陸軍経理部(38) ―軍馬の話(24)

お礼

 HYさま、そしてMさま、お便りありがとうございました。あの「自衛隊幹部低学歴論」、その後のことについては、特にフォローしておりませんが、書き手の狙い通り反響が大きかったのではないかと思います。そうであったら、何かひっかけられたような気がしなくもありません(笑)。
 しかし、お二方のご指摘どおり、ああした誤った認識を世間に拡散されても問題が大きいと思いました。しかも筆者の経歴は安全保障についての博士課程で学んでいるような人物であり、わが国の名門大学の1つの研究機関に籍があるということが不思議でした。個人の意見ですから、大学とは直接関係がないとはいうものの、ああした誤った言説は野放しにはできません。
 今後ともお便りをお待ち申し上げています。

はじめに

 昭和時代の高校教科書には、
「元は、1274(文永の役)と、1281(弘安の役)との2度にわたり、大軍を送って、北九州へ攻めてきた。(略)さいわい2度とも暴風がおそい、元軍は全滅に近い打撃を受けて退いた。これを元寇という」
 と書いてあります。
 それが平成時代の高校教科書になると、
「フビライは日本を従えようと、(略)高麗(こうらい)の軍勢をも合わせて攻め入ってきた。1274(文永11)年には、対馬・壱岐をへて北九州の博多湾に上陸し、集団戦法と優れた火器により、日本軍をなやましたすえ、引きあげました(文永の役)。
 1281(弘安4)年には、ふたたびせめてきましたが、(略)元の大軍は上陸できないまま、暴風雨にあって大損害を受け、退きました(弘安の役)」
 と変わりました。
 2度の暴風から、1度の暴風雨によるもの変わっています。また、高麗のことも書かれています。そして、元寇という言葉は注意深く使われていません。実は最近の中世史の研究では、元寇という言葉は江戸時代につくられた不自然な造語であるとされました。当時の人は攻めてきたのは、「むくり・こくり」であると言い伝えています。むくり、すなわち蒙古のことをいい、こくりというのは高句麗、高麗のことでした。そこで、近頃の高校日本史教科書では「モンゴル襲来」や「モンゴル戦争」などと、より事実を客観的に伝える表現を使うことが増えました。
 いっぽう、中学の歴史分野の教科書には、
「元は高麗に軍船や兵を出させ、約3万数千の軍で対馬、壱岐をへて博多湾(福岡市)に上陸しました。幕府軍は元軍の集団戦法や火薬に苦戦し、大宰府まで退却しました。しかし、元軍は夜になって引きあげました(文永の役)。
 1281(弘安4)年、元は降伏した宋や高麗の兵を加えた約14万の大軍で、再び九州北部に攻めよせてきました。幕府軍は博多湾沿いに築いた石築地(いしついじ)を利用して元軍の上陸をはばみました。よせ集めの元軍は、作戦がまとまらないまま、時をすごすうち、海上で暴風雨におそわれ、大きな被害を受けてしりぞきました(弘安の役)。2度にわたった元軍の襲来を、元寇といいます」
 と、戦闘経過がより詳しくなり、そのかわり元寇という言葉が採用されています。
 これは先に書いた2つの高校教科書の執筆者が日本史研究者であること、中学教科書はアジア史の学者が書いたことによる違いです。今回は、さらに日本史学者から出された新しい史料の解釈を中心に、武士とモンゴル軍との戦いを詳しくみてみましょう。

