陸軍経理部(13)

お問い合わせについて

 YH様、ご丁寧なお問い合わせありがとうございます。官等について、各省庁のHPでの食い違いなど、あるいは研究者の方にも混乱があるとか。他の読者の方々にも有益だと思いますので、いささか教科書的にもなりますが、お答えしたいと思います。
 まず、戦前の官吏(かんり)は文官、武官を問わず官等で区分されました。武官とは陸海軍の下士官以上をいい、武官以外の官吏を文官としました。ただし、国から俸給を受ける者を「狭義の官吏」とします。
 では、「広義の官吏」について説明します。国の官吏でありながら、地方自治体から俸給を受けている者もありました。これは国の事業でありながら、地方自治体が委任を受けて実施し、その経費を負担する場合です。戦前の場合、市町村立小学校の教員は国の官吏ですが、その経費を市町村が負担するので、その俸給も市町村が出しました(のちには国および府県が払う仕組みになりました)。一般に地方待遇職員といわれたのは、この俸給の支払いシステムのためです。身分もふつうの奏任官や判任官と区別され、待遇を与えられるのみなのはそのためでした。
 判事と将校、同相当官である武官は終身官です。退職後も官吏でした。退職した判事と、予備役・後備役、そしてもう召集に応じる義務のない退役将校・同相当官は恩給は受けますが、俸給は受けません。でも官吏でした。
 神官も官吏です。国により任命されますが、俸給は神社の経費から出ました。したがって官吏待遇を受けるだけです。他に地方の三等郵便局長、執達吏、公証人も同じでした。
「狭義の官吏」は、高等官と判任官に分けられます。高等官はまた、任命の形式によって勅任官と奏任官に分けられ、勅任官はさらに親任官とその他の勅任官に分けました。
 親任官を除く高等官を1等から9等に分けます。その1・2等を勅任官、3等から9等を奏任官としました。ご承知のように、1等は陸海軍中将と同相当官(軍医総監・のち軍医中将、主計中将、獣医中将、技術中将など)、宮内次官、宮内省掌典長、李王職長官でした。また、1等もしくは2等と指定される職も多く、陸海軍少将と同相当官が2等の代表です。
 文官の特別任用令もありました。ふつう高等試験の合格者から採用されるのが高等官ですが、特例もあり、大正9(1920)年には限定された73の官(ただし主に高等官4等以下の官)については判任官から銓衡(せんこう)されて任用ができました。さらに昭和16(1941)年になると、高等官4等以下を最高官とするすべての官にこれが拡大されました。このあたりが省庁のHPでも混乱している原因ではないかと考えられます。
 何かありましたら、またご遠慮なくお申し出ください。
 前回までと同様、○経理官 ●兵科将校 ※解説 とする。

節用を心がけよ

○ 主食の米麦は現品交付だが、賄料(まかないりょう)は定額という制度で隊長に委任されている。当隊では1日1名19銭4厘であって、これを肉類、野菜類、調味料、風呂に入るための燃料代や調理手、機関手の給料もこれから払わねばならない。
※解説
 賄料は地域によって規定されていた。この時代は1910(明治43)年の改正によって、第一区から五区への区分によっている。また、1914(大正3)年からの「欧州大戦」によって好景気になって、物価の上昇があったために1918(大正7)年8月には「指定された部隊に限り、戦時中だけは賄料を日額で6銭以内の増額をしてもよい」とされた。他にはシベリア出兵時の1919(大正8)年に2回、翌年には1回の増給がされた。
 それが1922(大正11)年になると、それらの措置が終わり、旧に復した。同時に第五区も廃止になったので、全国は4区に区分されていた。
 第一区とは北海道の第7師団(旭川)であり、日額20銭1厘。
 第二区は第1師団管区、第3師団管区(名古屋)のうち各務原(かかみがはら)、第4師団(大阪)管区、第16師団(京都)の管区内の八日市、第12師団の管区内の大刀洗(たちあらい)で、同前19銭8厘だった。
 第三区は第2師団(仙台)管区、第6師管区のうち大分、第8師団(弘前)管区、第9師団(金沢)管区のうち敦賀(つるが)、第12師団(小倉)管区の久留米、大村、佐賀、佐世保、大刀洗を除く地区。第14師団(宇都宮)管区。第16師団(京都)管区のうちの福知山、津、舞鶴(まいづる)、八日市を除く地域。これらの地は同前19銭5厘。
