陸軍経理部(27) ―軍馬の話(13)―

ご挨拶

? 関東では梅雨の戻りという報道がされたら、今度は九州・四国・中国地方の大雨による災害です。梅雨前線の停滞と、活動の活発化が問題だそうです。太平洋から来る湿った空気のせいだとのこと。被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げます。
 8日の日曜日は、陸上自衛隊富士学校の創立記念行事でした。観閲行進には初めて16式機動戦闘車が加わり、戦闘展示訓練でもその素晴らしい能力や、訓練の周到さを見せつけてくれました。隊員の皆さんの動きもいつもながら、高い士気のもとにあることを感じさせてくれました。そして、心のこもった接遇をしてくださいました。学校長の式辞も、わが国を取り巻く厳しい現状の分析をもとに、将来への展望、一人ひとりの覚悟を大切にすることや責務について語られていました。
 しかし、悲しい知らせも聞きました。この日を最後に戦車教導隊は偵察教導隊といっしょになり、来年1月からは駒門駐屯地に移駐して、機甲教導連隊になるというのです。
 いかにも大きな勢力に改編するのかと思うと、それは大きな誤解です。戦車隊はいま全国で続々と縮小されています。師団の戦車隊は方面戦車隊に統合され、いずれ300両というのが保有量のすべてになるそうです。1000両を超していた戦車が300両に。そうして同時に大型火砲も減らされてきました。これが平成の大軍縮です。
 対して国際的な緊張は高まっているばかり。政治家のご挨拶(なんと6人)もかわり映えのしない災害対策のことが中心で、外敵の話は得票が減るとでも思っているのでしょうか。危機感のない政治家たちにはすっかり呆れさせられた時間でした。

古代の騎兵・武士の起こり

 このあたりの話題については、古代・中世史の専門家からの教えを請うことにしよう。参考にするのは、神戸大学名誉教授高橋昌明博士の論稿である。
 古代というのは、成文法ができて律令によって治められた時代をいう。王家ともいわれる天皇家を中心とした貴族の時代とまとめてもいい。続いて中世というのは、わが国では武士の勢力が強くなった時代をいう。なお、歴史の時代区分は、原始・古代・中世・近代とされる。わが国では、中世のあとに近世『江戸時代』を入れて考える。中世という名称に意味はないとされる。古代と近代の間にあるかららしい。
 
 歴史の学界では中世の始まりを「院政の開始」からとする。退位した天皇、つまり上皇(じょうこう)=院、出家すれば法皇(ほうおう)が「治天の君(ちてんのきみ)」と呼ばれ、権力をふるった白河(しらかわ)院政時代からと規定している。
 武士の歴史は、おおざっぱに次のように3つに分けられる。
(1)平安前期から11世紀後半まで
(2)白河院政の始まりから、治承・寿永(じしょう・じゅえい)内乱の始まりまで
(3)鎌倉幕府の成立以後
 
 白河法皇による院政の始まりは、1086年といわれる。治承・寿永の内乱というのは、いわゆる「源平両氏の戦い」をいう。治承(じしょう・1177~81年)、寿永(じゅえい・1182~85年)とは年号である。
 1180年には平清盛(たいらのきよもり)が自分の外孫安徳天皇を即位させた。こうした動きに不満をもったのが後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)だった。平家追討の令旨(りょうじ・皇族の出す命令)を出し、これに源頼政(みなもとのよりまさ)が呼応した。これが敗れるのが5月のことだった。
 続いて8月には伊豆に流されていた源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵する。9月には従弟にあたる木曽(源)義仲(よしなか)が立ち上がり、10月には頼朝が鎌倉に入った。そうして多くの戦いがあり、平家は壇の浦(だんのうら)で1185年3月に滅んだ。そうして最近の学界の定説では、幕府の成立はこの直後になる。

