陸軍経理部(14)

ご挨拶

 本格的な春がやってきました。当地では桜の開花が例年より1週間ほど早く、小中学校の卒業式が桜の中、入学式のほとんどは葉桜という新緑のもとに行なわれました。
 今年は陸上自衛隊では過去最大の変革が行なわれています。まず、陸上総隊の創設です。これまで実戦部隊の指揮は、海上自衛隊は自衛艦隊司令官、航空自衛隊は航空総隊司令官が一元的にとってきました。ひとり陸上自衛隊だけは、全国を5個方面隊に分け、各総監が指揮をとり、管区ごとの運用がされていたのです。これは戦前から続く、国土防衛のための知恵でしたが、今回、統合運用の実をあげるために総隊という組織を創りました。
 直轄部隊としては、水陸機動団も編成されました。第1水陸機動連隊と第2同といわれる部隊も生まれたのです。また、各地では古くからの普通科連隊が即応機動連隊に生まれ変わっています。いま、師団はみな同じ、旅団はまた同じといったことはなく、限られた装備、人員を目的別に振り分けて機能別な部隊編成も当たり前になってきました。
 さらに詳しく見れば、戦車や火砲の大きな削減のおかげで、各師団の戦車大隊や特科連隊は消えてしまい、それぞれ方面戦車隊、同特科隊に改変されています。積年の軍縮の成果があがってきていますが、これで本当にいいのだろうかなどと素人のわたしは心配しています。
 また、敢えて言わせてもらいます。今回の「日報問題」では、文民支配(シビリアンコントロール)のことを楯にして、文書公開で政争の具になっている。しかし、自衛隊という武装集団の文書を他省庁が出す一般行政文書のように、公開開示する必要があるのでしょうか。
 ある友人にいわせれば、「日報」とは「戦闘」という言葉が(軍隊ではなくなった戦後の自衛隊では)使えないから、一般行政文書のように自衛隊では言っているだけで、旧陸軍では「戦闘詳報」といっていたと。戦闘詳報ならば、その記録は日々の部隊の行動だけではなく、戦闘の教訓や情報分析をしていました。
 ここで、あくまでも部外者であるわたしは考えます。政府が「安全な地域」であると決めて提案し、国会で正当な手続きを経て、自衛官は紛争の起きていたところに派遣された。その自衛隊が日報に「戦闘」という言葉を入れたなら・・・。とたんに野党は大騒ぎ。おそらく政権の基盤を揺るがすような事態が起きたでしょう。なぜならわが国の「民主主義」とは、何でも「国民に知る権利」があるから公開せよという意見が絶対正義です。軍事情報もすべて素人に見せる必要が出てくる。
 そう考えたら、とても公開が期待される「日報」に危険な事実は書けるわけがありません。出したら、すべての敵に手の内をすべてさらけ出すようなものです。武装組織である自衛隊に、「一般行政官庁」と同列の行動を強いていいものか。
 それもこれも、憲法、とりわけ9条の規定を論議することもせず、「軍隊」ではない自衛隊を他国へ出かけさせ、隊員を危険にさらし、何かあっても現場でなんとかするだろうと放置してきた、わたしも含めた国民のせいなのです。
 いまテレビを見ていたら、今回のことでシビリアンコントロールができていないと考える国民がアンケートの結果で80%以上、そして今回で悪いのは自衛隊幹部だという声が37%もあるといっています。なんとも哀しい話です。
 それではいつも通り、○経理官、●兵科将校、※解説で表記します。
○ 平均しての話だが、牛1頭から造ることができる軍靴は、編上靴にして5組、長靴にして3組にしか過ぎない。それでいて牛の飼育状況は内地、台湾・朝鮮を合わせても300万頭内外である。
 そのうち朝鮮牛は背嚢革専用に使わねばならず、300万といっても、その中には幼牛、乳牛、その他軍用に使えないものがたくさんある。だから軍靴に使えるのは120万から130万頭くらいである。この程度の牛だけでは、戦時に100万の野戦軍を動員したとき、軍靴の補充はわずかに2、3年の需要を満たすにすぎないのだ。
