陸軍経理部(28) ―軍馬の話(14)

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はじめに

 今回の大雨による被害を受けられた方々、お亡くなりになったり、傷ついたりされた方々に心からお見舞いを申し上げます。しかも復旧作業も猛暑の中という事態に、言葉もありません。一日も早く、もとのお暮らしに戻れますよう願ってやまないところです。
 先日、7月14日はフランスの革命記念日でした。パリではそれを記念した多くの行事が行なわれたようですが、今回、そのうちの1つ、軍事パレードに「日仏外交樹立160周年」を記念して、陸上自衛隊が招かれました。
 埼玉県大宮に駐屯する第32普通科連隊の精鋭7名が参加し、日章旗と自衛隊旗(連隊旗)を捧持し、晴れた空の下、堂々の行進をされました。連隊長は横山裕之1等陸佐、旗手の2名の幹部、そして旗護にあたったのは男女2人ずつの陸曹の方々でした。国旗日の丸と、連隊の団結のシンボルである旭日の連隊旗を2人の男女がそれぞれはさんでの行進。
 
 こうした国際協調の場面をもっと大きく取り上げてもらいたいと思いました。

おたずねに答えて

 YH様、いつもご愛読ありがとうございました。大動員以後の、すなわち昭和12年度以降について、専門外でもあり、確認のためにお時間をいただきました。
 結論から申し上げると、亡くなられた伯父上さまのお話、現役下士官になるには2年目の途中で受験し、3年が終わると伍長に任官したということは納得できます。ただし、入隊されたのが補充兵役なのか、現役であられたのかが不明ですが、部隊もまた新設された補充隊、あるいは平時からある現役部隊かの違いも重要なことになります。
 そして、2年目に伍長になるという当時の資料は見たことがありません。あるいは少年兵などとしても、そうした事情は聞いたこともありません。
 十分、ご承知のことかと存じますが、ふつうの下士官志願をされた方のコースをおさらいしておきます。
 まず、入営して3か月ごに一期の検閲が行なわれ、下士官候補者もこのとき選抜されました。もちろん、志願の上です。合格しますと連隊の下士官候補者隊に移り、1等兵の階級に進められました。1年が経つと、歩兵・騎兵・砲兵は熊本・豊橋・仙台などの教導学校に入り、上等兵として1年間の教育を受けました。他の兵科や各部では、それぞれの実施学校(経理学校など)の下士官候補者隊に入ります。
 昭和15(1940)年度計画では、師団あたり歩兵は90名、砲兵が40名と案外、少ないものでした。歩兵は通常の師団で4個聯隊、すなわち12個大隊であり、各大隊では7~8名という数になり、たいへん競争率も高かったようです。
 なお、経理部などの現役下士官候補者に対しての公募はよく行なわれており、現役3年制度では3年目の途中に受験し、満3年目に伍長に任官ということがありました。伯父上様のお話は「志願に依らざる任官」とのこと十分ありえました。
 B大学のKさま、論文をご執筆とのこと、軍用鉄道をお調べになること、たいへん貴重な素晴らしいことと存じます。また拙稿をご高読いただいたとのこと、ありがたくお礼を申し上げます。来週に参考文献などをお知らせいたします。

一の谷へ急行する義経(よしつね)

