陸軍経理部(39) ―軍馬の話(25)

はじめに

 NKさま、ご精読ありがとうございます。わたしの文章が乱れていたためにご迷惑をおかけしました。ここにあらためて詳しく述べさせていただきます。まず、大陸形式の「輪鐙(わあぶみ)」ではなく「舌長」といわれる独特の鐙がなぜ発達したのか。おそらくわが国の馬が疾走するより、ゆったり歩くことと関係があったのではないかと愚考します。また、輪鐙は落馬するとつま先がひっかかる危険性が高くなります。その点、乗馬が苦手なわが国の先人にとって、スリッパ状の舌長タイプは安心です。
 疾走が限られた場合しかない、それがわが国の騎馬戦だったと思います。つまり突進したり、逃げたりする機会がないとは言わないまでも少なかった。重心を後ろにかけてゆったり乗るのが、わが国の騎兵だったとも考えられます。あの重い大鎧は鞍に載せることで騎手の負担を減らしました。そんな時にも敏感に馬に動きを伝える輪鐙より、和鐙の方が目的に合っていたのではないかと思います。
 読みにくい文章を書きました。あらためてお詫びします。また、今後もいろいろとお気づきの場合はご指摘ください。ありがとうございます。
 HYさま、いつもありがとうございます。海産物の貿易、しかも大陸国のヨード不足について、たいへん素晴らしいご指摘を受けました。そうですね。調べてみますと、大陸との当時の貿易品目の中には主要なものとして海産物は入っておりません。それは書かれていないというだけかも知れないのです。むしろ常識だったからかもしれません。いつも時代も記録は非常識なものだけが残されます。
 また高麗国の事情については、『高麗史』にこの日本侵攻の記録は残されていました。ただし、弱国のさびしさ、自由がないこと、断ることもできないことが書かれています。
 今回、現代の軍事用語などを使ってみました。いかがでしょうか。また、ご感想などをいただければ嬉しいです。

一級史料とされた『八幡愚童訓(はちまん・ぐどうくん)』

 昔から「元寇」に関する一級史料とされてきてしまった書物がある。それは14世紀初頭、つまり文永・弘安の役から十数年も経過したあとに書かれたものだった。その名を『八幡愚童訓』という。伝承されている文書には2種類があり、成立年代によって分けられる。文永の役について書かれている方は成立年代が1308~1318年といわれる。
 京都にある石清水八幡宮(いわしみず・はちまんぐう)の神官によって書かれたらしい。八幡神(はちまんじん)の偉大な力について、愚かな童(わらわ)に説くという形式である。八幡神は応神天皇(おうじんてんのう、第15代天皇)を主座として、左右に比売大神(ひめおおかみ、主神に縁の深い妻や娘)、神功皇后(じんぐう・こうごう、仲哀天皇の皇后で応神天皇の母)を配して三座で一体とした。
 あるいは左右に仲哀天皇(ちゅうあい・てんのう、第14代天皇、日本武尊の第2王子)、玉依姫命(たまよりひめのみこと、海神の娘で神武天皇の母)を置くこともあった。古くは皇室の祖神、源氏の氏神として大切にされた。なお、八幡大菩薩(はちまん・だいぼさつ)というのは「神仏習合(しんぶつ・しゅうごう)」で八幡神の本地を菩薩としたものだ。
 石清水八幡宮は京都府八幡市高坊に現在もある。祭神は品陀別命(ほんだわけのみこと)、息長帯姫命(おきなが・たらしひめのみこと)、比売大神(ひめおおかみ)である。859(貞観元)年に宇佐(うさ)八幡宮を勧請(かんじょう)したのが始まりといわれる。宇佐八幡宮は大分県宇佐市にあり、八幡大神は応神天皇と神功皇后、比売大神。全国八幡宮の総本宮、奈良時代から伊勢神宮に次ぐ皇室の宗廟(そうびょう)として尊崇を集めていた。なお、モンゴル襲来で焼け落ちた筥崎(はこざき)八幡宮と合わせて3大八幡宮ともいわれてきた。
 この本は、あくまでも八幡宮の偉大さを語る物語であり、鎌倉武士とは利害関係も対立する立場の人が書いたものだった。また当時は神仏に祈祷するのも「戦闘行為」であり、武士たちの奮戦で勝ったものではないことにしなくてはならなかった。ところが、これを同時代の信用できる証言として、史実であるとの解釈をしてしまったのが明治・大正の国史学の権威者だったのだ。

