陸軍経理部(12)

ご挨拶

 春が桜の開花とともにやってきました。今年は例年より1週間ほども早いとのことですが、皆様の地域ではいかがでしょうか。
 さて、大正時代の経理官の手記は、ある時代の相を表し、時代の常識を描いています。こうした解読は重要だと思いますが、いかがでしょうか。
 前回までと同様、○経理官 ●兵科将校 ※解説 とする。

物品経理の位置

● 貴官の言うことを聞いていると、軍隊経理の重点はむしろ物品経理にあるように聞こえるのだけれど。しかし、規定の上からみると・・・とはいえ、僕はまったくの素人だから詳しいことは知らないけれど・・・金銭についてはその取り扱いを詳細に規定してあるし、あるいはその監督・監査を厳重にするために煩瑣(はんさ・うるさく細かいこと)の手続きを設けてあるのを見ると、やっぱり経理の重点は金銭にあるのじゃないか・・・現に当聯隊でも金銭の出納(すいとう)は高級主計にやらせているではないか。
○ それはなかなかうがった質問だね。ごもっともなことだが、誤解がないように説明しておかねばなるまい。
 そもそも、金銭経理に重点をかけているように見えるのは、おそらく金銭つまり貨幣は誰しも欲しがるお宝で、ややもすると不正行為を起こしやすい一種の危険性を帯びている。そのため、その取り扱いを厳重にして、出納整理に専門的な知識を必要とすることは確かにある。しかし、その内容は物品経理に比べれば、ひどく単純なものなのさ。
 すなわち、その種類からいえば、貨幣はたかだか十数種類に過ぎない。それに比べて、物品は幾万点あるか分からないのだ。また、その用法から見れば、貨幣は単に支払いの具でしかなく、それに対して物品は衣食住全般の用途にあてられ、しかも同一品の中でも給与期限が長く、それに新品から廃品になるまで累次(るいじ・次々と重なること)その充当が更新されて、使用ができなくなって初めて処理が終わる。
 そのうえ、物品は金銭にみることができない新陳代謝(しんちんたいしゃ・新しいものが古いものにとって代わること)や補修手入れが加わり、その出納整理だけをとっても、煩瑣複雑なことはとても金銭取り扱いの単純明瞭さと比べることもできない。
 前に言ったように、金銭出納は不正行為をともないやすいのと、その整理には専門的知識が必要なので、ふだんは高級主計にさせているわけだ。
 また、金銭は貨幣としての便利さがあって、誰もが尊重するけれど、これがいったん物品になると、一般の風習として1厘(りん・1銭の10分の1、1円の1000分の1)の貨幣を尊重するほど、1枚の半紙(はんし)を丁寧には扱わない因習(いんしゅう・古くからの習慣)によってその(物品)経理もまた金銭のように尊重しない。
 しかし、そのことからただちに物品経理が金銭経理に比べて軽いものだと考えるのは大きな誤りなのだ。
 物品は前にも言ったように、その種類、用法、新調、更新、保管、出納、修理、交換、手入れ、処分などたいへんな緻密(ちみつ)な考え方、鄭重(ていちょう)な取り扱いを必要とするもので、その経理は金銭よりはるかに複雑なのだ。しかも軍隊経理業務の分量の大部分は物品経理にある。それから考えても、業務の重点はむしろ物品経理にあるといっても言い過ぎにはならない。
※解説
 歩兵隊(対馬警備隊、独立守備隊などの聯隊に編成されていない軍隊もあるから)の兵卒に支給される品目に注目してみよう。軍帽、軍衣(上着)、軍袴(ズボン)、巻脚絆(ゲートル)、軍足(靴下)、軍手、襦袢(じゅばん・シャツ)、袴下(こした・ズボン下)、冬外套(オーバーコート)、雨衣(あまい・レインコート)、階級章が服装の一式である。季節によって夏・冬で制式も変わる。
 これに編上靴(へんじょうか・軍靴)、営内靴(えいないか・革製のスリッパ)が加わり、武装する際の帯革(たいかく・ベルト)と銃剣差(じゅうけんさし・帯革と銃剣をつなぐ革製のベルト)がある。
 武装関係では、歩兵銃、銃手入具、銃剣、背嚢(はいのう)、弾薬盒(前2つ、後ろ1つ)があり、雑嚢(ざつのう)などが挙げられる。携帯円匙(けいたいえんぴ・小型スコップ)、携帯天幕(ポンチョ)、手旗信号用の旗、天幕展張用の支柱などなど。