竹崎季長とはどういう武士だったのか

 竹崎五郎兵衛尉季長(たけざき・ごろうひょうえのじょう・すえなが)は鎌倉幕府侍所(さむらいどころ)の名簿(みょうぶ)に名前が記された御家人(ごけにん)だった。征夷大将軍の直臣(じきしん)であり、武士の中では高い身分の男である。当然、将軍にも面接権があり、直に口もきける存在だった。
 この身分の区分は厳重なもので、源義経ですら鎌倉将軍家の制度では一御家人にしか過ぎなかった。扇の的を射た那須与一も、陸奥からきた佐藤兄弟ですら御家人義経の郎等(ろうどう)でしかなく、鎌倉の御殿に上がることすらふつうは許されなかった。
 名前も五郎兵衛と兵衛尉と使い分けているから、季長本人が任官していたかどうかは分からない。左右どちらかの兵衛府(ひょうえふ)の大尉(たいじょう)なら従六位下(じゅりくいのげ)、少尉(しょうじょう)なら正七位上(じょうしちいのじょう)だから、堂々たる朝廷の官位をもつ武官だった。
 もっとも、彼の当時の直属上官に当たる少弐景資(しょうに・かげすけ)が本物の左衛門尉(さえもんのじょう)だったから、どうやら祖父、あるいは父親が衛門尉だったとも考えられる。いずれであれ、彼は御家人の中でも格段に高いランクにあったといっていい。蒙古襲来においては肥後国(ひごのくに・熊本県)住人として戦いに加わった。そのほぼ10年後に、貴重な記録、『蒙古襲来絵詞(もうこ・しゅうらい・えことば)』を残してくれた。
 生年は1246年と推定される。絵詞の中に「生年(しょうねん)二十九歳」とあることからだ。ただし、本貫地(ほんがんち)である苗字の地には2つの説がある。1つは当然、肥後国竹崎である。竹崎という地名は玉名郡と益城郡(ましきぐん)、そして阿蘇郡(あそぐん)にもあった。これまで竹崎季長は益城郡の出身と考えられてきた。益城は現在の熊本県の中央部になる。熊本平野の一部である。玉名は県の北部の有明海に面した菊池川河口地域をいう。
 絵詞の中に、大族の長(おさ)である菊池二郎武房(きくち・じろう・たけふさ)と出会って名乗りあう場面がある。そこで季長は自分を菊池とは『おなじきうち』と答えている。「うち」とは身内のことであり氏とも読める。そうであるなら竹崎は藤原姓菊池氏の流れと考えられる。季長もまた藤原氏を名乗っているからだ。だから菊池川の流域である玉名の竹崎説をとる学者が多い。また蒙古軍との戦闘で季長は兵船を仕立てているが、その同乗者には宮原三郎、焼米五郎(やいごめ)、飛田二郎などの苗字はみな玉名郡竹崎の近くにある。

竹崎は下関にもあった

 九州大学名誉教授の服部秀雄氏は新説も唱えている。それは肥後の竹崎は二次的なものではないかというのだ。初めの本貫地は長門国(ながとのくに・現山口県)竹崎である可能性も高いという。なぜなら季長の烏帽子親(えぼしおや・武士が元服の時に烏帽子をかぶせる役、生涯にわたって庇護者となる)が長門国守護代(しゅごだい)三井季成(みい・すえしげ)だったのだ。この姓は「みい」と読む。
 元来、長門国守護(国中の御家人の最先任・軍事指揮権をもつ)は文官の二階堂氏であり、その代官(守護代)の権威・統制力は現地に不在である正規守護と同じである。その三井季成が庇護者であり、季長の姉婿はその同族の三井三郎資長(みい・さぶろう・すけなが)だった。しかも、名前の「資長」の下、長は季長と同じである。こうしてみると竹崎家は長門の名族と考えられる。
 長門国竹崎があったところは、現在の下関市(しものせき)の中に竹崎町があることから海に面した港町だったと考えられる。当時から下関と対岸の門司は「両津(りょうつ)」と呼ばれて本州と九州の物流の中心地だった。当然、竹崎一族は豊かだったはずである。のちに、当時としてはひどく費用がかかった絵巻物、『蒙古襲来絵詞』を作れるほどの経済力があったことを示唆している。

元の意図は日宋貿易遮断にあった

 なぜ、モンゴルは日本を攻めたのだろうか? 大船を多数建造し、その乗組員や兵員をそろえ、馬を載せ、糧秣を集積し、武器・装備を整える。その兵站補給も企画・整備する。もちろん、支配下にあった高麗(こうらい・936年建国、1392年に敗亡)に大きな負担がかかったことは確かである。抵抗する気分が生まれないわけはない。そこから元帝国の支配が揺らぐ可能性だってないわけではない。それであっても、なお2度にわたってわが国を攻めた理由は何だったのか?
 元に北方から攻められていた宋は、それでも日本と交易を続けていた。その貿易品目に注目したい。わが国の輸入品の最大のものは「銅銭」である。鎌倉時代、13世紀の半ばころになると一気に貨幣経済が発達していた。そこで需要があったのが銭貨である。わが国ではそれまでにも皇朝十二銭などと称される独自貨幣もあったが、その質量ともに外貨にかなうわけもなかった。銅はわが国でも産出したが、製造技術からみても宋銭を輸入した方がはるかにコスト的に安かったのである。
 他に輸入したのはいわば贅沢品である。高温で焼いた磁器、もちろん陶器も。そうして漢方薬の原材料も船にのってやってきた。すべてわが国にはなかったものばかりで、これが現在の福岡市の多々良川河口の箱崎(福岡市東区)、那珂川と御笠川河口の博多(中央区)、樋井川河口の鳥飼(城南区)、室見川河口の姪浜(めいのはま・西区)、瑞梅寺河口の今津(西区)などに入った宋船によって運ばれてきた。これらの港町には必ず「唐坊(とうぼう)」といわれたチャイナタウンがあったことも明らかになっている。