文永の役の戦闘

 大宰府の攻撃、占領を目指す高麗軍にとって、平戸方面の鷹島や能古島などへ迂回することは意味がない。高麗軍は一気に博多に攻めよせてきた。わざわざここでそれを言うのも、教科書や辞典の一部には今もその誤った記述があるためである。現代の機甲部隊による電撃戦や、それに合わせて敵の側背をつく迂回行動など蒙古上陸船団は採らなかった。鷹島や能古島にも蒙古軍が来たというのは『八幡愚童訓』に載っているでたらめである。

早良郡鳥飼警固山

 来襲の3年前、すでに幕府は迎撃態勢を指示していた。正面は博多と正確に予想し、翌年、すなわち1272(文永9)年には「博多津番役(はかたつ・ばんやく)」として御家人たちが交代で1カ月ごとに勤務していた。すでに動員が準備され、戦闘配置も決められていたのだ。筑前・肥前の両国、とりわけ博多湾を防禦線としていた。すでに敵の出方も充分に予想し、迎撃にふさわしい戦略をたてていたのだ。
 上陸作戦には橋頭堡(きょうとうほ、この場合には海岸堡)が築かれる。兵員・物資を揚陸し、一時的に確保する地点である。これを守りつつ、内陸に侵攻してゆく。海岸に構えた防御施設が確立し、次々と兵員があがってくる。物資も集積されてゆく。次に狙うのは付近の高地である。つづいて高麗軍が確保したい目標は、大宰府西守護所(だざいふ・にししゅごしょ)といわれた赤坂山である。
 警固山(けごやま)ともいわれたこの小丘は、近世江戸時代になって福岡城が築かれた。実はこの山こそ、1019(寛仁3)年に刀伊入寇(とい・にゅうこう)の時にも攻防戦があった地点である。刀伊というのは朝鮮語で「夷狄(いてき・北方の野蛮人)」を表す。沿海州方面に居住した女真族(じょしんぞく)であり、この年に対馬、壱岐、筑前を襲ったが、大宰府の武装兵力によって撃退された過去がある。
 おそらくこの警固山は城郭とされていて、防禦用の施設が完備していただろう。壕が掘られ、土を掻きあげた土塁が築かれ、柵が植えられ、逆茂木(さかもぎ)もあったことだろう。守将は筑前国守護である少弐経資(しょうに・つねすけ)である。経資は方面軍指揮官として全体の指揮をとると同時に、直率部隊の先頭にも立った。彼は早良郡鳥飼(とりかい)、荒戸(あらと)などの樋井河口の一帯を担当した。
 また博多の東部地区、多々良河口と糟屋郡(かすやごおり)の筥崎宮(はこざきのみや)には豊後守護大友頼泰(おおとも・よりやす)を配置した。そして住吉宮付近、那珂川河口(那珂郡)には弟の少弐景資(しょうに・かげすけ、肥前・肥後両国の守護代)を配置して担当させた。ほかに今津(志摩郡)、瑞梅寺河口、室見川河口・姪浜(早良郡)にもそれぞれ守備隊を展開させ、指揮官を指名した。
 海岸に近い高地にはすべて守備兵を置いた。配備が薄かったのは、鳥飼干潟をはさんだ西側である現在の西新(にしじん)の麁原山(そはらやま、祖原山・早良山)のあたりだった。