 司馬遼太郎はこう書いた。
「この一団の風変わりなことは、全軍が騎兵であることであった。歩兵はひとりも連れず、雑兵でさえ馬に乗っていた。」(『義経』文春文庫)
 以下、『義経』の記述をなぞっていく。
 1184(寿永3)年、2月4日の陽も昇らぬころだった。京の六条大路をとどろかせて多くの馬蹄の響きが西に向かった。源範頼(みなもとの・のりより、義経の兄であり平家追討軍の総司令官)の率いる本隊が摂津国福原(神戸市)へ進発する日だった。
 一団の騎兵は桂川(かつらがわ)を朝もやの中で越えた。やがて老ノ坂(おいのさか)を上り丹波国(たんばのくに・京都府中部と兵庫県東部)に入った。老ノ坂は京都市と兵庫県亀岡市の間にある峠である。標高は193メートル、山陰道では京都へ上る入り口になる。ここで初めて小休止をし、馬に水を飲ませた。義経の率いる騎兵隊は多くの人々に知られずに京を離れていた。
 丹波亀山(亀岡市)では、休息もせずにそこを駆け抜け、保津峡(ほづきょう)に沿って北上した。保津峡は保津川の渓谷である。京からおよそ9里(36キロメートル)、朝露がようやく消えたころ、山間の盆地に入った。そこは当時の小山ノ庄(おやまのしょう)、現在の園部(そのべ)である。亀岡と篠山(ささやま)の両盆地に中間の丹波高原に広がる町である。京からは「乾(いぬい)」の方角、つまり北西にあたる。そこから西へ、播州(ばんしゅう・播磨国)へ通じる道を探し、進撃を続けた。
 京からおよそ16里(64キロメートル)にもなるだろう。時は夕暮れに近い。日置ノ庄(ひおきのしょう)、現在の篠山(ささやま)盆地に達した。そこここの人家からは夕餉(ゆうげ)の炊煙(すいえん)があがっている。軍監(ぐんかん)土肥実平(どいのさねひら・生没年不詳)は義経に部隊の休息を進言した。軍監とは部将に総軍司令官(頼朝)から付けられる参謀長である。
 ところが、義経はうなずかなかった。さらに南西3里先の小野原(おのはら)へ進もうという。篠山は周囲が開けすぎ無用心だ、小野原なら要害もいい。そこで兵糧(ひょうろう)をつかい、場合によっては宿営もしよう、それが義経の決心だった。
 土肥実平は頼朝の信頼深い、相模国土肥郷の豪族御家人で、もともとは範頼に付けられていた。桓武平氏である。この行動の直前、義経付きの軍監梶原景時(かじわらのかげとき・生年不詳~1120年)と交代した。景時は相模国鎌倉郡梶原郷の領主、桓武平氏である。有名な宇治川の先陣争いをした景季(かげすえ・1162~1200年)の父にあたる。権勢欲が強く、周囲とはよく衝突した。義経とは不仲だった。
 日がやがて沈んだ。義経は弁慶(武蔵坊・べんけい・生年不詳~1189年)に大松明(たいまつ)を用意させていた。弁慶の先導で部隊は闇の中を進んだ。小野原はのちに兵庫県多紀郡今田町(こんだちょう)になる。丹波高原の西端にあたる地域で、すぐに播磨国である。播磨側は三草(みくさ)高原になる。ここまでの都からの行程は19里(76キロメートル)あまりになった。この地点から平家が陣を張る「一の谷」までおよそ17、8里(68キロメートル~72同)ほどだ。
 その夜、義経隊は小野原で宿営しなかった。偵察隊を先行させたところ、平家軍2000騎ほどの大部隊が3里(12キロメートル)ほど向こうにいることが分かった。義経はただちに攻撃するために前進を命じた。三草(みくさ)高原への上り坂である。松明(たいまつ)があっても、闇は深く、道は険しかった。1里も進むと人家が見えてきた。先頭をゆく者たちは民家に松明を投げていった。家は次々と炎上した。後続部隊はその明かりのおかげで進めた。
 坂を下りきったところにある三草の里(兵庫県加東市)は奇襲を受けた。民家に宿営していた平家軍は潰走した。明け方の急襲だった。射殺され、鎧も着ずにいたところを打物で撲殺された。捕えた敵兵からは指揮官が新三位(しんざんみ)資盛(すけもり)といわれた清盛の嫡孫(ちゃくそん)であることが知れた。
 平家が布陣する一の谷(神戸市須磨区)はなお、地図上では直線で30キロメートルあまりもあるだろうか。義経隊はここで初めての仮眠をとると、ただちに接敵行軍を始めた。
 ここで司馬氏独特の解説というか、その蘊蓄(うんちく)が語られる。「騎兵による長距離移動による奇襲」という戦術思想がわが国にはなかった。その後、370余年後に織田信長が出て、桶狭間への騎兵機動で勝利を得た、それしかなかったという。義経は「明治よりはるかな以前に近代戦術思想の世界史的な先駆をなした」とも書いている。

