陸軍経理部(35) ―軍馬の話(21)

ご挨拶

 先週は小山町須走の富士駐屯地の富士学校が主催する「総合火力演習」を研修させていただきました。新聞・テレビ報道などでは、またまた陳腐な6億円とか4億円とか不正確な金額が報道されています。今年の目玉は、現用の74式戦車が登場せず、同じく105ミリ砲装備の16式機動戦闘車の射撃と、島嶼防衛の水陸機動団、AAV7の展示などでした。
 それよりなんていうと不謹慎ですが、驚いたことがありました。昼からの陸幕長主催の昼食会に、かの有名な社民党女性代議士辻本清美氏が登場し、高槻市の地震に対する陸上自衛隊の支援に対する礼を述べたことです。彼女の名前がアナウンスされたとたん、開場からは一種異様などよめきが起こりました。(苦笑)
 いま、「関西生コン」事件でも身辺が騒がれ、所属する社民党も党勢が低下し続ける現在、何らかの意思表示なのだろうと思いました。ただし、会場にいたマスコミもまったくこのことに触れず、いまだにあれはなんだったのだろうと不思議に思っています。わたしの周囲では、もっぱら社民党を見捨てて新党結成か、などとも笑い話になりました。
 もう1つ、人生の教訓を思い出したことがあります。『得意なときは頭を下げよ、失意のときは胸を張れ』という教えです。過去、民主党政権時に、たった2カ月しか防衛大臣を務められなかった代議士がおります。演習の最中に遅刻してきて観覧席の前を横切りました。中腰にもならず、頭も下げないのですね。人としての躾のなさを感じました。そんなときに胸を張らなくてもいいのです。
 びっくりしたのは、彼の挨拶です。消え入りそうな声で名前を名乗り、わけのわからない話をしていました。彼の盟友(だった)、静岡選出のタレントとのゴシップを流された議員も珍しくおいでになりませんでした。いつもと変わらず元気な声は、白(はく)ナニガシという議員でした。ああ、まだ議員なんだと気がつかされる程度でしたが。

義仲の挙兵と入京

『平家物語』や『源平盛衰記』などの中世に成立した軍記物に必ず現われるのが、木曽義仲の軍勢による都での乱暴である。その背景には飢饉と軍隊の兵站能力の問題があった。
 源義仲(よしなか、1154~1184)は頼朝の従弟にあたる。つまり源為義(みなもとのためよし)の次男だった義賢(よしかた、1155年没)の子である。父を失ったのは源氏の特徴といわれた一族内部の争いだった。平氏は一族が仲良く、あまり内紛も起きない。それに比べれば源氏の歴史はある意味、陰惨なほど同族が殺し合っていた。
 義仲が木曽(現在の長野県南西部山岳地帯)で育ったのにはわけがある。父義賢は上野(こうづけ、群馬県)・北武蔵(埼玉県北部)に勢力を張っていたが、為義と不和になり、鎌倉にいた源義平(みなもとのよしひら、1141~1160)に討たれた。最期をとげたのは埼玉県嵐山(らんざん)町である。義平はその叔父殺しで有名になり、「鎌倉悪源太(あくげんた)」と恐れられた勇士である。
 義平は義朝の長男であり、頼朝(3男)の長兄にあたった。鳥羽上皇のもとに出仕した父義朝の跡を守って、鎌倉に勢力を広げた。当時、「悪」というのは強い、賢い、立派だという意味になり、源太は源氏の長男ということである。母親は近隣の武士団の頭領、三浦義明(みうらよしあき)の娘だった。平治の乱(1159年)では活躍し、のち捕えられて斬首された。
 父義賢が討たれたとき、義仲は乳母の夫である中原兼遠(なかはらのかねとお)に守られ、山深い木曽の地で育つことになった。平家への反乱に起ちあがったのは治承4(1180)年9月のことだった。平家方の小笠原頼直(おがさわらよりなお)を越後(えちご・新潟県)に追い、信濃を支配した。上野にも進出したが鎌倉の頼朝との衝突を望まずに信濃に兵を返した。
 翌年には横田河原(長野市内)で越後からの追討軍城(じょう)氏の大軍を破り、つづいて越前水津(すいづ、敦賀市水津)で平氏軍を破り、北陸道をほぼ手におさえた。しかし、寿永2(1183)年、嫡子義高の身柄を鎌倉に送り、いったんは頼朝と下目に立った同盟を結んだ。やはり背景にあったのは、兵粮不足、馬の飼葉不足による軍隊の維持能力であっただろう。ところが、加賀・越中(えっちゅう、富山県)の国境、倶利伽羅峠(くりからとうげ)で勝利し、つづいて越前篠原(しのはら、加賀市)でも平氏軍を撃破した。
 義仲の過ちは、そこで踏みとどまれなかったことだったろう。というより、当時、京から越中にかけて高まった反平氏気分で結びついた寺社勢力や武士たちに担がれた形で都に入ったのは勢いというものだった。

