陸軍経理部(40) ―軍馬の話(26)

「旭日旗」への文句と韓国海軍

 近く行なわれる韓国での国際観艦式にわが海上自衛隊は不参加を決めました。就任したばかりの防衛大臣は決然と韓国の「戦犯旗である旭日旗の掲揚をやめて、国旗日の丸と韓国旗だけをマストに立てよ」という不当な要求を拒みました。どころか、参加そのものを取りやめるという厳重な態度を明らかするという快挙を聞いたところです。
 わが「自衛艦旗」はたしかに帝国海軍の意匠と変わらず、日清・日露の両戦役、さらには大東亜戦争にもわが艦艇の上にひるがえってきた「軍艦旗」。海軍と国民のシンボルであります。この旗の下、勇戦敢闘された先人をもち、国家の独立と民族の精神の発露を象徴するものです。
 韓国人はどうしてこうも分からず屋なのでしょうか。また、韓国海軍軍人、同陸軍軍人、同空軍軍人、同海兵隊軍人はどう考えているのでしょう。わたしは個人的に該国の軍人たちを知っていますが、そうした頑なな、あるいは国際常識を破るような言動をする人はおりません。観閲式でも彼らは招かれれば、自衛艦旗にも自衛隊旗(陸自連隊旗)にもきちんと正対して敬礼を送っています。
 そうしてみると、わが隣国ではほんとうに武官の地位が低いことが分かります。わが国では自衛官は軽んじられている・・・というのも処遇の悪さも含め、あるいは憲法違反だなどという人がまだまだおられることも含めて、腹の立つことが多いのですが、大韓民国ほどではありません。
 もちろん、どこかのコントロールを受けていたり、あるいは曲がった主張に乗っていたりする人々の存在も目立ちます。自衛官をいつまでも屈辱的な地位に置こう、罵倒しようと画策する人はいつもおります。
 まあ、それはそうであっても誇り高い隣国のように、国会議員たちが「旭日旗」を使用禁止にしようなどと与野党共同で法案を出すというようなことはできません。わが国を2等国、韓国は1等国だ・・・という言葉は信じられませんね。こうしたことに国際法についての知識も、国際慣行への常識も備えているはずの韓国軍人は何も発言できません。お気の毒な立場にあるとしか思えません。

「異時同図法(いじどうずほう)」という描き方

 竹崎季長(たけざき・すえなが)が遺してくれた『蒙古襲来絵詞』。その中でももっとも有名な戦闘シーンは文永の役、鳥飼浜(とりかいはま)においてのものである。季長が馬上で蒙古兵と戦っている。上空には「てつはう」が炸裂し、馬は前脚をつっぱり、後ろ脚をはねあげ、馬上の季長は落馬するまいと頑張る。馬の後肢の付け根にも矢が立ち、季長もまた膝(ひざ)に矢を受け、ひどく出血している。教科書にも載る有名な絵である。
 この情景は、以前には、謎めいていると論争の的になっていた。季長の至近距離に立つ3人の蒙古兵がいる。1人は長槍を構え、2人は弓に矢をつがえてわずか1馬身か2馬身の距離で攻撃の態勢にある。この3人が後から(おそらく江戸時代かといわれた)書き加えられたという疑いをもたれたのだ。たしかに3人の様子はくっきりと描かれ、後方にいて逃げる蒙古兵たちや、さらに後ろで弓を引き絞る兵たちとは筆致が異なっている。だから江戸時代かの所有者による補修のときに、あえて書き加えられたと考える研究者も多かったのだ。
 ところが、これは服部氏のおっしゃるとおり、当時の絵巻物の技巧の一つであろう。「異時同図法」というのがこれだ。絵師は季長を襲う3人の蒙古兵出現以前の様子を、異なる時間帯の出来ごととして画面の前方、左側に描いている。この3人以外の蒙古兵はみな背を向けて逃げているところだ。1人の背には矢が立ち、倒れて動けなくなっている者もいる。
 そして、さらに矢をつがえ、弓を引き絞って迎撃する1人の蒙古兵も描かれた。その隣には矢を放ったばかりの蒙古兵もいる。しかし、その矢をまさに放とうとしている兵の左目には長大な矢が命中している。膝の前にまで滴る鮮血まで見える。これこそが季長の放った矢によるものだ。その証拠は、矢羽根の模様である。季長が負う箙(えびら)の矢は本黒(もとぐろ)の切斑(きりふ)であり、蒙古兵に命中している矢羽根も同じであることは目を凝らせばすぐに分かる。