時期区分を細かくみていこう

 第1期は王(天皇)の安全と都の平和の守護者という立場である。この基本的な性格はまた第2期にも共通したもので、違いは第1期の律令武官系統の武士が数の上でも少なく、社会的勢力の面でも限られた存在だったことにある。対して第2期の武士の特徴は、中央の有力武士が地方の武士や武の技術に長けた者を従者として組織するようになったことだ。
 第3期、つまり頼朝が鎌倉に政権を建てたことが大きい。武士勢力の拡大では、第2期を大きく上回り、武士がほぼ在地の領主層になったということになる。武士政権が王家の守護にあたるという建前は崩れない。ただし、以前に比べて、王家に対する自由度はずいぶん大きくなった。守護を各国に置き、公領、私領を問わず荘園すべてに地頭を配置したのもその一つである。
 また第1期は、さらに10世紀の第3四半期の終りころ(970年以降)を境に前・後に分けられる。前期は、武官の一部と「滝口(たきぐち)の武士」が武士といわれた時代である。武官の一部は紀(き)・小野・坂上(さかのうえ)・文室(ふんや)などの特定の武を誇った氏(うし)の人々だった。
 前にも言ったが、律令体制とは「軍事国家」であり、「軍国体制」であった。天智天皇の時代、「白村江(はくすきのえ)」での痛烈な敗戦体験から桓武天皇の延暦(えんりゃく)11年=792年までの間の、外敵(唐や新羅)侵攻に備えた時代のことである。後の時代の「国民皆兵」の制度と同じく、各地に軍団を置いた。それが9世紀になって、唐が影響力を弱め、国内でもエミシの反乱、その討伐もまず落ち着きを見せた。そんな平和を謳歌した時代、唐風の文化を重んじ、武は軽んじられ始めた。
 武官系の武士の多くも、10世紀の半ばになると、文官に転じて行くようになった。三蹟(さんせき)の一人として能書家で知られた小野道風、「古今和歌集(こきんわかしゅう)」の選者となった紀貫之(きのつらゆき)、百人一首にも入っている坂上是則(さかのうえのこれのり)はいずれも元は武官の家筋の人々である。11世紀の半ばになると、子孫の定成(さだなり)は明法(みょうぼう)博士となり、その子は中原家に養子に入った。この中原家は有名な法律学者を多く出すようになった。

賜姓(しせい)皇族の武士化

 第1期の後半は「摂関時代」といえる。藤原氏の摂政・関白が力をふるったころである。当時、王家が財政的に苦しんだのは、多くの皇族を抱えることからだった。桓武天皇が在位した8世紀の末頃、天皇の皇子や皇女(一世皇親)に、ウジの名と姓(かばね)を与えて臣籍に降下する策がとられた。このときに多く与えられたのが平(たいら)と源(みなもと)である。姓は多くが朝臣(あそん)を与えられた。
 そうした源氏の元皇族は、嵯峨(さが)、清和(せいわ)、宇多(うだ)、村上の各天皇の源氏が有名である。清和源氏では貞純(さだずみ)親王の子である経基(つねもと)が出て、天慶(てんぎょう)の乱(将門・純友の乱)の鎮圧にも働いた。この経基の子が、満仲(みつなか)である。摂津国(せっつのくに)多田(ただ)に本拠地をおき、多田満仲(ただのまんじゅう)ともいわれた。多田は現在の兵庫県川西市である。
 その長男頼光(よりみつ)は高名な権力者藤原道長(ふじわらのみちなが)に接近し、中央での地位を固めた。勇敢さについての伝説では、「大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)」を退治したといわれる。この一族を摂津源氏という。この弟で次男の頼親(よりちか)は大和守(奈良県の国司)を3度も務め、宗教権威の興福寺とも対立しながら勢力をのばした。大和源氏という。
 三男の頼信(よりのぶ)は河内守(かわちのかみ)となり、現在の大阪府羽曳野市(はびきのし)や富田林(とんだばやし)を中心とする石川郷を中心に周辺を支配した。これを河内源氏という。
 この河内源氏が後になると、もっとも発展し、頼義(よりよし・988~1075年・異説あり)が後をつぎ、義家(よしいえ・1039~1106年)と義光(よしみつ・1045~1127年)の兄弟が出た。「八幡太郎(はちまんたろう)義家」といわれた。
 この義家の孫を義朝(よしとも・1123~1160年)といい、弟を義賢(よしかた・生年不詳~1155年)といった。よく知られるように、頼朝と木曽義仲(よしなか・1154~1184年)はいとこ同士である。
 義朝の嫡男が頼朝であり、義賢の次男が義仲だった。また、新田氏、足利(あしかが)氏は義家の子である義国(よしくに・生年不詳~1155年)の血を引いている。常陸(ひたち)の佐竹氏や甲斐(かい)の武田氏は義光の末裔といわれる。