九条兼実の嘆き

 
 九条兼実(くじょう・かねざね)は1149年に生まれ、摂関家の藤原忠通(ふじわらのただみち、1097~1164年)の子である。1166年には右大臣、後に頼朝に協力して武家政権樹立の功労者でもあった。兼実は膨大な日記『玉葉(ぎょくよう)』を残しているが、その中に9月3日の記述がある。
「だいたい近頃、武士以外には一日も生き延びる計画も立たない。だから身分が高い者も、低い者もみな山の中に逃げ込んでいる。四方、みなふさがりという状況だ。畿内の近辺の領地や田畑も実りはみな刈り取られてしまった。神社、寺院、在家を問わず押し入られ、すべて財物を根こそぎ取られた。地方からの荘園や公領からの年貢や官物もみな奪われた。一般の市民にも難儀は当然及んで、売買をすることもできない。天はどうして罪もない衆生(しゅじょう)まで苦しめるのだろうか」
 義仲の軍隊は、統制が及んだのは自ら率いる木曽の軍兵だけだったといっていい。北陸道で集まった軍勢は、まさに飢えた集団でしかなかった。9月5日には、義仲が「院の御領」まで横領したと書かれている。
『平家物語』にはもっと詳しい。
「平家が都を捨て、西国に落ちていかれたので、みんな不安になった。資材・雑具を東西南北へ運び隠したけれど、なくなってしまうことは数知れない。穴を掘ってうずめておいたら、壊れたり、朽ちて壊れてしまったりした。あさましいことだ」
 重要な部分がある。
「ましてや北国(北陸道)の夷(えびす)が入京してからは、八幡・賀茂(はちまん・かも、都城の守護の神社)の領地もはばからず、青田(あおた、充分に実っていない稲)を刈らせて馬に飼い、人の倉を破って物を奪った」
 馬糧である。前にも書いたが馬は乾燥した濃厚な飼料だけでは生きていけない。青草が必要なのはもちろん、水も大量に必要とした。8月、9月のまだ未熟なコメはそのまま食べさせられる便利なものだっただろう。
「大臣や公卿の家はともかく、少しははばかるけれど、その他に至っては武士が乱入している。家々には当たり前のように押し入ってきて、いま食べようとしている物も奪われてしまう。せめて少しでも被害を少なくしようと、家々には源氏の白旗がなびいている。路上を通行する者も安全ではない。着ている衣装をすべてはぎ取るので、男も女も見苦しい姿でいる」

