学校予科の卒業時には各兵科とそれぞれの原隊(げんたい・隊付教育を受け、のちに少尉に任官する部隊)が指定されました。兵科と赴任地の希望を提出し、予科士官学校の区隊長(クラス担任にあたります)から決定を知らされたそうです。このとき、みな輜重兵になろうと言う者は少なく、区隊長はその指名と失望を慰めるのに苦労したといいます。
 そして原隊で士官候補生として訓練を受け(上等兵、伍長・軍曹と進み)、本科へ戻って来ます。本科では兵科ごとの小隊長としての勤務ができるだけの教育をします。その卒業には、兵科ごとの序列と同期生全体の中での序列が付きました。原隊に戻って見習士官(みならいしかん)の期間を経て、少尉に任官します。この時には聯隊長から「○中隊付」という命課を受けました。平時編制には「小隊長」という補職がありません。
 平時の陸軍では少尉の期間が3年から4年もありました。また中尉も同じようなものです。この少尉・中尉の間に陸軍大学校を受験します。もっとも砲兵科と工兵科将校は陸軍砲工学校普通科へ全員が進み、その優秀者(上位3割くらい)がまた同高等科に進みました。この人たちのまたまた優秀者は他兵科の陸大出身と同じような人事上の扱いを受けたのです。
 難関の陸軍大学校でも成績がつきました。卒業席次が首席以下6人くらいまでを恩賜組といいますが、この人たちはすでに在学時から、あれは軍令系統か軍政系統かと、いわば青田刈りをされていたようです。陸軍省軍務局あたりから声がかかれば、海外駐在の口が早く回って来ました。もっとも教育総監部にも割り当てがあったらしく、卒業と同時に総監部の勤務将校というコースもありました(これも海外駐在要員)。参謀本部はやはり作戦の成績が良かった人に声がかかります。また、語学の優れた人も参謀本部要員でした。対外情報収集や諜報などに語学は必須でしたから。
 勤務将校といいましたが、各官衙には定員としての高等官(将校と同相当官)の数が予算上決まっていて、中尉の頃には、正規の勤務者ではなく籍は原隊に置いたまま官衙で働くのが普通でした。
 大尉(だいたい30歳くらい)になると優秀者には海外勤務がありました。少佐になれば本省や総監部の課員、参謀本部部員、古参になって各課の班長を務めます。中佐に進んで高級課員、大佐で聯隊長になって各官衙の課長、続いて少将に進み、局長、部長でしょうか。
 
 さて、この少佐、中佐時代の交流ですね。おおよそ陸軍大学校の教育は、野戦軍の将軍となるように、あるいは軍や方面軍など高等司令部の幕僚職務をこなせるようになるよう考えられていました。それ以前の職務は、それぞれに職務の性質や重要性の問題があり、ポストごとにどのような本人の経歴や実績があればいいか、ほぼ決まっていたといっていいでしょう。
 たとえば陸軍省軍務局長になるには、軍事課の勤務が必須です。予算班長や編制班長をこなして高級課員、課長になっていた人が多くいました。参謀本部でもまるで作戦をやったことのない人が突然課員になってうまくいくことはありません。もっとも、いつでも例外という人がいるのは、今も変わらないでしょう。
 この人事の問題は、教育学専門の私にとってもたいへん興味深いものです。一般でよく分かりやすいのが、藤井非三四氏の書かれた「陸軍人事」です。光人社NF文庫で手に入ります。
 また東条英機大将の陸相・首相・参謀本部総長の兼摂(けんせつ)というのは常識外のことであり、当時も賛否両論ありました。ただ、同時でなければ陸相経験者が参謀総長になるということはあり得たのが実際です。

千島の青カビから黒カビ

 第42師団(勲・イサヲ兵団)は千島、北千島防衛のために1944(昭和19)年2月に仙台師管で動員、編制完結した部隊である。S主計大尉は士官候補生2期出身の現役だった。42師団経理部部員になるまでは、ガダルカナルで苦戦した第2師団経理部経理勤務班にいた。骨と皮にやせ細って、ようやく撤退してから帰国。半年の入院後、42師団勤務の命課を受けた。
 千島は濃霧の激しいところだった。まるでカーテンを引くように霧の幕がかぶさってくる。いや、芝居の舞台で幕が下りたと言ったほうがいい。その濃霧がやってくると、米俵がまるで役に立たない。もともと俵は乾燥した藁でできていて、それは湿気対策でもあった。ところが、それが少しも役に立たない。青カビがついて、続いてそれが真っ黒になってしまう。
 