鵯(ひよどり)越えの急襲

 さらに義経の南下した経路は、現在でいう加東市の中にある「社(やしろ)」町、小野市、三木市という平坦路である。2月5日(太陽暦では3月18日)の昼下がりには三木の中心部に達した。義経はここで全軍を休めた。そうして軍監土肥実平を呼んで、全軍を2つに分けること、その大部隊を土肥が率い、自分は小部隊を連れ、山間に潜行する考えであることを知らせた。土肥は主力とともに、明石の海岸に出て、平家の西城戸(にしきど)を攻めるように命じられた。
 義経が部下に計画を明かすと、少数の武者だけがついてゆくことになった。それらは畠山重忠(はたけやましげただ、1164~1205年・坂東平氏秩父氏の豪族・武蔵国男衾郡を本拠とする)、平山季重(ひらやますえしげ・生没年不詳、武蔵国平山郷、現在の日野市を本拠とする。院の武者所に伺候したので平山武者所季重とも名乗る)、熊谷直実(くまがいなおざね・1141~1208年、武蔵国熊谷郷の領主、この戦闘で平敦盛を討つ)、三浦義連(みうらよしつら・生没年不詳、相模国三浦一族、三浦大介の子、のち左衛門尉、紀伊・和泉国守護)などだった。総勢力は30騎あまりでしかなかった。
 2月7日、午前6時には両隊が同時に攻撃をかける。義経隊が山中に入ったときはすでに6日の夕刻だった。残された時間はおよそ12時間。神戸市の背後にそびえる六甲連峰は、東から順に、六甲、摩耶(まや)、再度(ふたたび)、高尾(たかお)の4つの峰がある。義経はこのうち高尾山前面の「鵯越(ひよどりごえ)」を目指した。道はけわしかった。密生するクマザサを踏み分けて3里ほど進んだ。
「鹿が通うか」と土地の少年猟師に聞き、「鹿も四つ足、馬も四つ足、ちがうといえば尾髪のなきとあると、蹄(ひずめ)の割れたると円(まる)きとの差のみ、おそるな」と有名な言葉をはいたという。何頭もの馬が谷に落ちた。救助しつつ進んだが、時ばかりが過ぎた。高尾山中に入った時には夜が明けてきた。馬術に巧みな義経の愛馬は源氏随一といわれた名馬の「青海波(せいかいは)」だった。畠山重忠も名馬「秩父鹿毛(ちちぶかげ)」を連れていたが、馬を降り、口を取って歩いていた。
 やがて下界に戦闘の音が聞こえてきた。夜も明けて、鉄拐山(てっかいさん)の嶺が見えた。その向こう側が一の谷の平氏の陣である。ようやく嶺にあがった義経隊が見たものははるか下方に広がる断崖だった。義経は乗り換えの馬をひかせて、その2頭を落とした。1頭は崖下に落ちて立ち上がれず、1頭は健気に起きあがった。この時である。畠山重忠は愛馬の前に立ち、馬の両脚を背負って自らが先に立って崖を降りた。この30騎の奇襲に驚いた平氏は壊乱した。

当時の馬の大きさ

 さて、畠山重忠は愛馬精神に富んでいたという。事実、名馬はたいへんな価値があるもので、敵の馬を奪い、あるいは敵手に渡さないために殺すこともした。畠山重忠は馬を背負うなどできたのだろうか。現在の流鏑馬や、大河ドラマ、あるいは相馬の野馬追いなどで使われるサラブレッドやアラブ系の馬を見慣れていると、とても信じられないことだろう。
 ところが、わが国の在来馬は、ずいぶん小型のものだった。わが国の古来からの馬はトカラ馬、奄美(あまみ)・琉球(与那国・宮古・八重山)馬などの小型馬(体高100センチ~120センチメートル)と対州馬(たいしゅううま・對馬国)、御崎馬(みさきうま)、木曽馬、北海道和種などの中型馬(体高130センチメートル前後)に大きく分けられる。
 前者は、中国の四川(しせん)・雲南(うんなん)両省から大陸南部の海岸地帯沿いに南西諸島を経由して縄文時代末期にわが国にわたってきたとされる。後者のやや大型になる馬は蒙古(もうこ)から華北(かほく)、朝鮮半島を通じて、弥生時代に渡来したとされている。
「四尺(ししゃく)をもって成馬となす」。つまり、一尺を30.3センチメートルとすると、121.2センチが大人の馬だった。それから1寸(3.03センチ)ごとに、「ひとき、ふたき、みき、よき」と呼び、「五寸(いっき)」、すなわち4尺5寸(136.4センチ)を中馬とした。4尺8寸(やき)となると145.4センチであり、これを「長に余る」といい大馬と考えた。もちろん、「長に余る」大馬もこの中世にはいたわけで、宇治川の先陣争いで有名な「生食(いけずき)」は5尺2寸ともいわれていた。
 そこで軍記物語に見られる名馬を、その記述を信じて紹介しよう。
 宇治川の先陣争いで有名な佐々木高綱(ささきたかつな)の乗馬「生食(いけずき)」は4尺8寸(約145センチ)、こちらの方が信頼できそうだ。なお、字もさまざまあり、「生?」と書く史料、「生喰」ともある。去勢をしていない当時の牡馬であり、「生き物」にはなんにでも喰いつくといった気性の荒さでも知られていた。
 源義経の「太夫黒(たゆうぐろ)」は約139センチ、同じく「青海波」は同142センチ、源範頼の「月輪(つきのわ)」は同143センチ、和田義盛の「白波」が同144センチであり、畠山重忠の「秩父鹿毛(ちちぶかげ)」も142センチ余りだった。
 こうした馬はたしかに小さかったが、軍馬としては優秀なものだったので後世に名を残し、当時の高名な武将の乗馬であったのだ。現に「大きさももちろん、小回りがきいて(曲進退の逸物)、駿足で、勇猛な性質をもっていた」と評価もされている。
 大きさだけに限って言えば、戦国時代には5尺前後の馬もあったものの、天下泰平がつづく江戸時代になると、馬体が小さくなってしまった。外観を重視するようになり、たくましい、軍用馬に関心が向かなくなったからである。江戸期に名馬の産地とされたのは、奥州南部(岩手県)津軽(青森県)、三春(みはる・福島県田村郡)、鹿児島の各地だった。
 このうち、津軽藩の献上馬についての記録が残っている。献上馬は徳川将軍に折にふれて差し出される駿馬である。当時の超一流の乗馬だったといえる。1793年、2頭の4歳馬は4尺3寸と同3寸5分、つまり、約130・3センチと同131.8センチ。1824年の3頭は、同じく130センチ2頭と、133.3センチが1頭。幕府老中への進上馬の最大は135センチで、最小が123センチだった。この後、幕末までに最高の馬が、4尺7寸(142.4センチ)でしかなかった。