平氏の流れ

 平(たいら)の賜姓皇族の始まりは桓武天皇の皇子である葛原(かずらはら)親王の皇子と皇女に与えられた。親王の子は王であり、高棟(たかむね)王とその弟高見(たかみ)王の2流になった。高見王の子を高望(たかもち・生没年不詳)が889年に平姓を与えられた。このとき平高望は上総介(かずさのすけ・親王任国の次官なので実質上の国司長官)に任じられた。
 高望の子が常陸大掾(ひたちのだいじょう・国司の3等官・ただし常陸も親王任国だから実質は次官)平国香(たいらのくにか・生年不詳~935年)であり、その一党は下総(しもうさ・千葉県北東部)、常陸(ひたち)、武蔵(むさし)などに広がった。彼らを板東(ばんどう)平氏といった。のちに鎌倉幕府を支える有力御家人である千葉・上総(かずさ)・畠山(はたけやま)・三浦・大庭(おおば)・梶原(かじわら)氏はみなその流れをくんでいた。
 
 高望の孫にあたるのが将門(まさかど・生年不詳~940年)である。その従兄弟を貞盛(さだもり・生没年不詳)という。京に出て馬寮(めりょう・官有馬の管理)の充(じょう・3等官)を務めていたが父親国香を将門に殺されたために郷里に戻った。乱は貞盛らの活躍で鎮圧され、その子泰衡(やすひら)が伊勢(いせ)に進出した。この伊勢平氏からのちに清盛がでた。

藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れ

 藤原秀郷(ひでさと)は生没年不詳だが、相模国田原(さがみのくに・たわら)を本拠地としたため「俵藤太(たわらのとうだ)」という異名をもつ軍事貴族の一人だった。「将門の乱」では平貞盛に協力して、鎮圧に大きな功績があった。下野(しもつけの)掾(じょう・国司の3等官)、下野押領使(しもつけのおうりょうし・国内の治安を守る臨時の官)になった。
 一族は下野の経済力を背景に、勢力を大きく伸ばしていった。秀郷から数えて五世の孫が左衛門尉(さえもんのじょう)に任官し、その後も子孫が多く、同官に任じられた。全国の「佐藤」姓の始まりという説がある。子孫の一部は後に奥州藤原氏に仕え、陸奥国伊達(だて)郡信夫(しのぶ)荘に住んだことは確からしい。信夫荘は現在の福島県福島市内である。
 また有名な歌人西行法師(さいぎょうほうし・1118~1190年・元は佐藤義清・のりきよ)は出家の前は兵衛尉(ひょうえのじょう)であり、鳥羽上皇の北面の武士でもあった。彼もまた秀郷の子孫である。

軍事貴族の登場

 源平の両氏や秀郷の子孫は貴族になった。乱の鎮圧の功績で源経基は従五位の下、平貞盛は従五位の上、藤原秀郷は従四位の下に叙任される。その後も多くは五位、あるいは四位にものぼったので、彼らのことを学問的には軍事貴族といっている。武士といわれる彼らも貴族の一員であり、これまでの武士と貴族を対立的にとらえがちな常識を打ち破るためでもあるそうだ。11世紀の初め以降、彼らの存在は大きく認められるようになった。
 成人すると彼らはまず、兵衛府・衛門府の尉官になる。都の治安を守る検非違使(けびいし)を兼ね、そうして各国の国司、受領(ずりょう)になる。こうした正規武官である経歴をもつことが、近衛府の官人や武官系統の「武の技能・伝統」を引き継ごうとする志向が生まれたのだろう。弓矢や騎射の技能は衛府(えふ)の伝統であり、もともと貴族社会にその発生の元があった。源平の貴族たちが使った弓矢、鎧(よろい)、太刀などの武器や装具もエミシとの戦闘の戦訓をもとに都で造られた。それを近衛武官や武官系統の官人が改良を工夫したものだろう。
 次回は、武器、武具、そして馬について語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)7月11日配信)