 銃の手入れ具にも多くの種類と定量があった。たとえば、保存や手入れに使われる油だけでも、ペトロラタム(格納用鑛油)、ワセリン、スピンドル油、洗浄用の石油揮発油硼砂溶液(ほうしゃようえき)、亜麻仁油(あまにあぶら・銃床などの木部塗布用)、革を手入れするための鯨油(げいゆ)、牛脂の混合脂(革具に塗布する)の6種類があった。
 被服や靴についての手入れ具も多かった。服ブラシ、靴刷毛(くつばけ)、裁縫道具が入った燕口袋(えんこうぶくろ)の中には補修用の糸、糸切りはさみ、予備のぼたんなども入っていた。
 各個人のそれらすべて装具への注記(氏名・所属を記入すること)は入営したばかりの兵にとっては大変な作業になった。
 また、各中隊が保管すべき陣営具などの物品数も相当な数にのぼった。陸上自衛隊の場合を聞いたことがあるが、およそ200種類だった。それこそ草刈用の鎌、土工用の各種器材、天幕用の備品、炊事用の釜やしゃもじ、その他である。

軍隊はいわゆる国民学校である

● 内務経理は、聯隊と中隊と、いずれがその本(もと)となるのだい?
○ 中隊は家庭の単位であって、また経理の最下位の単位になる。内務経理は家庭単位である中隊を本とするがために、中隊長は経理思想を家庭的に向上発達させることが肝要である。
 軍隊内務書に、『中隊長ハ法規ノ定ムル所ニ従ヒ経理ノ業務ヲ処理ス』とあるのは、聯隊長の下す主旨を体して、経理委員の計画施策に調和し、中隊の内務経理を具体的に處?(しょべん・方針を決めて処理すること)するものと理解することが妥当だと思う。
※解説
 中隊は1つの家庭であって、中隊長はお父さん、内務班長(下士官)はお母さん、古年次兵はお兄さんといわれるようになったのは、軍隊を「国民学校」とした日露戦争後のことである。
 中隊の指揮官はふつう大尉であり、その下にはスタッフとして事務室にいる准士官(特務曹長)、下士官(曹長・軍曹・伍長)がいる。平時の陸軍では戦闘編制単位の小隊はなかった。だから中尉や少尉は初年兵や二年兵の教官を務めていた。兵隊は中・少尉のことを「教官殿」と呼んでいた。
 中隊の兵の定員は120名とすると、それをふつう4個内務班に分けた。内務班とは兵たちの生活と教育の単位になる。1個内務班は初年兵と2年兵の合計30人ほどになり、各年次ではほぼ15人ずつになった。内務班長は軍曹もしくは伍長であり、彼らは居室を別にもっていた。教練の時間は「助教(じょきょう)」と呼ばれて教育にあたったが、兵の個人的な問題なども世話をした。
 兵の成績判定基準は学科、術科、内務といわれた。学科は「典範令(てんぱんれい)」とまとめていわれた歩兵操典、射撃教範、礼式令などの軍隊運営上の諸規則である。術科は銃剣術、射撃などの教練体育系統、内務とは兵卒としての行住坐臥も含んでのすべての規則にあたる。
 このうちで実は重視されたのは学科である。近代社会の中でも、すぐれて官僚的組織であった軍隊では、知識・能力に優れた者が高い評価を得るのが当然だった。
 この成績が序列を決め、初年次のトップを一選抜の上等兵という。時期によって異なるが、15名中3人くらいがこの一選抜になり、うち1名は翌年の初年兵の「教育掛助手」を務めた。そうして大過なければ、一選抜のうちから伍長勤務上等兵を経て、除隊時には「下士適任証書」を与えられて帰郷した。
 中隊を家庭になぞらえて中隊長を家父長にたとえ、慈愛に満ちた母親役を内務班長が演じ、2年兵は兄貴風をふかしたのが戦前陸軍だった。
● 軍隊はいわゆる国民学校にして、国民に最後の磨きをかける所だから、しっかりした精神的実物教育を施す必要があると思う。官物尊重心が質素の本旨にそうものであることは、言うまでもない。質素なる良兵は、すなわち帰郷すれば質実(しつじつ・飾り気がなく真面目なこと)なる良民であることは当然であり、このように国民に質実なる資質を与えることは、現在の国状と世相からみても、特に必要だと思う。したがって官物尊重心は、ただ軍隊教育令の本旨と合致しているとしか言いようがない。
○ 僕もまったく同感である。
● そうであるなら、この官物尊重心はどうすればこれを向上できるのだろうか?
