陸軍経理部(29) ―軍馬の話(15)

?

お便りへのお礼

 HYさま、いつもありがとうございます。剣道をなさっておられるとか、このたびのお便りもありがとうございました。わたしが興味深いのは、木刀を使った型稽古です。竹刀と防具を用いた幕末期の剣術、それ以前の型稽古中心の古流剣術。どちらも時代が要求する形式だったのだと思います。
 それにつけても幕末の剣客集団の新撰組を思いました。彼らも甲冑こそつけませんでしたが、鎖帷子や鉢金(はちがね)、籠手などのような防御具を着けて戦ったといいます。そうして彼らのほとんどは竹刀剣道の目録以上の達者だったそうです。やはり、体さばきや基本的な刀の操作法は大切だということだと思います。
 その基本として竹刀剣道もあると考えております。たしかに維新期や西南戦争などの実戦記録を読むと、道場でのスポーツとは異なりますが、基本としての竹刀剣術がなければ、刀も実戦場で役に立つものではなかったと思います。
 また、団体戦での勝敗のこと。精神的なことへのご高察、さすがと感じ入りました。これからもよろしくお願いいたします。

お尋ねにこたえて

 B大のKさま、日露戦争の全貌をご覧になるには、やはり、大江志乃夫氏の『日露戦争の軍事史的研究』が必須だと思われます。兵站輸送についても、詳しく数字が載っています。また、読みやすいところでは、『戦う鉄道史』と副題がついた熊谷直氏の『軍用鉄道発達物語』(光人社NF文庫)がふさわしいと思われます。

はじめに

 中世史の研究者の間では、中世前期の源平合戦の頃から戦いの様相が変わってきたといわれています。それは馳組み(はせくみ)戦から組打ちや、馬当て、下馬しての格闘戦が増えてきたことから分かります。それはいったい、どこからきたものか。そうして、源平合戦での兵站や陣地はどうなっていたのか。これから数回にわたって書いていきます。

古老、保元の乱を語る

 建久2(1191)年といえば、「天下落居(てんがらっきょ)」といわれた穏やかな時代のある日のことだった。1人の古老が、頼朝の館の中で若い御家人(ごけにん・頼朝の直臣)たちに昔の戦の様子を語った。保元の乱といえば、1156(保元元)年のことだから、35年も昔の話。聴き手の殿輩(とのばら)たちの中には、当時まだ生まれてもいなかった者も多くいた。
 皇位継承に不満をもった崇徳(すとく)上皇(1119~1164年)と左大臣藤原頼長(よりなが・1120~1156年)が手を結んだ。対するは頼長の兄である関白藤原忠通(ただみち・1097~1164年)と後白河天皇(ごしらかわてんのう・1127~1192年・後に法皇として頼朝の武家政権と対抗した)である。
 後白河天皇方は源義朝(みなもとのよしとも・1123~1160年)、平清盛(たいらのきよもり・1118~1181年)らを用い、崇徳上皇方は義朝の父である為義(ためよし・1096~1156年)、清盛の叔父だった忠正(ただまさ・生年不詳~1156年、清盛の父である正盛の子)を擁していた。戦いは1日で天皇方の勝利で終わったが、源義朝は父・為義を殺すことになり、弟の為朝(ためとも)も戦場から落ちのびて行った。
 大庭景能(おおば・かげよし、生年不詳~1210年)は景義とも書かれた。出羽権守(でわのごんのかみ)に任官、家は代々相模大庭御厨(おおばのみくりや)の荘司(しょうじ・伊勢神宮領の管理官)を務めた。相模のもともとの名族であり、大庭御厨の開発者は鎌倉権五郎景正(かまくら・ごんごろう・かげまさ)である。景能はその子孫だった。相模出身の梶原氏もこの一族である。保元の乱には、弟の景親(かげちか)と共に、義朝側についた。白河殿の戦いで源為朝(みなもとのためとも)の矢を受けて負傷する。
※「御厨(みくりや)」というのは、もとは宮廷に食糧としての魚介類を貢進する供御人(くごにん)または贄人(にえびと)の集団だったが、のちに荘園の一種になった。鎌倉権五郎は12世紀の初めころ、国司相模守の許可を得て、いまの相模川沿い(高座郡)に広大な開発地をもった。また、権五郎は後三年の役(1083~87年)に源義家(みなもとのよしいえ)に従って戦った。そのときに、右目を射られ、それを抜こうとした朋輩が顔に足をかけようとしたところ、その恥辱に耐えられないと拒んだという逸話で有名である。人気の鎌倉観光でも、権五郎神社が注目されている。
 源為朝(1139~1177年・没年は諸説ある)は、為義の8男で義朝の弟である。母は摂津国江口(大阪市)の遊女とされ、幼いころから勇猛さをうたわれた。とくに弓射の技能の腕前は有名だった。13歳のとき、父、為義の機嫌を損じて、鎮西(ちんぜい・九州)に追放され、「鎮西八郎」と名乗った。豊後国(ぶんごのくに・大分県の大部分)に本拠をおき、土地の豪族である阿蘇忠景(あそ・ただかげ)の聟(むこ)となり、九州の各地に勢力を伸ばしていった。
『保元物語(ほうげんものがたり)』によれば、天皇側の内裏高松殿(だいりたかまつどの)に夜襲をかけることを進言する。しかし、「これは公戦であり、田舎の武士同士の私戦とは違う。正々堂々と明るいときに攻撃せよ」と、左大臣頼長に拒否されてしまう。おかげで、相手側から夜襲を受ける羽目になり、崇徳上皇方は敗北してしまった。