※解説
 明治の初めから陸軍下士卒の足元は、黒色短靴と白麻製の甲がけ脚絆だった。甲がけ脚絆とは今も海上自衛隊が礼装でつけているスパッツである。短靴とは、われわれが日常に履いているような、くるぶしが出る紐がけの靴をいう。
 それは西欧諸国も同じだったが、明治30(1897)年ころには、英国陸軍は迷彩効果を期待したカーキ色の被服を採用した。同時に、足元の装備も羊毛製の巻脚絆(ゲートル)と編上靴(へんじょうか)を制定する。戦場の悪路、泥濘への対策だった。
 この靴は、今の陸自の半長靴(はんちょうか)よりは丈は短く、民間のデザートブーツと同じ構造である。これを膝下までゲートルで包帯状に足首から巻きつけていった。ふくらはぎに密着し、ズボンの裾は隠れ、水も直接は入ってこなくなった。
 日露の開戦直前、わが陸軍も同じように、白い夏服をカーキ色に染めることとする。あわせて英国風の編上靴、巻脚絆、綿製靴下を制式とすることにした。
 ところが、すぐにそれらが間に合うわけもない。備蓄品だけでは間に合わず、韓国から牛皮を買い上げた。さらに各部隊で食用に屠殺した牛の皮も兵站を通じて国内に送るようにさせた。これを「還送牛皮」といった。
 1905(明治38)年4月、奉天会戦が終わったころには、その数も2万7000頭分になっていた。しかし、1頭から軍靴5組とすれば、13万5000組でしかない。野戦軍100万に対して、その供給は13.5%でしかなかった。足りない分は再生軍靴といわれたように、廃品に近いようなものを大修理をしたり、ゴム底の足袋などで代用したりするしかなかった。
 また、牛皮を塩漬けにして運ぶため、1頭分あたり、牛に大小の違いがあるので、塩を2升から6升も使ったという記録がある。
 この大正時代には輸入の90%は北米大陸に頼っていた。わが国には食用の牧畜の文化がなかったし、乳製品も珍しく乳牛も少なかった。
 なお、日露戦後に制式とされた軍靴を(明治)42(年)式編上靴といい、すぐに45式に改良された。42式は手縫い、45式は米国製のミシンで縫ったものである。また、糸には瀝青(れきせい・石炭から抽出したピッチ)を塗って、切れにくくした。昭和時代には満洲事変(1931年)の前年に制定した改45式(もしくは昭5式という)が使われた。これは底の縁(ふち)を外側に出したものである。
○ そんなわけだから、平時では皮革については、それほど心配ではないが、製革の原皮は年々相当量の輸入になっている。しかも、軍隊は皮革をたいへん必要とする。主な用途には、小銃の負い革、拳銃嚢、各種かばん、馬具、弾薬盒、機関銃部品嚢、兵卒の帯革、背嚢などなどがある。これらの原料はほとんど輸入品なのだ。
 前にも語った絨(ウール)の原料では、当局はそうとう苦心している。欧州大戦の当時(1914~18年)は羊毛の輸出を生産国が禁止したために、民間価格がひどく騰がった。だから内務経理上からいえば、たとえ1日でもその保存を長くするようにしなければならない。
 軍靴を1日間定期の給与期限(7ヶ月半)より長く履き伸ばすということはたいしたことではあるまい。全軍の兵員を20万とすると、1日の履き伸ばしは20万日の延べ日数になる。これを給与期限の7ヶ月半で割ると、軍靴870組、2日履き伸ばせば1740組で、これは1個歩兵聯隊の所要では約9ヶ月の量に相当する。
※解説
 欧州大戦で生産国が海外への輸出を止めたのは羊毛ばかりではなかった。もちろん、軍用品の獣皮もそうだった。靴や装備品だけが皮革の使い道ではない。兵器製造のための各種の工作機械には皮革ベルトが必需品だったし、船舶や車輛のパッキングなどにも使われていたのだ。
 当時の国民生活の一部を想像できる数字がある。この時代よりほぼ10年後でも、全国の革靴の生産量のうち95%が軍靴だったのだ。一般社会人で革靴をいつも履く人は、ひどく少なかったことがわかる。