○ それは中隊の幹部、ことに下士の示範的(しはんてき・模範を見せること)指導と監督、兵卒の善良なる躾(しつけ)によらねばならない。そうして兵卒の善良なる躾とは「公徳心」の養成がもっとも大切なことだ。
 人は生まれながらにして欲心がある。物欲と節約は天性である。ただ、人によって深浅(しんせん)の差があるのみだ。軍隊の官物尊重心というのも、一つの欲であって、あれは私欲であって、これは公徳ともいうべき差別があるに過ぎない。ここにおいて、内務経理はこの公徳心の向上発達を促進することが緊要(きんよう・差し迫って必要なこと)である。
※解説
 陸軍で「幹部」といった場合は、判任武官である伍長以上の下士官と准士官・将校・同相当官以上をいう。陸上自衛隊は現在、警察予備隊以来の階級区分から「幹部」を昔の士官(尉官)以上に限る呼び方にしているので注意が必要である。警察では警部以上を幹部としていると聞いている。
 なお、兵卒という言葉が使われているが、昭和6(1931)年まで、兵の等級は上等兵、1等卒、2等卒だった。単独任務を果たせるのは上等兵だけで、「卒」というのは「ひきいられる」という意味である。昭和7年からはみな「兵」に統一された。なお、下士が「下士官」になったのも、その年からである。
● 兵の中には素養に富まない者もいるが、これらに対して公徳心を徹底させるためには、幹部がまず生きた模範を示すと同時に、具体的に身近な例を示して、各自の自覚をうながさなくてはなるまい。だから幹部は軍隊の指揮官であるという技能ばかりではなく、人格が高く、真の勇気をもち、常識豊かで、他者への理解力がなくては、とてもこの精神的実物教育を徹底できないだろう。このようにみてくると、自分がまだその器にとても乏しいことに気づき、情けない思いもある。
 貴官はその職掌(しょくしょう・仕事とすること)から、兵卒に対して有益と思われる講話の材料をもっておられるだろう。それをここで話してくれ給(たま)え。
※解説
 実は大正時代というのは、「改造」と「進歩」が流行語だった時代である。また、日露戦後の不景気と、人心の弛緩(しかん・ゆるむこと)の社会でもあった。とくにこの筆者の佐伯主計の生きた大正末期は、「資本主義の行き詰まり」が主張され、隣邦ソビエト連邦の成立などから、野放図な個人の欲望が認められた頃でもあった。
 過去のモラルは軽視され、個人の自由とか、社会の不平等の解消などが叫ばれていた時代でもあった。官物尊重心どころか、社会全体でも「公徳心の低下」が嘆かれてもいた。公園の水飲み場の蛇口が取られたり、当時の国鉄の駅の備品なども壊されたり、盗まれたりもしている新聞記事もある。軍隊内でも秩序がゆるみ、歩哨もきちんと勤務しないなどということが問題にもなっていた。
○ それでは、糧食について話すことにしよう。順序として米食の由来から始める。今からおよそ1200年前(奈良時代初期)には、国民の主食は玄米と雑穀を甑(こしき・鉢型の素焼きの土器で湯釜の上に置いた)で蒸して、強飯(こわいい)として食べた。その後の平安時代になると上流社会は白米だったが、四民(しみん・士農工商)は同じく雑穀だった。さらに時代が下り、源平、足利、北條(ほうじょう)氏時代になっても関東武士は、やはり玄米と雑穀だったが、京洛(都と周辺)の紳士は白米だった、・・・今から約330?340年前、すなわち加藤清正公の軍令の中に、『食は玄米たるべし』とあった。
 そのあと、元禄時代(1700年頃)から上下の階層をとわず、贅沢になって四民もようやく米食を主とするになったけれど、徳川時代にも井伊直孝(いいなおたか・1590~1659、彦根藩初代)が『供奉(ぐぶ・貴人のお供)の驛驛にては玄米糠味噌汁(ぬかみそしる)と香物(こうのもの・漬物)を常食となし、米の白きは奢侈(しゃし・ぜいたく)なり』といましめたくらいである。