景能は語る

『吾妻鏡(あづまかがみ・鎌倉政権の公的史書)』の記述を意訳して、現代語に近くして読んでみよう。
「勇敢な武士が用意すべきは武具である。なかでも注意すべきは弓箭(きゅうせん・弓矢)の長さを少しでも短くすることだ。鎮西八郎(為朝)殿は、無双の、並ぶものとていない弓矢の達者である。けれども弓箭の長さを考えると、どうも分に過ぎて長過ぎたのではないだろうか。
 そのわけはと言えば、大炊御門(おおいみかど)の河原で、自分は為朝の弓手(ゆんで・左側)にいる位置に立ってしまっていた。為朝は弓を引こうとしたが、そのとき、自分はとっさのうちに考えた。為朝は九州から出陣されてきた人である。お若いころから弓射そのものはともかく、馬上での弓射は苦手ではないか(九州はそれほど馬術が進んでいなかった)。自分は東国育ちで、馬術の方では上ではないか。そこで為朝の妻手(めて・右方)に馬を馳せて回ろうとして、(相手の)弓の下をくぐろうとしたとき、本来なら身体にあたるべき矢がそれて、膝にあたってしまった。
 このことを知らなかったなら、たちまち命を失うことになるだろう。勇士はただひたすら馬術を訓練すべきだ。みんな耳の底にとどめておいてくれ」
 千葉常胤(ちば・つねたね、1118~1201年)以下の御家人たちはみなそれを感心して聞いた。頼朝もこれを聞いて、たいへん喜んだ。

弓の性能

 当時の弓の有効射程(直進し大鎧を射通すことのできる距離)はおよそ7~8間(約13メートルくらいか)である。それは多くの「軍紀物」の戦闘シーンを検討することで得られた数字だった。われわれにとって意外なことには、かなりの至近距離で戦っていることがわかった。しかも、内兜(うちかぶと)といわれる顔面に矢を当てられたり、喉を矢に貫通されていたりする戦死者がきわめて多い。
 いまも五月人形の飾りで売られている大鎧(おおよろい)は、遺品を正確に模しているものであり、腰から下を守る草摺(くさずり)と同じで4つに分かれている。両肩を護る袖(そで)も構造は鎧と同じで、なめし革を突き固めた札(さね)を板状に連結し、縅(おどし)の革ひもや糸でつづられた。構造は馬上での弓射に便利なように造られ、強力な楯(たて)を身にまとう狙いがあった。
 為朝の持っていた弓はどのくらいの長さだったのか。やはり『保元物語』の記述によれば、8尺5寸(約258センチ)という長大なものだった。標準の7尺5寸よりも1尺(同30センチ)も長く、「節巻(ふしまき)の弓」とあるので、丸木弓(まるきゆみ)だったとも想像できる。丸木弓とは合せ弓(あわせゆみ・平安後期から造られはじめた)に発達する前の、自然木から造られて補強用に籐(とう)などで巻き締めたものをいう。
 この自然木から削りだされた丸木弓は弾力性が上下で異なった。木の根元側は固く、こずえ(木末・先端)にいくほど柔らかく、しなるようになる。根元側を下にし、柔らかいこずえ方向を上にした。だから、わが国の弓は、西洋の弓のように中心に矢をつがえることができない。半分より、かなり下のほうに矢をつがえる構造になっている。
 また、強く引き絞ると折れてしまうことも多かった。これが改良されたのが、この時代に始まった合せ弓である。弓の外側(背という)に苦竹(まだけ)を貼り付けた。これが剥がれないようにやはり籐(とう)で巻き締め、漆(うるし)を何度も塗って強化する。こうした技術革新によって従来の丸木弓より短い弓ができるようになった。それでも7尺から7尺3寸といったものだったが。
 現代の弓道の上級者が射る矢の初速は毎秒60メートルだという。時速に直せば約220キロメートルにもなる。また、スローモーションで撮影すると、矢は横から見ると上下に振動しながら(しなり、そり、もどる)飛ぶが、それが一応の終息を見せるのが7~8間の場所である。つまり矢も余計な運動をせずに、まっすぐ形の通りに飛ぶ、言い換えればもっとも貫徹力があるのがその距離といえる。敵との距離が15メートルなら、0.25秒で敵を射倒すことができた。