 第四区は、第3師団管区の中で各務原を除く地域。第5師団(広島)管区。第6師団管区の中の大分を除く地域。第9師団管区のうち敦賀を除く地域。第10師団(姫路)管区。第11師団(善通寺)管区。第12師団管区のうち、久留米、大村、佐賀、佐世保を除いた地域。第16師団(京都)管区のうち福知山・津・舞鶴地区。同前19銭2厘。
 したがって大村を衛戍地(えいじゅち)とする第12師団歩兵第24旅団歩兵第46聯隊は第三区に区分され、本来日額19銭5厘が賄料だった。それを師団経理部長は1厘を削って、大村聯隊には19銭4厘だったらしい。
 なお、後にも詳しく書くが、この時代の金銭価値の判定は難しい。というのは人件費の格差や、階層ごとの生活感覚が現在の社会とまるで異なるので、推測の範囲が大きくなる。わたしはインフレが進んだ大正末期は、当時の1円は平成の感覚ではおよそ3000円と考えている。そうであると、賄料はおよそ600円になる。1銭が現在の30円である。
 ちなみに一般の物価を見ると、あんパンが2銭5厘、つまり75円。キャラメル14粒入りで5銭。国鉄入場券5銭。駅弁が幕の内で20銭。天丼が40銭。そばのもり・かけが10銭。日本酒1升が並で1円20銭と高額だが、ビールは大瓶1本42銭となっている。嗜好品はなかなか高価なのが昔の特徴といえるかもしれない。なお豆腐1丁は5銭、納豆も5銭、鶏卵はやはり高価で100匁(もんめ・375グラム)あたり40銭だった。わたしたちのように卵かけご飯に納豆、味噌汁、漬物などを食べていたら、なかなかの中産階級の暮らしといえる。
○ この賄料をうまく運用して、兵の嗜好と栄養に富んだものを供膳(きょうぜん・食事に出すこと)するのは経理委員がもっとも努力するところだが、他面、各兵も注意しなくてはならない。つまり1厘を節約したら、たくあん漬け約6匁(22.5グラム)を買うことができる。
 また、現在、陸軍の軍隊や軍衙(ぐんが・役所にあたる)の炊事場を総合計すると、約300ヶ所になる。1日3回炊飯するから1日に900回の炊事になる。これを1ヶ年に見積もると32万8500回である。そこで1つの炊事場が1回の炊事にあたって、洗米あるいは配米(はいまい・炊きあがった米を食缶に移して配分する)のために流出するものを1合(150グラム)と仮定すると、1ヶ年には328石5斗の損失になる。
 その量は平時定員の歩兵聯隊に対する約40日分の糧米になる。ましてや1回1合以上の損失があったらとしたら・・・。
※解説
 大正時代というのは、日露戦争の後始末のもたらした不景気と、それと正反対の世界大戦が生んだバブル景気の時期だった。大戦は大正3(1914)年7月28日、セルビアの宣戦布告で始まった。日本は8月23日、日英同盟の信義に従うということから対独宣戦。ドイツ租借地のチンタオ(青島)に出兵、見事な陸海軍の協力のもと、要塞を陥落させた。
 開戦からしばらくの間は、わが国は欧州経済の混乱の深刻な影響を受ける。金融不安から各地で、銀行への取り付け騒ぎがおきた。綿糸と生糸の相場は、年末までに3割ほど下落する。米も石(150キログラム)あたりで、開戦前の17円から13円まで値段が下がった。そこで政府は翌年4月1日には、石当たり14円を出して30万石の買い支えをするほど経済界は混乱した。
 しかし、その年の夏近くから戦時の特需のおかげで景気は上向いた。同じように欧州の混乱から景気が上昇したアメリカからは生糸が求められた。わが国の商品は、欧州産品が回らなくなった中国、インド、東南アジア、オ-ストラリア、南米までも席捲するようになった。
 1916(大正5)年になると、景気はさらに上向いた。6年から8年にかけては、過熱としか言いようがない状況になった。業種別の(大正6年下半期の払込資本金に対する)平均利益率は造船で166%、海運161%、鉱業120%、綿糸紡績98%という破天荒な様相を見せた。機械、車輛、製紙、化学肥料業界もやはり空前の利益を上げて、投資ブームも日本中に広がった。鉄道の駅には近在の農家の主たちが、投資をするために鉄道電話を使いにやってくるようになった。ようやっと増えてきた都市のサラリーマンも投資に燃えた。まさに投資は常識というしかなかった。日露戦争の過剰設備投資による不況は完全に吹き飛ばされた。
 1914(大正3)年の政府の歳入総額は7億3500万円、それが17(大正6)年には10億850万円とある。実に37.2%の増収になった。よく教科書には成金(なりきん・急に金持ちになった人)が料亭の玄関で、暗いからと100円札に火を点ける漫画が載るが、いまあったら50万円札になるだろうか。