兵站・補給活動に活躍した人夫

 戦国合戦の戦術に、「青田刈り」というものがあった。敵の領地の稲穂を刈り取ってきてしまう。そのときには軽武装の足軽がそれを実行し、護衛の武士がつく姿が確認されている。戦国史家の藤木久志(ふじき・ひさし)氏によれば、「戦場は端境(はざかい)期の飢えた村人たちのせつない稼ぎの場だった」ということだが、昔の軍隊の基本形(馬の機動力に頼り、人海戦術が有利)が変わらない以上、この時代にも同じような存在がいたに違いない。つまり、恒久的な主従関係がない傭兵(ようへい)のような兵夫(へいふ)の存在である。
 実はすでに11世紀の史料には、国衙(こくが・国司の役所)の軍隊の中には弓射騎兵の他に、兵粮刈り取りを専門にする歩兵=夫兵がいた事実が書かれている。1142年には紀伊国(きいのくに・和歌山県)の国衙の目代(もくだい・国司の代人)が大伝法院(だいでんぽういん)領に大嘗会所役(だいじょうえ・しょやく)をめぐったトラブルで乱入したときのことである。「数百軍兵(ぐんぴょう)」と「数千人夫」が目代に指揮されていたというのだ。イネや大豆の刈り取り、財物の捜索や押収、その運搬に軽武装した、あるいは平装の民衆が動員されていたのは確実であろう。
 壇ノ浦で平家が滅んだ後のことである。鎌倉軍の讃岐国(さぬきのくに・香川県)目代の後藤兵衛尉(ごとう・ひょうえのじょう)に率いられた「歩兵」が「山落とし」といって、長門国豊西南条小野山(ながとのくに・ぶんざい・なんじょう・おのやま)に乱入した。山落としというのは敵方の捜索を表している。小野山では財物ばかりか、土地証文まで奪い去られたという。この歩兵たちも、讃岐国から連れてこられた農民たちであったことだろう。
 後藤兵衛尉は生没年不詳だが、屋島の戦いで戦功をたてた実基(さねもと)と考えられる。藤原秀郷(ひでさと)流の白河院武者所(むしゃどころ)にいた宮内丞実信(くないのじょう・さねのぶ)の子であり、1159年の平治の乱では源氏方に属して奮戦。義朝の遺児である女子を育てた。この頼朝の母を同じくする妹(1145~1190年)はのち一条能保(いちじょう・よしやす、1147~1197年)の妻になった。頼朝挙兵では実基はいちはやく陣営に駆けつけた。都の武家貴族の正統派であった。

富士川の合戦の裏側

 時制は前後するが、水鳥の羽音に驚いて平氏軍が戦いもせずに潰走した合戦があった。勇将、平惟盛(たいらのこれもり、1157~1184年)にとっては気の毒な話でもある。惟盛は清盛の長男重盛の嫡男で、頭中将(とうのちゅうじょう、蔵人頭と近衛中将を兼ねる)でもあり、舞の優美さでも世間の評判だった。軍人としても、その気概や戦意においても、なよなよした公卿イメージとは異なる人である。
 9月29日、京三条から出撃した平氏軍はおびただしい数だった。西国の平氏支配下の武士団は当然、大番役(おおばんやく)として京に駐屯していた関東武士団も含まれていたのだった。問題は彼らの兵粮と馬糧である。数日で尽きたといっていい。こうなると、現地調達である。近江路は略奪と暴行の場になった。中には勝手に逃亡する集団もあった。
 1180(治承4)年10月23日、富士川西岸に布陣した平氏軍はすでにボロボロだった。出撃時には4万騎といっていたものが、実数は1500騎あまり、ざっと4000人余りに減ってしまったらしい。対岸の鎌倉軍先鋒は甲斐源氏武田氏の4000騎、夜になると勝手に陣を払い、川を渡り、武田氏の陣に加わる者たちもいた。
『平家物語』の記述をみよう。
「そうこうしているうちに23日になった。明日こそ源平富士川をはさんで矢合わせ(開戦)と(平氏軍は)決めたのに、夜になって平氏の陣から源氏軍の陣を見ると、伊豆・駿河(いじ・するが、どちらも戦場になった静岡県)の人民・百姓たちがいくさの巻き添えになるのを恐れて、野原に、あるいは山に隠れて、または船に乗って海、川に浮かび、『いとなみの火(食物を煮炊きする火)』が見えたのを、平氏軍の兵たちは、『なんと、源氏の陣のたかれる火が多いことだ。まさにまことに野も山も海も河もみな敵方の人数だ。どうしよう』」と動揺していたらしい。飛び立つ水鳥の羽音に驚いて逃げ散ったというのも、大軍に包囲されることを恐れてのことという。
 次回はいよいよ、平氏の滅亡と鎌倉府のありかたにふれよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)9月5日配信)