 また、話題になる靴や皮革製品は下士兵卒は支給品だが、将校やその相当官以上は自弁だった。昔の官吏の俸給は、社会的立場の維持経費も含めての支給額である。将校たちは衣服も装具、拳銃、双眼鏡、軍刀、指揮刀、背嚢、図嚢などすべてを自費でまかなっていた。
 よく大正時代に「貧乏少尉にやりくり中尉、やっとこ大尉」などといわれたというが、あれは偕行社で組んだローンの返済のおかげが大きかったようだ。
 サラリーマンの背広がデパートで30円くらいだった時代。軍衣袴上下で冬服40円、外套30円、軍帽5円、長靴10円、拳銃35円、指揮刀30円などといったのが標準価格。それに加えて儀式で着る正装一式で120円などといったら、いくら少尉任官時に手当てが400円出たとしても、残金はローンを組んで返済するしかなかった。少尉は貧乏、それも当然のことだった。大尉になればどうやら借金も消え、ちょうど子供が大きくなるころである。中佐になって俸給もあがり、ようやく生活が楽になったというのは当時の将校たちの率直な感想だった。
○ 兵卒の中には軍衣袴や営内靴(えいないか・室内で履く革製の踵【かかと】つきのスリッパ、廃品の軍靴から造ってあった)を暖炉(だんろ)や火鉢で焦がしているのを時々見るが、もってのほかである。
 また、靴箱に並んでいる営内靴の踵は各自の心の陳列とも見られるのだが、これを踏み潰して平気な顔をしている。「私の心は曲がっております」とでもいうようなものだ、むしろ浅ましい心根だが、これを見つけて矯正(きょうせい)しない幹部は、まだ実学の薀蓄(うんちく)不十分とみて差し支えない。
 兵の中には支給された時からすでに踏み曲げてありましたと言い訳する者もいるが、大部分は直して履けば、ある程度は直るものだ。それから靴下だが、使えるものを廃品としたり、ゴミ捨て場などに投棄されている。参考までに聯隊の各中隊の大正13年度と14年度の古靴下の返納数を表にしてみた。
※解説
 陸軍が支給した綿製の靴下は、軍足(ぐんそく)といわれた踵のない筒型のものである。製造上の容易さをねらい、また痛みやすい踵部分を固定せず、回して履けるようにしたからだ。そして、行軍事には米を入れる袋にもなった。
 表にあるのは第1中隊から第11中隊と機関銃隊の合計10個中隊である。大正時代だから、平時には各大隊に3個中隊となり、第4、同8、同12中隊は欠けている。表によれば、大正13(1924)年度は、合計で1万4896足であり、最小は機関銃隊の533足、最大は第9中隊の1885足である。もっとも、機関銃隊は定員が90名と少ないのがそのおかげだろう。
 翌年の14年度は合計が1万2154足となり、2742足の減少である。とりわけ指導が厳しくされた結果だろうか、第9中隊は1425足も減らされている。第5中隊も1806足から470足と1336足も少なくなった。内務経理を重視して、幹部達が努力した結果だろう。
○ こうした配慮から幹部は各兵の個性を矯正し、その自覚をうながさざるを得ない。野外演習でも休息時には腰を下ろす場所に注意するなど事細かな注意が必要である。雨が降っているとき、外出先で頭巾(ずきん・フードのこと)をかぶらず、軍帽を雨にさらして、雨水があごにしたたっていても平気で散歩する兵卒は、まったく不心得で不注意な者だと断定せざるを得ない。これは上官の監視外での各兵の官物尊重心の反映であって、まったく兵の自覚にまつ他はない。
※解説
 これはなるほどと思わされる。大正時代の外出先での写真など見ると、雨天時にも兵卒はあの面倒くさいフードなどかぶっている者はまずいない。軍帽や襟元の保護を考えれば、まことにもっともなことだ。なお、制服を着た軍人は決して傘をささない。古今東西、西洋式軍服では傘はもたないことになっている。わが国では、「袖印などこれある服では手傘無用のこと」という法令が明治5(1872)年には出ている。