 物価も急激に上がった。大正3年からみると同6年には約2.8倍になっていた。ところが庶民の給料がそれほどあがったわけではない。社会全体は好況の裏で、物価のとほうもない上昇に苦しんでいた。
 日露戦後の不況時代、明治43(1910)年から大正8(1919)年までの10年間で、国民総生産(GNP)は名目で4倍、実質で1.5倍になった。この名目と実質の差が通貨価値下落、インフレである。
 ところが、この景気はバブルのように雲散霧消する。この後、さらに1923(大正12)年の大震災が日本を襲い、その復興予算もまた社会を圧迫することとなった。陸軍の軍縮もまた、仕方のないことでもあった。
○ まさに塵(ちり)も積もれば山となるという諺(ことわざ)通りだろう。経理委員が1人1日に2~3厘をうまく節約するように、魚菜の購入、調味品の工夫、燃料の節約、廃棄の利用などを研究するのはさほど難しいことではない。
 ある師団では炊事場で残菜、その他捨てられる漬物を集めて福神漬けを作ったり、あるいは菜っ葉で漬物を作ったりしていたこともあったが、これらは経済上の問題、軍隊の性質上の問題から見たら適否はあるだろう。しかし、注意節約また廃物利用という点からは大いに称賛されるべきことである。
 欧州大戦中にドイツ軍は食料欠乏のために、藁(わら)の茎から化学的方法でケイ素を除き、滋養分が豊かな一種のデンプンを作り、アンモニヤからタンパク質を採取して藁粉と混ぜて蒸しあげた一種のパンを使っていたこともある。
 国家は決して兵員に粗食を強制するわけではないが、各兵は経理委員の工夫努力に協力して、一粒の飯も粗末にしてはならない。たとえば残飯を区別して丁寧に取り扱うとか、休日の昼食が不用ならば、確実にこれを給養掛に届けて、無用の食事を作らないようにするとかは、祝祭日の加給品にただちに影響することだから兵としても注意しなくてはならない。
※解説
 兵卒と下士官の食事は給与の一つだった。食事をする権利があるわけであり、休日の昼食も携行できるようになっていた。ところが、朝食が終わり外出時限になれば、誰もが兵営を飛び出していった(もちろん、衛兵などの勤務者は別として)。帰営時刻は兵卒では夕食時限まで、下士官は消灯時刻までというように「内務書」は規定してある。誰が軍隊の麦飯混じりの弁当など携行していっただろうか。下士官もとくに咎めはしない。
 料理屋や、名勝の茶屋などで外食して羽根を伸ばすのである。多くは給養掛曹長に届けることもなく、すべて残飯になってしまった。炊事場は炊事場で、外出もできない不平たらたらである。投げやりな食事になったであろうことは想像に難しくない。
○ 以上は、炊事当番や炊事掛下士の細心な注意が要る所でもある。
 次に被服について語ろう。軍用の被服中で、羅紗(らしゃ・絨ともいう)で製造されているものは、軍帽、軍衣袴、外套(がいとう・防寒コート)、雨覆(あめおおい・レインコート)、巻脚絆(ゲートル)を主としている。それでこれらの原料は羊毛である。しかもわが国には羊毛の生産がほとんどない。その供給はすべて外国である。いったん、有事になったらどうなるか。
 僕は学校にいた時、ある日、千住製絨所(せんじゅ・せいじゅうしょ:東京にあった唯一の被服廠管下のウール製造工場)を見学したことがある。そこで大いに感じたのは軍用絨の品質である。同所では作業力の余裕をみて、一般社会向けの(原文では地方向け)羅紗も製造しているが、地方向きのものにはかなり高価なものにも、たいてい反毛(たんもう)といって再製毛・・・毛織物の古い破片をほどいたもの・・・を入れているが、軍用絨はすべて新毛を使っている点である。軍服は一見、武骨に見えるけれど、その製造元をよく見た者は自然とこれを鄭重にあつかい、その使用を慎むことになるであろう。
※解説
 千住製絨所とは1888(明治21)年に官営から陸軍に管理運営が移された富国強兵を表したような施設だった。官業主導による民間事業育成をねらっていた。もともとは1876(明治9)年に官営でスタートした工場である。わが国では羅紗の需要がもともと少なかったために、民間産業の成育が遅れたという事情があった。原料の買い付けは陸軍が行なった。主に豪州(オーストラリア)で現地の商社や海外の商社を使って、今でいう「産直」を実行していた。
 次は皮革について語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)4月4日配信)