陸軍経理部(26) ―軍馬の話(12)―

ご挨拶

? 記録が始まって以来の最短の梅雨だそうです。6月のうちに関東で梅雨明けというのはほんとうに初めてだとのこと。猛暑です。皆さま、体調を崩されませんように。
 今回は少し時代が進みますが、資料に残っている弓射騎兵の戦い方を書きます。そうして次回ではなぜ、こういった武装集団が生まれたかをご紹介します。

弓射騎兵の戦い・流鏑馬は戦闘射撃ではない

 騎馬を駆けさせながら弓を射る。多くの方々は流鏑馬(やぶさめ)を見て、ああ、あれが馬上弓射の技術かとお考えになるだろう。たしかに騎手の衣装は古式ゆかしい狩装束(かりしょうぞく)であり、絵巻物に出てくる武士の巻狩(まきがり・野外狩猟)の姿とほとんど変わらない。的は意外な至近距離とはいえ、疾走する馬上から体を横向きにして自分は動き続けている。あの難しさはかなりのものだろう。成功すると喝采を浴びるのは当然である。
 しかし、古代、中世の弓射騎兵たちの戦闘射撃とは大きく異なる。まず、第一にその射撃方向である。馬首の前方、もしくは前左下方を射た。あるいは腰を後ろに回して左斜め後方をねらった。当時は、前方、前下方を射ることを「追物射(おものい)」といい、後方への射撃は「押捩(おしもじ)り」といった。教科書を覚えている読者は、すぐに「犬追物(いぬおうもの)」の資料写真を思い出すだろう。あの「追物(おもの)」である。

弓道と剣道は戦技ではない

 現代でも見られる神事として行なわれる流鏑馬と近代スポーツである弓道は、竹刀を使う近代スポーツの剣道と同じく、道具や衣類は似ていても昔の戦闘で使われた技術とは、まったく別物と受け止めた方がいい。
 たとえば剣道は面、小手、胴、喉といった人体の急所をねらうことになっている。すなわち鎧(よろい)兜(かぶと)や喉輪(のどわ)、籠手(こて)などの防具で厳重に覆われているところを打ち、あるいは喉を突けばポイントとなる。これは戦闘時とはまったくの逆といっていいだろう。
 もちろん、甲冑(かっちゅう)や鎖帷子(くさり・かたびら)などを着けない素肌(すはだ)剣法の技術だという見方もあろう。しかし、それは完全武装し厳重な防護具で身を固めた戦場では通用するものではないのである。よく某局の大河ドラマなどでは、甲冑武者が袈裟がけに斬り倒される場面も出るが、刀は決して鉄の鎧を斬れない。
 しかも線で区切られたコートで対戦するから相手は必ず前へ出てくる。実戦では、どこを斬ろうと突こうと構わない。内兜(うちかぶと)といわれた顔面への斬撃や突き、高腿(たかもも)に斬りつけたり、肩を殴りつけたりするすさまじさである。逃げる相手を追うこともあり、自分が逃げることもあるだろう。

馬上の弓の扱い

 弓道も同じである。昔の武士も近い的を狙うこともあるが、「通し矢」という長距離を射とおす技術も重んじられた。あの京都の三十三間堂はその競技にも使われた。また、甲冑を着て、馬上で弓を引くのはとれる姿勢に制限がある。兜(かぶと)のために、真横では十分に引き絞ることはできない。ほぼ真横を射る流鏑馬が見事なのはその軟らかい装束に秘密がある。
 また、和弓は世界でも珍しい長大さである。全長は「延喜式(えんぎしき・延喜に出された行政法)」の規定では7尺6寸(約230センチ)もあった。遺品の平均でも7尺2、3寸(約210センチ)である。馬上、左手(弓手・ゆんで)で弓を保持し、右手(めて)で引き絞る。敵が馬首からみて右にいたら、とっさの対応は決してできない。長大な弓を馬の首を越えて振り上げて射界を変えるには時間を要し、あげく身体は右斜めになってしまう。
 古代国家の騎兵だった弓射騎士たちにとっては、前方、もしくは前下方の的を狙って射るのが重要な戦技だった。その様子は、古い絵巻物の「前九年合戦絵巻」などに見ることができる。八幡太郎といわれた源義家(みなもとのよしいえ)が敵の武者を背後から射落したり、前下方の草むらに隠れる弓射歩兵を射倒したりする姿が描かれている。
 あぶみに両脚をふんばり、中腰になって膝に弾力をもたせて、馬の首の左側から矢を送るのだ。膝を軟らかくするのは、馬の上下動を吸収するためだろう。
 時代は中世の前期になるが、「今昔物語」に2人の戦いがある。