突撃する季長

 弓の有効射程(ねらって致死、あるいは大きな負傷を与える距離)はおよそ30メートル余りだろう。さらに精度の高い内兜(うちかぶと・顔面)への命中を期待できるのは、名手でも10メートル。ということは、どれだけ気勢をあげようが、当時の軍隊は50メートルも離れれば、まず無害な集団だということだ。街の中に立つ電信柱の間隔がおよそ20メートル。
 互いに横一線になって押し合いながら少しずつ前進する。一気に駆けだして孤立すれば、当然、敵の集中攻撃を受ける。蒙古軍は集団戦術をとっていたといい、銅鑼(どら)や鉦(かね)の合図で進退したという。これこそが鎌倉御家人団と蒙古軍の大きな違いだっただろう。蒙古軍将校は馬上、あるいは高地に陣取り、全体の様子を見渡しながら指揮をとったに違いない。それに比べて、わが武士団は主従の小さな集団が、全体を見渡せるわけではない状態で、個々に戦ったということになる。
 いつまでも睨み合ったままではお互いに埒(らち)も明かない。そこで勇敢な、ほんとうに勇士だけが突進して、そうした均衡状態を破ることから戦闘は始まる。のちの戦国時代でも「一番駆け」、「一番鑓(やり)」が名誉になり、褒章も期待できたのはその伝統だろう。『肥後国御家人の一番となろう』という季長は、猛然と馬を突進させた。どれだけ頑丈な缶詰でも、まず缶切りによって穴を開けられることから口が開いてゆく。季長は、まずその缶切りになろうとした。

「てつはう」について

 海底から見つかる「てつはう」の残骸。あるいは地上で発見されて保存される「てつはう」は鉄炮(鉄砲)の名の起こりとなった。中空になった、多くは薄い鋳物(いもの)製の爆発物である。中身には鉄片や陶磁器のかけらが入っていた。導火線がついている。それに点火して投擲すると、空中や落ちた地上で内部の黒色火薬が爆発する。とどろく爆発音と火花、割れた外殻、さらには飛び散る内部の鉄片や陶磁器のかけらが敵の殺傷にも有効だった。
 現在、われわれは銃とか鉄砲という場合、筒になっていて弾丸の発射能力をもっている道具を概念としている。ところが、この蒙古襲来のときにモンゴル軍が使った「てつはう」は「震天雷(しんてんらい)」といわれるものだった。中国の古い文献によれば、「形は椀を伏せて合わせたもので、てっぺんに穴が開いている。その穴は指が入るくらいのもので、金(きん・王朝の一つ、女真族が1115年に建国した)が首都である?(さんずいへんになべぶたの下に卜 べん)を守った」といわれる。
 原文はさらに続く。『鉄缶に(火)薬を盛り、点火すれば砲挙(ほうあが)り火発す。その音は雷のようで、百里の外にも届く。焼夷効果もあり、半畝(はんせ・およそ50平方メートル)以上も焼いてしまう。着弾すると鉄甲も貫通する』とある(原漢文、意訳した)。
 つまり、はるか昔には鉄砲は弾丸を射つものではなく、飛ばされる弾丸のことをいった。飛ばすものだけを「砲」といったが、火薬を使った発射装置ではない。「単梢砲(たんしょうほう)」、「砲車」、「火砲」、「回回砲(ふいふいほう)」、「旋風砲」などと後世の文献にも見られるが、すべて槓杆(こうかん)式の投擲具(とうてきぐ)をいう。要するに、むかしのパチンコ、スマートボールのように槓杆(ボルト)を引いて、鉄缶をほおり出すものだった。
 怪我をした武士、あるいは破片で死傷した兵士もいただろう。ただ何よりの効果は音響、炸裂音だったというのは、季長の馬を見れば分かる。近代になっても、軍馬としての訓練が充分でなかった民間からの徴発馬は、戦場で音に驚き暴れまわった。若駒から軍隊で飼育された軍馬はそういうことはなかった。騎兵隊の馬はまず、乗馬した騎兵の銃の発射音から慣れるようにした。
 音響だけでも、人は至近距離での突然起こる爆発音にはパニックになるという。警察の機動隊や制圧員がバスや室内に立てこもった犯人に「音響弾」を投げて、茫然としたところに突入するのは常道でもある。