 雪の深さも予想外だった。これはいい場所だとみて、天幕を設置しようと穴を掘らせた。すると6メートルも7メートルも下にならないと地面にならない。しかも這い松が生えていた。天幕を張るにも苦労があった。
 カビはひどかった。戦時梱包の規定ではカマスを二重に重ねることになっていた。それならまだましだったものを、なぜか一重の米俵で運ばれてきた。それで青カビから黒カビが米に生えてしまう。そうなると、食える部分がひどく少なくなった。結果、支持日数(部隊の給養を支えると言う意味)が減ってしまい、実際に支給できる日数は書類上と食い違ってしまった。内地の送りだす方の書類では10日分だとなっていても、現地の実態は3日分しかないなどということになった。

ビタミンCを摂らせよ

 青物がまるでなかった。ビタミンを豊富に含む野菜類が手に入らない。たとえ種や苗が送られてきていても、7、8、9月以外は雪だらけである。気温もマイナス20℃は珍しくもなく、寒いときは同40℃にもなった。冬には強風にもまいった。風速40メートル毎秒というのもよくあった。
 ビタミンCがまるでなかった。経理学校ではビタミンCが足りないと、ビタミンBが摂れないと教わった。ビタミンB1を摂取するにはCが必須である。兵たちは次々と脚気症状を訴え始めた。重量物を運搬中に、何かに蹴つまずいた脚気の罹患兵が倒れて、ショックで死んでしまったという報告もきた。
 そこでS主計大尉は京都府の宇治に出張させてもらった。なんとか緑茶を買って帰って、ビタミンCを兵たちに摂らせたい。そうしなければビタミンBも吸収できないのだ。
 ところが現地の宇治に行って驚いた。海軍がすべてお茶畑と契約していて、よそに回す茶など葉っぱ一枚もないとの答えだった。海軍は長い間の経験から、脚気対策として番茶がいいということを知っていた。またビタミンCを最も多く含むのは煎茶だったという。それをすべて体内に入れるには抹茶がいいと国立研究所の技官が言った。
 S主計大尉は考えた。こうなっては仕方がない。肚を決めた。海軍の発注書を見せてもらった。それを旅館に帰って偽造することにした。もちろん、印鑑も偽造した。詳しいことは記録にないが、大尉が海軍省衣糧課長の名を騙ったニセの電報を東京の虎の門(海軍省の近く)の郵便局から打った。「勲部隊のS主計大尉に抹茶を譲渡せよ」という内容である。そうした手を尽くしてお茶問屋に出かけて番茶を手に入れたのは確かである。渡された番茶は箱に詰められ、戦闘機の座席の後ろに積まれて千島に渡った。平時であったら詐欺事件、官名詐称、文書偽造の軍法会議ものである。もちろん、それも覚悟の上だった。
 師団長は喜んだ。患者は激減したのである。軍医部長もビタミンCの注射より効果があったと褒めてくれた。実は大尉の経理学校の卒業成績は決してよい方ではなかった。陸士と陸軍経理学校の同期卒業はたいていがいっしょに進級した。候補生の1期生は陸士52期生と同時に少佐に進んだ。陸士53期は20年6月の進級で少佐になったが、そのとき8人しか少佐には経理部からはならなかった。その1人にS氏は入っていたのだ。序列では200人ばかりを飛び越した抜擢が行なわれたらしい。師団長や軍司令官の上申が効いたに違いない。戦時らしい話ではある。