源充(みなもとの・みつる)と平良文(たいらの・よしぶみ)の戦い

『今昔物語』は平安時代末期の12世紀の前半に成立した。その中に10世紀前半の関東武士の戦いが載っている。有力な2人、源充と平良文は間にいる人たちからけしかけられて、とうとう戦いで決着をつけようということになった。物語とはいうものの、2人はまったくの実在の人物だった。
 充(または宛・あたる)は武蔵国簑田(むさしのくに・みた)郷(現在の埼玉県鴻巣市あたり)を本拠地とする嵯峨(さが)源氏の一族である。父親は919(延喜19)年に国司に反抗して、武蔵国衙(むさしのこくが)を襲った前武蔵権介(さきの・むさし・ごんのすけ)源任(みなもとのつかう)だった。武蔵国の国司の次官である。もっとも定員外の「権(ごん)」がついているので、多分に名誉職だったのだろう。
 一方の良文は皇族だった上総介(かずさのすけ)平高望(たいらのたかもち)の息子。高望王(たかもちおう)は桓武天皇の子で平の姓を賜って、親王任国(しんのうにんこく・東海道の上総(かずさ)・上野(こうづけ)・常陸(ひたち)の3国は親王が守となるので、介は実質上の国司の最高官である)の介となった。だから、良文は反乱で有名な平将門(たいらの・まさかど・940年に敗死)の叔父にあたる。武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)に本拠をもって、のちの鎌倉武士団の祖先とされる有名人でもあった。なお、彼の子孫は、上総氏・千葉氏・三浦氏・梶原氏・大庭(おおば)氏と畠山(はたけやま)氏などである。

一騎打ちの戦い

 
 互いに自分の武勇を誇っていたのだが、それぞれの自慢話を大げさに伝えあう郎等(ろうどう・譜代の家来)がいて、とうとう我慢がならなくなった。合戦で決着をつけようということになり、ある日、原野にそれぞれ500?600人の軍勢を率いていった。約束の午前10時、へだてること1町(約109メートル)で両軍は楯を突きならべた。矢戦で敵の放った矢から身を守るためである。
 やがて双方の開戦の牒(ちょう・開戦通告状)を馬に乗った兵士が届けに来る。その騎兵が自陣に引き返すときをきっかけに矢を射始める。このとき、使者は決して馬を急がせたり、ふり返ったりしてはならない。静かに、堂々と姿勢を正して帰ってくるのが、勇猛なる兵(つはもの)の証だったという。
 その後に両軍はじわじわと距離を詰めあう。いよいよ射戦(やいくさ)の始まりである。丸木弓(自然木を削ったもの)の射程は1町くらいだろう。狙ってあてるというと、かなり近くになる。少し後の12世紀の末に源平合戦。そこで平家の挑発にこたえて那須与一(なすの・よいち)が扇の的を射落とした。その射距離が5~6段(たん・60メートル前後)だったという。不安定な海中に立つ馬の背からの狙撃である。やんやの喝采(かっさい)が両軍からあがったというのも、その射撃がひどく優れていたからだろう。ふつうの腕前ではとても無理な距離だったから話題にもなったに違いない。
 両軍の矢がつがえられた時である。良文の陣から使者を出すという声が聞こえた。充が使者の口上を聞くと、軍勢同士の合戦はやめて、2人だけで馳せあって戦い、どちらが武芸に優れているか決着をつけようというのだ。充はさっそく賛成した。どちらも郎等や動員してきた農民に怪我をさせたり、ましてや死なせたりなどしたくなかったからだ。
 2人はそれぞれ弓に雁股(かりまた)の矢をつがえて馬を走らせあった。これは狩猟用の「野矢(のや)」の中でも鏃(やじり)が刺又(さすまた)状にV字になっていて、内側の刃で射切るためのものである。互いに、まず敵に射させて、自分が返す矢で確実に射落とそう(射取らむ)と考えて、駆けちがうこと数度にもなった。良文が充の身体の中心に向かって射る。それを充は落馬したかと思えるような姿勢でかわす。充が射た矢も、良文が素早く身体をひねってむなしく空をきった。
 勝負はつかなかった。2人は互いの武勇を認め、軍は撤収した。その後、2人は決して仲たがいをすることもなかったという。こうした騎乗で、弓を射あう戦いを「馳組(はせく)み」といった。特徴的なのは馬上から停まることなく「追物射」の姿勢をとって、敵の身体の中心を狙って前方に射ていることである。
『今昔物語』の作者は「昔の兵、かくありける」と詠嘆(えいたん)するかのようにまとめている。ルールの順守、使者の身の安全を保障、郎等の尊重、フェアプレーは昔のこととでも言いたそうである。