季長の窮地を救う白石(しろいし)勢

 おそらく季長の下人もいっしょに奮戦していたことだろう。あるいはすでに射られていたか。狂奔する馬の上で、膝に矢を受け、さらにもう一矢(いっし)は馬体に射こまれていたのだろう。画面の向こう側の描写はない。1人の蒙古兵は季長に狙いをつけ、もう1人は長い槍で季長を馬上から叩き落そうと構えている。
 その窮地を救ったのが、絵巻のさらに左に描かれる白石六郎通泰(しろいし・ろくろう・みちやす)の百余騎である。もっとも絵には疾走し、弓を引き絞って射撃態勢をとる8騎が描かれているだけだ。それらの騎士たちの姿はまさに前下方をねらう「追物射(おものい)」である。これでは蒙古兵は季長を討ちとっても、たちまち包囲されて射殺されるに違いない。
 また画面には季長の姉婿、三井資長(みい・すけなが)の奮戦も描かれている。資長の前には逃げる2騎の蒙古兵と8人の歩兵がいる。最後尾の1人の腰には矢が当たり、その羽根の模様は資長のものである。さらに画面は移り、麁原山(そはらやま)の山裾に陣地を構える蒙古軍の様子も描かれている。
 服部氏の解説によれば、3人の蒙古兵と他の兵たちとの筆致が違う、それが江戸時代の加筆ではないかという従来の説はやはり誤りだという。それは絵巻物が、現代でいう工房においての共同作業で作られたことからだ。棟梁(とうりょう)のような絵師がいて、背景を専門に描いたり、馬を、鎧を、衣服を描いたりするそれぞれのランクの絵師がいたのが普通だった。だから筆致が違って当然のことなのだ。
 きわめて迫真的な3人の蒙古兵は、最後に場面の完成を目指して棟梁が描きこんだのではないか。だから先に描かれた逃げる蒙古兵に重なっている。これは経年変化によって透けて見えるようになった結果だった。つまり棟梁は職人たちが描いた絵の上から仕上げとして3人を描いた。決して、後から描き加えられたものではない。

文永の役・蒙古軍は一日で船に戻ったか

 第一回戦、文永の役(1274年)の緒戦はほぼ互角、あるいは蒙古側の辛勝だったか。上陸作戦は一応の成功をみたし、筥崎の町も宮も焼いた。季長が負傷した鳥飼浜では激戦だったが、海に追い落とされることもなく、蒙古軍は麁原山(そはらやま)を占拠した。しかし、補給糧秣や消耗した兵器などの補給は充分にできたのだろうか。
 当時の博多湾の水深は浅かった。多くの河川が流入し、砂がいつでも堆積し続けてもいた。全長30メートルから20メートル級の外洋船だった高麗で建造された軍船は当然、喫水は深い。物資輸送は手漕ぎのバートル(軽快舟)で海岸と本船を往復するしかない。現在の福岡市の海岸線は埋め立てによってずいぶんと当時の沖合に出ている。引潮のときに安全を図れる水深5メートル余りの位置は、当時の海岸線からおよそ1カイリ(約1.8キロメートル)ほども離れていた。
 したがって本船は海岸から2キロ近くも遠いところに碇泊していたのだ。のちの15世紀になってからの記録でも、大型船が直接に博多に入ることはなかった。志賀島(しかのしま)に人はあがり、そこで内海用の小型船に乗り換えている。
 後世の歴史家はごく気安く「蒙古兵は夜になって船上に引き揚げた」などと書いたが、小型舟艇に何人が乗れると思っているのか。9000人が往復4キロ余りを150隻の手漕ぎの小舟で移動したとする。湾内には潮の干満もある。わずか一日で行動できるわけもない。しかも、そんな混乱を日本軍が見逃すわけもない。乗船する兵で混乱する水際に矢を放てば妨害には充分になる。
 近現代の研究者たちは軍隊や人の移動、こうしたことさえ常識で考えることもしてこなかった。伝聞をそのままに、現場に関心がない人が書いた記録だけを信じるという研究者たちの知的怠慢には呆れるしかない。
 