 現在、わが陸軍では国民の中等食を標準としているから、糧秣(りょうまつ・食糧と馬の秣)の品位も中等品で我慢しなくてはならない。
 次の表は、本年当聯隊に入隊した兵卒の入隊前における常食について調べたもので、参考までに掲げてみよう。
 (以下、表の一部をあげておく)
 長崎市では、白米食は70.2%である。佐世保市50%、沖縄の50%がそれに次いでいる。最低は東彼杵郡(ひがしそのぎぐん)の12.5%で、聯隊全体の平均では30.5%になり、兵員の3人に1人しか白米食をしていた者がいない。
 米麦の混食がもっとも高いのは、対馬の48.3%、続いて壱岐島45.8%、もっとも低いのは南松浦郡の20%になる。聯隊全体の平均は33.4%である。
 米麦に甘藷(かんしょ・サツマイモ)をかさ増しとして入れていたのは、最高が壱岐島の25%、南松浦郡の18%がそれに次ぎ、最低は佐世保市のゼロ。聯隊平均が11%。
 米麦に粟(あわ)になると、さすがに南高郡の3.1%にしか過ぎず、全体でもわずか0.5%になっている。
 米に甘藷を混ぜていたのは、沖縄の21.4%を最高にし、最低がゼロ。全体平均が2.9%である。
 麦食は最高が南高郡で30.6%、最低は沖縄のゼロ、全体の平均では16.4%。
麦と甘藷の混ぜ飯は西彼杵(にしそのぎ)郡の12.5%を最高にして南高郡が6.2%などであり、全体の平均では5.3%になっている。
※解説
 「一汁一菜」というと、汁ものが1つ、おかずが1つとなって、現在ではひどく粗末な食事と思う方もいるだろう。しかし、それは大きな誤解で、「一汁一菜」はようやっと大正時代に庶民の多くがたどりついた贅沢な食事だった。ただし、一汁一菜の汁は味噌汁(たいていはミは青菜)と菜とは漬物である。現在、食堂でお目にかかる「定食」からおかず(副食)をなくしたものと考えればいい。
 明治の食卓も貧しかった。その庶民の食事の実態を、わたしたちは当時のベストセラー、樋口一葉の短編小説『にごりえ』からも知ることができる。元はそこそこの蒲団屋(ふとんや)の若主人だった源七(げんしち)は、今でいうキャバクラ(銘酒屋といった)の女に入れあげた末に、家産をなくし裏長屋に住んでいる。女房と幼い子供を養うために、毎日坂の下で「立ちん坊」といわれる仕事をしていた。
 東京の山の手はすべて坂と谷でできている。台地と平地はおよそ20~25メートルの高低差があった。神楽坂や九段坂を思い出してほしい。その坂を上がるのは、当時の大八車(だいはちぐるま・二輪の荷車)にとっては大変なことで、坂の下から上まで車の後ろを押してあがって駄賃をもらえた。だいたい1回1銭か2銭の稼ぎである。それが現代のいくらになるかの判定は難しいが、1銭がおおよそ130円くらいと思う。女房の内職と合わせてざっと1日40銭くらいが手にした金だろう。
 源七の夏のある日の夕食は、冷奴と3膳の飯である。おそらく肉体労働の1日では7合、約1キログラムの白米を食べていただろう。おかずは豆腐の冷奴、1丁である。豆腐は当時、1銭5厘はした。200円ほどである。みそ汁や漬物もあっただろうが、一葉はふれていない。
 30年後の大正末期のこの時代でも、軍隊の食事は庶民の平均よりはるかによかった。次回はいよいよ「賄い料」の話になる。期待されたい。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)3月28日配信)