司馬さんが兵站無視で描いた義経騎兵隊

 さきの司馬遼太郎氏作の『義経』の一の谷への迂回奇襲作戦の記述を確かめてほしい。あたかも、当時の弓射騎兵と乗馬した雑兵(ぞうひょう)しかいないかのように書かれている。ちょっと待ってほしい。乗り換えの馬は誰が牽くのか。人が食べる兵糧と馬が食べる馬糧、つまり後世でいう「糧秣(りょうまつ)」についての記述がない。
 実は当時の騎馬は決して快速ではなかった。「義経」の記述を確認していただきたい。およそ100キロメートル、もしくはゆずっても120キロメートルを3夜3日間で進撃していることが分かる。平均時速は、1日に10時間としても3キロから4キロである。眠らせない、休ませないとあり、馬に水を飼う、兵糧をつかったというが、そんなことをして馬は、人は行動し続けられるだろうか。いざというときに戦えただろうか。
 また、当時の騎馬武者がまとう大鎧(おおよろい)は騎射戦のための重装備だった。重さは兜(かぶと)を除いて、遺品でも22キロから25キログラムもある。兜を入れ、その他で合計40キロあまりにもなる。弓と矢を入れた空穂(うつぼ)や差し替えの太刀、腰刀、小具足といわれた籠手やすね当てなどの装備品、鞍や馬装具もあり、それらを背に負って運ぶ人たちがいた。戦場でなければ、武士も鎧を着て騎乗などしなかったのである。
 馬が載せられる重量はおよそ馬体重の三分の一を標準としたらしい。それを超すと走行力はかなり、平均すると3割がた減るという。江戸期の街道をゆく駄馬は「乗り掛け」といえば、20貫(75キログラム)に人が乗って駄賃を請求した。それで、ゆっくり、のったりと歩いたのである。また、馬は馬蹄を保護する蹄鉄があればともかく、それがないと山地を歩くのも苦手とした。だから、山岳地では牛の背に荷物を負わせて歩いたのである。
 実は当時の馬はやはり大量の干草や生の草、それに1日で20リットル以上の水を必要とした。馬には口取りの男が2人つき、草刈男(くさかりおのこ)もいっしょに歩いた。また、馬は腹を満たすためには1時間あまりの時間を要した。もちろん、古代から、軍馬には粟(あわ)、稲(半糠米)、大豆などを与えた。これらの穀類がなければ、草を食べさせるしかない。記録によれば、半日行動し、残り半日は監視しながら放牧していたともいう。
 司馬さんは戦車隊の予備将校だった。ガソリンやディーゼルオイルについては経験があっただろうが、馬についてはよく知っておられなかったのではないか。 
 中世の軍馬の平均が体高130センチあまりとすれば、体重は350キロほど。その三分の一は110キロあまりになるだろう。先に述べたように、人の体重が50キロとして装備品その他があって100キロほど。戦場近くでなければ武士は乗らない。それでこそ、突進もでき、逃げる時にはここぞとばかり力を発揮できたのだろう。そうであれば、義経騎兵隊も平均時速は4キロぐらいがふつうだったのである。快速機動とはどうにもイメージが違いすぎるだろう。
 次回は鎧などの装備品について語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)7月18日配信)