上陸作戦の開始

 1274(文永11)年10月20日、夜明け前に戦闘は始まった。10月20日は現在の太陽暦であるグレゴリウス歴では26日になる。旧暦の20日は、寝待ち月の次の夜で潮汐は中潮(なかしお)だった。博多湾の満潮は昼の1時過ぎと翌日の深夜0時半ころである。干潮は朝の6時半過ぎと夕方6時過ぎだった。
 当時の手漕ぎの上陸用小型舟艇(水手10人・武装兵員20人)は上げ潮に乗ってやってくる。幕府の記録では、「19日亥の刻(午後10時)に筑前国早良郡に攻めてきた」とある。のちに提出された戦闘詳報に書かれた通りなら、高麗軍は20日の未明に行動を起こしたのだろう。上げ潮である。20日の日付に変わる頃なら月明かりもある程度はあったに違いない。
 高麗の国史の中に「三郎浦に上陸し、進撃しながら倭兵を斬り殺していった」とあるが、朝鮮語では三郎浦はサム・ラン・ポである。ここからサ、ラの音が示すのは早良(さわら)浦であろう。もっと細かく言えば、早良郡の東端の鳥飼で夜明け前から合戦は始まった。現在の福岡城がある赤坂山山頂が古代からの早良郡と那珂郡の境である。鳥飼は現在の福岡城の西半分にあたる。高麗軍は抵抗を排除して赤坂山(警固山)を奪おうとした。
 竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』によれば、朝の段階の戦闘は赤坂山だけのようだ。現在の福岡市街でいえば東端に近い筥崎(はこざき)宮のあたりは昼前の上陸になる。そして筥崎宮は戦闘中に放火され炎上した。朝廷の官人の記録では筥崎宮の焼失にともない、それを悼んで3日間の「廃朝」ということがあった。政府の機能は3日間停止したわけだ。
 蒙古・高麗軍が上陸適地としたのは筥崎の多々良河口だった。そのことは弘安の役に際して、河口付近に乱杭(らんぐい)を多く打たせたことでも分かる。乱杭は長く太い丸太の先端を多くはとがらせ、沖に向けて傾斜させて海岸に埋めた。舟艇の接岸を妨害するための城郭工事の一つである。
 服部氏は仮説を立てている。蒙古・高麗連合軍の上陸部隊が9000人と仮定する。これが早良方面と筥崎方面と2方面にわたって上陸したとする。高麗国史の記述によって、母船1艘には1隻の上陸用軽舟艇(バートル軽疾舟)が搭載されていたとしよう。博多湾の水深は当時ひどく浅く、大型母船は沖合に碇泊するしかない。その数は150艘だったとして、舟艇も150隻。各舟に20人の武装兵が乗ったとしてフルに稼働して、第1次の上陸部隊は約3000人と指揮官用の馬だったに違いない。
 この3000人が一斉に横一線で上陸するわけではなかっただろう。おそらくある程度の数はまとまったとしても、せいぜい100人や200人という単位で海岸に揚がったはずだ。それに対抗したのは海岸に布陣した武士団の矢の雨である。殺傷能力が高い距離はおよそ60メートルから30メートル。武士ばかりかその従者も、下人(草刈男や馬の口取り、乗り替え馬引き、糧秣運び)たちまでもが遠距離射撃を行なった。
 狙撃ではなく、いわゆる面制圧の矢戦(やいくさ)である。100騎の武士団なら1騎あたり2人の戦闘員が馬側にしたがい、5人ほどの下人を連れている。800本もの矢が空から降ってくる状況を想像するとよい。舟から降りたとたんに頭や肩、腹を射ぬかれ浜辺に倒れる兵が多かった。
 そこへ突撃したのはわが菊池勢の100騎(300人ほど)であり、蒙古・高麗軍の上陸第一波の先鋒はひどい苦戦におちいった。集団戦術で戦おうにも、指揮官の掌握下に入る前に、騎射に優れた武士たちの狙撃と下人も含めた白兵戦に巻き込まれてしまった。草刈り鎌(馬の飼料を刈り取るための長柄付きの大鎌)も振り回されたことだろう。大太刀や薙刀(なぎなた)も使われた。
 近現代のような艦砲射撃の掩護や、航空攻撃による支援もない上陸作戦。あっという間に突入してくる迎撃部隊。急に白兵戦に巻き込まれては上陸軍も混乱するしかなかった。「てつはう」も指揮法もあったものではない。海上の舟艇から波打ち際に降りる無防備な態勢を、勇敢そのものの鎌倉武士が茫然と見物しているわけもない。
 異文化に慣れていなかったから・・・などと『八幡愚童訓』から刷り込まれた偏見を捨ててみよう。海外貿易になじみ、外国文化にも詳しかった九州の御家人たちである。しかも彼らは誇り高い戦闘者だった。対馬、壱岐の惨状も聞き、仲間を討たれ、親族を殺された武士たちである。たちまち突撃したのは高麗の記録にも残っている。
『高麗史』によれば、副将の劉復亨(りゅう・ふくこう)は「流れ矢」にあたって重傷を負い、落馬した。この「流れ矢」についても興味深い指摘を服部氏はされている。
 ふつう、「流れ矢」というと、逸(そ)れ矢や偶然飛んできた矢のように解釈されるが、実はそうではない。大将分や騎馬の士官を狙うときには、特別な矢を使った。大型の狩股(かりまた、U字型で内側に刃がつく)か平根(ひらね)形式の鏃がつく上差(うわざし、2本差した高級な矢)を射るのだ。それがこの場合はそうではない、身分のある高級将校が雑兵をねらうようなふつうの矢で射られたことを「流れ矢に中(あた)る」と表現するものだという。
 要するに、射た側の日本武士も上差を選んで使うゆとりもないくらい、息もつかせぬ接戦、乱戦だったのである。弓の有効射程(殺傷能力を期待できる距離)は30~60メートル。もちろん、実戦では敵の内兜(うちかぶと・顔面)をねらって10メートル以内で射たこともあるだろう。そうした敵味方入り乱れた混戦状態が起きてしまったのである。もちろん、まだ海上にある舟艇からも味方撃ちを恐れて矢を飛ばすわけにもいかなかった。