前渡し金を使ったK主計中尉

 ラバウルで展開した第6飛行師団経理部長の話がある。Kという学校の成績が悪かった主計大尉がいた。勤務ぶりも問題があり、いろいろな部署でもてあまされた結果、南方に行く師団経理部に配属されてしまった。経理部長は先行することになり、前渡金(戦地に行く部隊に当座渡された現金)を内地に残るK大尉にすべて預けた。必要な物は買ってもいいが、現地でいくらかは使えなくてはならない。先行した部長は中尉を港に迎えに行った。
「おい、前渡金はいくら残してきた?」
 と、経理部長が訊くと、
「みんな使って、一銭も残っていません」
 と、Kはしれっとした顔で答えた。
 どうせ南方に行って、ジャングルばかりだから金なんか使うところがないでしょうと涼しい顔をしている。ラバウルやニューギニアなんて金で買える物資などあるわけがない。だから宇品港から出るまでに広島の街を歩いてみたという。戦時中だから何も買うものがない。そこでお茶屋に抹茶があるのを見つけた。抹茶は高価だったが、前渡し金を使って、それをすべて買い付けてしまった。残った金は、戦地に行ったら無煙、無火で炊飯をする必要があるだろうからと全部木炭にしてしまった。
 なんてひどいことをする奴だと思ったが、高級部員たる主計将校に全権委任してしまった結果だから、どうにもしようがない。抹茶は梱包にされて、長い間、ほっておかれた。ところがこの抹茶が当たった。デング熱はじめ熱帯病に次々とみんなが罹っていった。高熱が出て、食欲がなくなり、みな衰えてしまった。ところが、この抹茶を飯にかけてお茶づけにすると、食欲が高まって食えるようになった。
 司令部経理部には昼になると、次から次へと人が集まってきた。高価な抹茶のお茶づけを食べて、病気が治っていった。まさに殊勲甲の価値ありという話になった。それからも戦場で何かがあると、Kは気軽に「わたしが行ってきます」という。部長、責任とってくれますねと言うから、おお、責任は一切俺がとるぞと言うと、「行ってきます」と元気よく出かけて行った。
 まるで戦争のために生まれてきたような男だった。いつも元気で明るく、面倒な事態もものともせず、必要な物をどうやってか手に入れてきた。学校の成績なんて、戦場勤務では関係はない。それこそが師団経理部長が痛感したことだった。

でたらめだった「兵要地誌」

 予想される戦場や地域のことを調べ、情報を満載したはずの文書、それが「兵要地誌」だった。ところが千島のそれはまるで実態とは大違いだった。無人島だったし、あまり真面目に調べてもいなかったのだろう。そんなところに1個師団もの兵力を送り込んでしまう。そのでたらめこそが日本陸軍の一部を表してもいるのだ。
 視界がゼロになるようなガス(霧)が多い。港湾施設もまったくない。桟橋もデリックもない。野戦倉庫長(経理将校)は荷揚げから運搬、保管までしなくてはならなかった。追送されてきた物資、兵器、弾薬、物資などの揚陸にはひどい苦労があった。
 しかも敵の潜水艦がやってくるようだ。それへの警戒もしなくてはならないから、少ない兵力で荷揚げをしながらの難行苦行だった。岸に近いところに寄せてきた輸送船から伝馬舟や小発(小型の上陸用舟艇)に手渡しで物資をおろす。視界がゼロに近い時でも、そろそろと舟を動かしてくる。ようやく接岸すると、これまた手から肩へという調子である。
 そこへ潜水艦らしいものが見えたと警報があると、伝馬舟や舟艇を置き捨てて輸送船は出航する。しばらく経って誤報と分かると戻ってくる。島にいる我々も潜水艦の艦砲で撃たれたら大変だ。荷物をできるだけ隠し、自分たちも伏せている。そんなこんなで予定通り物資の揚陸は進まなかった。
 港湾施設がない。揚げた物資を安全に格納する場所や設備がないということだ。海岸にそのまま積みあげるしかないから、海水をかぶってしまう。海水をかぶった米は食べられなくなった。
 昭和19年3月、師団は展開したが、約1年分400日分くらいを目標に物資を集積しようということだったが、実態は3カ月分がやっとというところだった。そうなると、上陸当初から配給は減量ということになる。経理部から達して、各部隊それぞれに海岸に勤務員を出して、漂着する海藻や昆布を拾ってきて食事に混ぜろということにした。
 結局、南方や支那大陸のように主食や主食代用品を自給するということは北方ではできなかった。追送されてきたものをいくらかでも何かで補い、いかにして食い伸ばすということしかできない。現地自活班を部隊ごとにつくり、野菜をつくり、製材もして、炭も焼くというようなこともしたが、自活によって戦力を維持することなどできないところだった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)2月7日配信)