輸出品の双璧だった硫黄と木材

 それでは、宋は何をわが国から買っていたのだろうか。こちらの輸出品のトップは「硫黄(いおう)」である。火山国のわが国ではやたら採れたが、中国大陸にはめったにみられないものが、火薬の必須原料だった硫黄だった。よく知られているように、中国で火薬は発明された。
 これをいまは黒色火薬という。黒いのは木炭のせいであり、他に硝石(しょうせき)と硫黄を混ぜて造った。その配合は硝石を約75%、硫黄同10%、木炭を同15%の割合である。硝石は正確には硝酸ナトリウムという。硝酸塩鉱物であり、水溶性が高い無色の結晶である。世界的には南米チリが名産地とされている。
 わが国で火薬が発達しなかったのは、この硝石の生産がほとんどなかったことからだろう。逆に中国大陸で珍しかったのは硫黄である。宋は火薬を製造し、モンゴル軍との戦闘で盛んにこれを使った。炸裂音だけで、これに慣れていない馬は狂奔する。教科書にも使われる「蒙古襲来絵詞」の季長の馬が暴れているのは、モンゴル軍の矢が当たっているからだけではない。上空で破裂する「てつはう」のおかげである。多くの武士はこの馬が受けた混乱のおかげで戦闘を続けられなくなった。
 13世紀初めの宋の寧波(ニンポー)で輸入された日本製品の記録を服部氏はあげている。小容積のものは、金子、砂金、珠子、薬珠、水銀、鹿茸、茯苓(ぶくりょう)だという。金や真珠や薬品類は、量は少なくとも価値が高い。大きな容積を占めるものは、硫黄、螺頭(らとう)、合簟(ごうでん)、松板、杉板、羅板(らばん)とある。螺頭というのは螺鈿(らでん)細工に使う貝殻、合簟は「むしろ」、「あじろ」の意味だが、合簟は藺草(いぐさ)の筵(むしろ)のことをいうらしい。
 松や杉はともかく、羅とはわが国でいうヒノキのことである。檜や杉は高級な建築用材として大陸ではもてはやされた。「長さは十四・五丈(約40メートル余り)、径(直径)は四尺(1.2メートル)」などと中国側の記録にある。
 とにかく筆頭は硫黄である。とりわけ九州の雲仙岳、硫黄島(いおうじま・鹿児島県三島村)などでよく採れていた。モンゴル軍は宋軍が使う火薬が苦手で、日本の宋への輸出をやめさせ、自分たちの方へ回すようにさせたかったのだろう。
 宋は西夏(せいか・1038年、タングート族が建国、1227年モンゴルによって滅亡)との戦いでも火砲箭(かほうせん)を使った。モンゴルに攻められたときも大量の火薬弾を用意し、元軍もまた宋の襄陽(じょうよう・有力都市)を攻撃するときには砲を用いた。その火薬の原材料の硝石は、乾燥した不毛の地には自然にあった。湿潤な気候をもつ日本には、硝石はほとんどなかったが、火山国のおかげで硫黄だけは「売る」くらいもあったのだ。
 わが国は先進国である中華王朝の宋にはせっせと軍需物資の硫黄を運んでいた。それなのにモンゴル(元)にはその供給をしなかった。蒙古の襲来は物質戦争だった。硫黄という最重要な軍事物資の補給地である日本を叩き、自軍にそれを要求したのが真相だった。
 前面に立って侵攻の尖兵となったのは高麗軍である。朝鮮半島から九州大宰府を攻めるなら途中の兵站補給基地が必要である。対馬を占領し、続いて壱岐(いき)を襲った。船に載せた馬には清水と青草を与えなければならない。大軍で奇襲をかけ、両島の守備にあたっていた日本の武士たちを殲滅(せんめつ・皆殺し)し、兵站基地を開いた。
 そこでは命令に服さない民衆には遠慮なく、残虐な行ないをしただろう。つづいて狙ったのが九州全体の制圧である。それには当時、政治の中心地であり、最大の人口を誇った大宰府(だざいふ・現福岡県太宰府市)の攻略が必須である。高麗軍はまず博多の町を襲った。