季長鳥飼浜に向かう

 季長はこのころ、おそらく土地支配についての裁判の過程でもあったのだろう。本人も『詞書(ことばがき)』の中で「ほんそにたつし候はぬあひだ、わかたうあひそひ候はず、わづかに五騎候」、「季長、三井の三郎、若党一人、三騎痛手」などと書いている。
「本訴訟にもなっていないので、若党(戦闘員たる兵員)も連れておれず、たった五騎だった」。また「季長は一人、三井の三郎は一人の若党を連れていたから三騎にしか過ぎなかった」と言っているわけだ。
 もちろん、誤解してはいけない。下人はそれぞれ連れているのはもちろんである。季長が自分で飯を炊いたり、馬の世話をしたりしたわけもない。ならば、どうして言及がないのか。それが当時の「常識」だった。戦争は戦闘員だけでするものであり、下人はいないも同然という意識が普通だったのだ。
 季長のいでたちについては、馬は鹿毛(かげ・茶色)で足は黒、着用の大鎧は萌黄(もえぎ)色だった。萌黄は黄色がかった緑色である。しかし、季長の馬は鳥飼浜では青鹿毛(あおかげ・黒色)になる。乗り換えの馬だとすれば、傷ついたか、死んだかである。
 鳥飼浜に上陸した敵軍は乱戦を終えて、どうやら赤坂周辺に陣地を構築していた。赤坂の警固山(大宰府軍主力と司令部があった)を攻撃するために近くの小さな丘を占拠したのだろう。攻撃用の「向城(むかいじろ)」である。このとき、博多正面の指揮官、少弐景資(筑前・筑後守護代)は沖の浜に500騎で布陣していた。戦闘員だけで1500~2000人ほどになっただろう。
 少弐景資は「赤坂は馬の足立ちが悪い」と言っていた。鳥飼干潟につづく砂丘の後背地は当時、湿地帯だった。時によって、海水も流入するような地形である。馬のひずめが埋まり、ドロドロになる地質である。当然、敵軍はそこを通ることを嫌って、博多方面に東進するだろう。そのとき警固山の主力の突進に合わせて、自分たちは挟撃しようという作戦だったかもしれない。
 しかし、沖にはまだ軍船がいる。そこからさらに博多正面に敵が上陸してくるやもしれない。また、午後になってのことだが、多々良河口に揚がった敵は筥崎宮を襲撃している。
 本来、季長はこの少弐景資の部隊の一員である。肥後国の御家人だから、守護代の指揮下に入るのが当然であるからだ。ところが季長は決心する。「博多で敵の来襲を待っていては遅くなる。肥後ノ国の武士として真っ先に手柄を立てよう」。こう考えて季長は景資に上申して鳥飼浜に向かう許しを得たのである。
 指揮官の少弐氏としては、季長勢はたった5騎である。鳥飼には、すでに菊池一族100余騎を当てているし、白石氏一族100余騎も増援として手当てしてある。統率上は面白いことではないが、季長はなかなかの強情ぶりだったに違いない。まことに勝手な次第だが、季長は本来の部隊から離れて、そうそうに戦闘加入をするのだ。
 そうして、当時の軍隊の編制とはそういうものだった。総指揮官である守護や守護代の下には御家人たちがいる。ただ、守護もまた御家人だった。その最先任という地位はあったが、命令の完全順守を要求できるのは鎌倉にある将軍だけである。

突進する季長

 ともに鳥飼浜に進んだのは長門国御家人三井資長である。先の号でお知らせしたように季長の姉婿にあたる。ただ、身分は長門国御家人であり、肥後国守護代の指揮下に入る義務はなかっただろう。そうして季長がこの三井の配下になれば、少弐氏の命令を聞かなくともよいといった理屈も成り立たなくもなかった。景資は季長に、「互いに命を長らえることはないだろうが、万が一、再び生きて会えれば、あなたの功績や手柄はきっと上申しよう」と言葉をかけたようだ。
 この進撃途中に季長一行は菊池一族とすれちがう。菊池勢100余騎は「凶徒の陣を破り、賊徒を追ひ落として、首2つ、太刀と薙刀(なぎなた)に貫いて先頭に掲げて進撃してきた。この首2つもまた、鎧などの装備が美々しかった指揮官クラスのものだっただろう。雑兵の首など功績にはならなかったからだ。
 次回はいよいよ教科書にも載る季長の奮戦を描いてみよう。
★服部英雄氏の論文から多くを学びました。一般向けの新書もぜひご一読をお勧めします。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)10月3日配信)