景能はどうして膝に矢を受けたのか。

 ここで為朝と景能の位置関係を見よう。射られたのがどちらの膝、右か左かが問題になる。ふつうに考えれば、為朝の左手、つまり攻撃可能範囲に景能はいた。景能にとっては自分の左側の真横、あるいは為朝の右前方、とりもなおさず自分は左斜め前方に馬を駆けさせたと考えられる。どちらであれ、為朝の前方を横切る動きであり、為朝は弓を大きく動かして、自分の長大な弓を馬首をこえて構え直さねばならない。そして、その右前方への射撃姿勢は、弓の引き絞りをひどく不十分にさせてしまう。だから為朝は自慢の強弓を引き絞り、動く景能を急いで射たということになる。身体を狙った矢が下に向き、し損じて膝を射ることになった。この動きにともなって、同じように景能もまた、自分の右手に為朝を見ることになった。景能も反撃ができないことになる。この場合には射られた膝は右膝ということにもなるだろう。
 ところが『吾妻鏡』の中に、景能の鐙(あぶみ)のことが書かれている。「弓手(ゆんで・左)の鐙は少し短し、保元の合戦の時、射らるるなり」という1195年の記述である。そうであると、景能の馬の駆けさせ方の決断と技術の素晴らしさが裏付けられる。頼朝はじめ鎌倉御家人たちから大きな称賛の声が上がったのも、その勇気と技量が評価されたに違いない。
 為朝の妻手(めて)に移動したということは、一気に距離をつめ、為朝の馬の後ろを迂回することになるだろう。景能が狙われていることに気がついてから、恐怖のあまり茫然自失することなく、とっさの判断で為朝の左横をすりぬけたのである。為朝の矢は左真横に放たれて、左膝に当たったのではないだろうか。とすれば、射られたあとも屈せずに、今度は進行方向を同じとして、次は攻撃の番である。
 ただ、景能は為朝への攻撃を語ってはいない。研究者の中では異説もあって、右膝を射られたとの主張もある。左の鐙が短いというのも、必ずしも重要な証拠にはならないというのだ。わたしたちは、せいぜい、この時代の武者たちの勇気を思い浮かべるしかない。殴りつける太刀による戦闘より、秒速60メートルの矢の方が脅威は大きく、致死にいたることも多かったに違いない。

当時の武者について

 わたしも弓射や騎乗も経験し、馬上での重心とりなどもわずかに経験したことがある。以前、読者からのご指摘もあったように、馬上では太刀は片手もちが普通である。弓は前方、あるいは前下方を狙うものだった。その場合は馬の口取りに左右でコントロールさせることが必要である。「馳組み」といわれる弓射による騎馬戦闘なら、手綱(たづな)を離し、鐙(あぶみ)で身体を支え、中腰になって立ち上がる形になる。こうしたことは馬を自由にあやつる技量をもち、その訓練を続けることが必要である。そんなことが出来るのは、豊かな軍事貴族であり、武家の名門の人間でなければできるものではない。
 当時の戦いを箇条書きでまとめておこう。
(1)大鎧という防具は、馬上で弓射する「馳組(はせく)み」戦を想定したものである。身を守る強力な楯をまとうようなものだった。騎射、馬上の弓射に適応するように構成もされていた。
(2)互いに馬を動かし合う射撃戦では、敵を弓手(左)に置くことが大切であり、逆に相手の妻手(めて)側にいることが安全度を高める。したがって、馬を自在に操り、位置を常に意識して機動ができなくてはならない。
(3)有効射程が7~8間ということは、敵を射るにはこの距離まで急接近し、相手に対抗手段を取らせる前に、敵を射ることが必要である。逆に、相手から狙われそうになったら、素早く、有効射程から遠ざかることが出来なくてはならない。
(4)当時の軍馬は体高およそ140センチメートルだった。騎手とその装具、馬具を載せて行動するには、体力の配分が必要だった。いまも競馬の騎手の鞭さばきでレースの勝敗が決まっている。どこで全力疾走させるか、いつ休ませて体力を回復させるかが優れた戦士の技能でもあった。
(5)優れた馬を手に入れることが何よりも重要だった。義経が頼朝の挙兵の後に、奥州から参戦した時、郎等・家人たちの衣装の貧弱さは周囲の失笑を買ったらしい。それもそのはず、義経をはじめとして荘園ももたない人たちだったからだ。例外は奥州藤原氏から付けられた佐藤兄弟だけだったらしい。2人は堂々たる荘園の管理者で、所有者だったからだ。ただ、誰もが姿よく、素晴らしい奥州馬に乗り、乗り替えの馬も駿馬だったという。
 それでは次回は、いよいよ戦闘の変化、源平合戦で起きたことを調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)7月25日配信)