都への情報は何日ずれるか

 さて蒙古軍は博多に居すわり続けた。たった一日で帰ったというのは『八幡愚童訓』の記述によるでたらめである。すでに大正時代には「実録にあらず」と指摘する研究者もいたが、学界の多数はそう考えなかった。その理由は都の官僚の日記、『勘仲記(かんちゅうき)』の11月6日の日付の記述に、「にわかに逆風が吹いて、凶族が本国に帰った」とあることからだし、『高麗史』にも「たまたま大風雨があった」とあるからだ。そのため史料批判をきちんとせずに、10月20日のことだとされてしまい、20日の合戦のその日に大風が吹いたことになってしまった。
 この『勘仲記』の作者は広橋勘解由小路兼仲(ひろはし・かでのこうじ・かねなか)である。別名を『兼仲卿記(かねなかきょうき)』としても知られている。文永11年当時は正五位下、治部少輔(じぶのしょうゆう、治部省の次官)だった。服部氏はこの日記の記述を詳細に検討されている。
 10月22日の日記には「13日の対馬合戦」が記されていた。ところがその実際は3日から5日にかけてのことであり、13日は報告が届いた日付ではないかと考えられる。というのも、当時の博多から都までの飛脚の能力が考えられていない。およそ10日間はかかったと思われる。29日の記載は「異国賊徒、攻めきたって興隆(こうりゅう・勢いが激しいさま)だということが聞かれた」となっている。おそらくこれが9日前の20日、すなわち赤坂山、鳥飼浜の激戦を指しているのだろう。
 また服部氏によれば、ほかにも京都政権中枢の官人、吉田経長(よしだ・つねなが)の日記『吉続記(きつぞくき)』にもこの事態の記録がある。27日の条に「九国隕滅可憐(きゅうこく・いんめつ・あわれむべし)」とある。九州はすべて破滅状態であり、あわれなことであるというのだ。つづいて、「鎌倉幕府の政治向きは、あまりにいい加減である。人々はさまざまに悪口をいうが、あまり口にしてはいけない」という記述もある。このとき、吉田は政権中枢の太政官(だいじょうがん)の右大弁(うだいべん)であるから、いまでいえば内閣府の局長級だった。治部少輔より2日ほど早く情報があった。
 博多と京都間はおよそ660キロメートルとすると、法令で定められた駅ごとに逓伝(ていでん)していけば、1日で100キロあまりは進めただろう。当時の報告は大宰府(だざいふ)の司令中枢、少弐氏のもとから京都の幕府出張機関、六波羅探題(ろくはら・たんだい)に送られた。それを運んだ飛脚便はさらに鎌倉に急いだだろう。
 また、すべての情報が朝廷に届けられるわけではない。六波羅探題では情報を吟味し、伝えてよいものだけを朝廷に提出した。だから、実際は8日から10日後に朝廷官僚たちに伝わったと考えられる。
『勘仲記』には11月6日の条に次のような記事がある。
「ある人が言うには、逆風が吹いて、船は本国に還った。残った船は大鞆式部太夫(おおとも・しきぶ・たゆう)が捉えた。捕虜は50人以上である。いずれ都に移送する。吹いた逆風は神様のご加護である」
 この「逆風」は『高麗史』の「大風雨」にあたる。南の風だったらしい。この記事からは、船が沈んだわけではなく、座礁したかで捕虜を50人得たことがわかる。
 幕府の公式記録の『関東評定伝』には、「文永十一年十月五日、蒙古異賊が寄せてきて、対馬嶋に到着した。少弐氏の代官、宗右馬允(そう・うめのじょう)が討たれた。24日、大宰府に攻撃してきて、官軍(幕府軍)と合戦した。異賊は敗北した」と書かれている。これはほぼ事実の通りで、24日は大宰府にまで攻めよせようとした蒙古軍を日本軍は敢闘し、これを撃退していた。

寒冷前線の大風

 この頃は太陽暦では11月の末頃である。この季節、例年、はなはだ強い寒冷前線が通過することはよく知られている。おそらくは滞陣中に蒙古軍は、この嵐に遭遇してしまった。もともとの軍令では、「大宰府を占領できなければ引き上げるのも可」というものだったから、蒙古軍司令部は動揺したに違いない。
 海峡の天候に詳しい高麗軍人は、このあと季節風の北風がつのることも知っていただろう。そうであると兵站基地である対馬、壱岐との連絡もとりにくくなる。朝鮮半島から対馬への兵站路も維持しにくくなるだろう。
 高麗側の記録には、「矢も尽きた」、「嵐のおかげでやむなく戦闘を中止する」といったことが書かれている。
 次回は、さらなる侵攻に備えての幕府軍の取り組みを見てみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)10月10日配信)