 日華事変のときに、中国兵が「から傘を背中に負っている」と、それを後進国であると笑った記事がある。
 なお、次の経理官の記載はまさに戦前常識の用語が多く、特徴的なのであえて煩瑣だが原文に近く書き直して紹介しておく。
○ 最後に、赫奕(かくえき・かがやいて美しいこと)として光り輝く明治大帝陛下のご遺徳のうちに、いかに御倹素(ごけんそ・つつましく質素なこと)にして、御堅忍(ごけんにん・我慢強くこらえること)にわたらせ給いしかについて、2つの事例をはなはだ恐れ多いことながら紹介しよう。
 それは「奏上袋」と「獅子皮修理」のことである。
 奏上袋というのは各省から御親裁をあおぐべき書類を省別にしていれて御前にたてまつる二重封筒の形に作られている紙袋の俗称だが、陛下はその袋の端をナイフでお裂きになり、その裏紙にお歌をおしるしになり、紙面がいっぱいになると、お机のお引き出しにお入れになるという風で、ご登遐(とうか・はるか遠くに行かれるということから崩御されること)になるまで新しい紙や色紙や短冊にお認めになったことはないという。
 また獅子皮というのは表御座所のお椅子の下に敷かれてあった敷き皮のことで、長い間、お足が触れるにつれてだいぶ痛んで切れかかってきたそうだ。すると陛下は「敷き皮をつくろうように取り計らえ」とおっしゃられた。しかし、あまりにひどく破れているから修理しても効果があるまいというところから、「もうお役に立つまいと存じます」とお側の者が申し上げたそうだ。ところが、陛下は一向にご承知もなく、「とにかく皮屋に命じろ」との仰せがあり、結局、宮内省御用達の毛皮屋を呼んで、つくろい方を命じたそうだ。しかし、何分破損が激しかったので修理ができない。そこで獅子の毛皮を用いず他の獣の皮で差し支えなければ修理をしてみようという意味を言上(ごんじょう)すると、陛下には「ほかの獣の毛皮でもよろしい」というお許しが出て、やむを得ず他の皮でつくろい、また元のようにお椅子の下にお敷き申し上げたということである。
 なんという感激に満ちた尊きお話であろう。僕は近頃の世相にかんがみて、深く記録すべきことだと思うから、ついでにご紹介した次第です。
● 地味と高尚!これはたいてい相ともなうものだ。経理事務のごときは地味な仕事であるが、しかし、そこには言い知れない高尚なものが相ともなっていると思う。建築物を見て、材料の良し悪しや間取りなどに注意する人が多い、むしろこれらはみな当然だが、隠れている地業・・・すなわち基礎工事の堅否(けんぴ・堅固か否か)に着意する者はきわめて稀(まれ)としかいいようがない。地業がいかに建物に大切か、ここに言うまでもない。
○ 地味といえば思い出すのは、秋の野に咲くあの野菊の花だ。僕は秋になって野に遊ぶたびに、この花によって無言の教訓を受けるのである。何にも世に媚(こ)びるではなく、きわめて地味ではあるが、いかに高潔であるか。いかに高尚であるかがこの花の生命である。
 君が言うように、僕の業務は表面的ではないけれど、その業務の影響するところは、すこぶる広範であるからこそ、むしろ僕は自ら進んで、縁の下の力持ちをもって任じて、すべて事務にたずさわるにあたって隠然重きを為す(いんぜんおもきをなす・隠れて地味ではあるけれど重要なこと)に至ることを理想としているのだ。
● 僕は人間味のあふれた君のその心根が嬉しい。帝国の前途は多幸だ、光輝に満ちている。何事も御国のためだ、しっかりやろう。
○・・・・・・(終)
 最後の経理官の無言はどんな気持ちだったのだろう。結局、理解されないという思いだったのだろうか。
 しかし、掲載されていたのは、兵科将校だけが閲覧できる「偕行社記事」である。こうした投稿を当時の編集委員会はきちんと扱っている。その健全性に拍手を送りたい。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)4月11日配信)