馬を射たりするアンフェアな戦

 時代は大きく下るが、昔の戦と近頃の戦を比べた話が『平家物語』にある。治承(じしょう)4年、西暦では1180年8月のことである。神奈川県三浦半島に本拠をおいた三浦氏は頼朝(よりとも)の呼びかけに応じた。相模国(さがみのくに・神奈川県中西部)衣笠(きぬがさ)城を出て、石橋山(いしばしやま)に向かった。
 衣笠は現在の横須賀市、石橋山は小田原市である。頼朝が敗れたその合戦には間に合わず、衣笠に戻る途中で、現在の神奈川県逗子市の小坪坂(こつぼざか)で平家方の畠山重忠(はたけやま・しげただ)の軍勢と鉢合わせしてしまった。
 そのとき、三浦義明の孫、和田(朝比奈)三郎義盛(よしもり)が、祖父の郎等である三浦真光(みうら・さねみつ)に初体験の「馳組み戦」について尋ねている。このとき真光は58歳だったという。戦場にでること19度という古ツハモノだった。義盛は1147年の生まれだから、当時33歳。若いころから騎射に励み、武勇は優れているといわれていた。
 真光は主人の孫に丁寧に答えた。以下、意訳する。
 敵も我も互いに相手を弓手(ゆんで・左手)側に置こうとします(相手の右側を自分が左方向におさめればいい)。弦(つる)のゆるんだ弓をひいてはいけません(打解弓・うちとけゆみといった)。自分の鎧のすき間が空かないように、いつも揺り上げます。
 ここで解説。鎧を構成する札(さね)を横につづった板を札板(さねいた)という。その札板を上下に組糸や革(韋)緒(かわお)で連結した。「韋(かわ)」は「なめす」とも読み、なめした牛革のことである。札板と札板の間には当然、動きを自由にするための「ゆとり」がある。これがすき間になってしまう。そこに矢があたったら大変である。だから、いつも手で鎧はゆすりあげておかねばならなかった。なお、札は牛革を突き固めた煉革(いためがわ)や鉄片で造られていた。組糸や革緒を「縅(おどし)」といい、各種の色で美しいものである。
 真光はさらに言う。兜の内側を射られないようになさい。むだ矢を射るまいとお心にかけて矢をたいせつになさい。矢を放ったら、急いで次の矢を弓につがえて、敵の兜の内側、とくに額をお狙いなさい。昔は敵の馬を射るようなことはしなかったのですが、近頃はまず敵の馬の太腹(ふとはら)を射て、馬から跳ね落とされて徒歩立ち(かちだち)になったところを討つようになりました。そのうえ、近頃では、理由もなく馬上から押し並んで組み付き、下に落ちたところを、太刀や腰刀で勝負をつけるようになってしまいました。
 少し前までは、まず武士の戦いは騎射だった。それが馬を射て、落ちたところを討つ。そればかりかいきなり馬を寄せて行って組み打って、わざと落ちる。あるいは鞍壺(くらつぼ)に敵を押しつけて腰刀(短刀)で首を斬ってしまう。そんな戦が増えたという。
 それでは次回は、時代を少し戻して、9世紀末、10世紀初めころを考えてみよう。その時代の荘園や国衙領の変質、地方に生まれた武装集団などの様子をみてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)7月4日配信)