炎上した博多

 1274(文永11)年、元の暦では10月3日に大船団が朝鮮の根拠地合浦(はっぽ・以前は馬山、鎮界湾の奥にある)を出撃し、鎮界湾(ちんかいわん)口を経て、対馬に到着した。
 鎮界湾から対馬までの距離はおよそ50キロ。船団は軍船100余隻と記録がある。総兵力は3万(軍船900隻、乗組員だけで1万5000という)の一部が上陸し、戦闘を始めた。船の速力が4ノット(時速約7キロ)なら7時間と少し。対馬の西海岸(佐須浦・さすうら)に上陸したという。博多を望む南端が豆酘(つつ)で、そこに至るまでは国分寺があった国分(こくぶ、後の府中、現在は厳原)も制圧した。
 わが兵力はいかほどだったか。上陸した高麗兵は9000といわれる。対馬を守ったのは守護少弐景資(しょうに・かげすけ)の代官、宗右馬允助国(そう・うまのじょう・すけくに)である。80騎、あるいは100騎といわれるから戦闘員は250人から300人ほどだっただろう。まったくの奇襲だったこともあり、あっという間に皆殺しにあったと思われる。島民も仕方なく住居や食料を提供した。残酷な目にあったことも記録されている。
 壱岐(いき)も一方的な残虐な攻撃にさらされた。『高麗史』によれば、11日に「千余騎を撃殺」とある(14日ともいわれる)。対馬攻略から6~8日後に壱岐に上陸した。夕刻に2艘の船から赤旗を立てて約400の兵があがったという。守護代平景高(たいらの・かげたか)は100余騎を率いて迎撃した。しかし、多勢に無勢、壱岐の武士団は壊滅する。ここでも高麗兵の残虐さは変わらず、男は殺されるか捕われた。女は駆り集められ手に穴を開けられ綱を通され、船につながれたという。乳幼児はみな殺された。
 壱岐島で生産された壱岐牛は都へ送られ、貴族たちの牛車をひいていた。この牛たちも次々と殺され、高麗兵の胃袋に収まっていった。
 おそらく騎馬兵は弓射で対抗したし、徒歩弓兵も応戦しただろうが包囲され、次々と倒されていったことだろう。

日本史研究への余談

 わが国は唐との戦いから律令体制という軍事国家になった。その後は武家政権がつづいて明治維新までは確実に「武人」が政治を行なっていた。つまり政治と経済のありかたも、その時代の安全保障の施策と状況で異なってくるとすれば、日本史学者に軍事知識が乏しいといっていいはずがない。
 だから我々のような少しでも軍事知識をもつ者から見れば、これまでの歴史叙述は決して満足がいくものではない。今回指摘した「なぜ元軍が攻めてきたか?」は戦略物資だった硫黄を元が押さえたかったものでもあり、対馬、壱岐の悲劇は兵站補給路確保のためだったと言っていい。こうした解説は多くの高校教師もできてこなかったのではないだろうか。
 また、きわめて私事になるが・・・。小学生だった娘たちを連れて京都に遊んだことがある。そのときの某博物館での出来事だった。長女が茫然としている。視線の先を見たら、わたしも思わず息を飲んだ。ミュージアムショップにいた女性があまりに美しかったのだ。まず、関東では見たこともない。「あれが京の女であるか」。目鼻立ちが整い、まさにお雛様のお顔である。立ち居振る舞いも言葉も美しい。現在でもそうであるなら、古代や中世ではどれほどの格差が、田舎の女と都の女にはあったのだろうか。
 ひらめいたことがある。地方武士団の棟梁たちが、素直に都の貴族のガードマンとして働いていたのは、こうした衝撃もあったのではないか。そうして美女を与えられ、地方にもしも連れて帰っていたら。田舎の「東夷(あづまえびす)」どもは、その美しさにひれ伏していたのではないか。
 まさに幕末の新撰組の隊士や尊皇攘夷を唱えた田舎の武士たちが、最大の遊郭島原に通いつめたのはそこにも関わりがあったのだろう。経済史や政治史にはこうした話は決して出てこない(笑)。まさに歴史は「ヒー(彼・男性)ストーリー(物語)」でしかなく、ほんとうの話は書かれていないのではないかと思われる。
 余計なことだ。次回はいよいよ絵詞に書かれた季長の迫真の戦闘の解説をしよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)9月26日配信)