陸軍経理部(15) ―軍馬の話(1)―

はじめに

 先日の日報問題への愚見について、W様から温かいご声援をいただきました。ありがとうございます。「日報」は重要な戦闘についての詳細が書かれている。知る権利を主張して、すべてを公開しろと要求するのは、自衛官を危険にさらし、さらには国家の安全について損害を与えるというのがわたしの主張です。多くの国民は、そのことを理解せずに野党やマスコミに踊らされているのではないか。そうわたしは考えています。
 このことについては、若いころからよく知る、元陸上自衛官中谷代議士が、先週きちんと国会の場で同趣旨のことを発言されていました。彼は山梨県から出馬し、僅差で野党系候補に敗れ、比例復活した議員ですが、さすが筋を通した言動に感心させていただきました。
 ネットによる情報の交換ですが、先日、ある興味深いやりとりがわたしの周囲に起こりました。わたしの友人の一人が、小学校の国語教科書に「三年とうげ」という韓国の民話が載っていると指摘し、同じように韓国の教科書に日本の民話が載っているかと疑問を提出しました。もちろん、根拠のないデマではなく事実です。
 それはやはり調べるべきだ。教科書会社の執筆者や、それを選んだ人間、さらには文科省にいる教科調査官らの実態を調べるべきだとわたしは思いました。すると、一般の方からは、「なんでもそうした陰謀論は受け入れられない」という冷めた反応だらけでした。わたしはすぐに「ああ、日本人はどれほど善良なのだろうか」とため息が出る思いを抱きました。
 わたしも歴史学における「陰謀論」は決してすべてを認める立場にはありません。けれども、外国勢力の陰謀や諜報活動は当然、平時も有事も問わず行なわれているのは確かです。もちろん、わが国の国語学界には「親朝鮮・親韓国思想」をもっている方がおります。公然とそれを隠さない方々や、一部政治家もおります。もちろん文科省官僚の中にもおられましょう。そうして、それらの方々に迎合してしまう「善意の日本人」も多くおられます。まさにそれこそが「工作=陰謀」ではないでしょうか。

軍馬の話(1)

 さて、陸軍経理部。あまりに膨大な権限と業務範囲をもっていたことに驚かされる。これについてアメリカの影響を受けて生まれた陸上自衛隊組織との比較を、陸軍経理官から復員されて、陸上自衛官になられた方の証言がある。以下、そのままに引用する。
「ペイマスターの業務のすべて、クォーターマスター業務の中の輸送を除いたもの、エンジニアのうちの一般建築、それからコントローラーの業務、これらを兼ねておったのであります。
 若干の疑義がないわけではありませんが、大観して以上のように理解していいと考えます。
 こうした業務を、通常金銭、被服、糧秣、建築、需品と区分されて呼ばれておりますが、これに共通する機能は金銭業務でありまして、予算、出納、決算、報告という業務を基盤として、その上に多様な業務が実施されてきたと、こういうように理解できると思います」
 ペイマスターとは「主計長」とも訳すことができる。現在の陸自の会計科職種にあたる。陸自の会計科は部隊として方面会計隊(他職種の連隊にあたる)があり、駐屯地ごとに派遣されている中隊レベルの部隊がある。仕事は隊員の給与や手当て、物品購入の契約や出納をあつかっている。
 クォーターマスターとは、陸自では「需品科」という。被服、糧食、燃料などの研究開発や、需品科部隊としては補給大隊などがある。被災地でも活躍する浄水機や、洗濯支援システム、有名な仮設風呂などはその担任範囲である。
 輸送には陸自では輸送科という専門職種がある。以前は方面隊ごとに輸送隊(連隊レベル)があり、師団・旅団には後方支援連隊(旅団は隊)に輸送大隊(同前)があった。この3月末から横浜にある中央輸送業務隊が中央輸送隊に改編されて、全国の方面輸送隊を直轄することになった。国外への派遣に際しての通関業務も輸送科が担任している。
 エンジニアは工兵科。兵舎や射撃場、野外の廠舎などの一般建築は経理部が行なった。いかに広範な守備範囲だったかがわかる。
 輸送については主に輜重兵科が担任したが、それを支えるときには経理部の出番があった。今回から手元の「野戦経理隊幹部必携」などの図書から軍馬に関する記述を紹介しよう。

戦時糧秣定量表

 手元に、大東亜戦時中のある経理部見習士官の教科書がある。陸軍経理学校の発行になるそれには貴重な数字や規定が豊富に載っている。
○野戦馬糧の項目


燕麦(えんばく)・大豆

乗馬及び行李輜重の外の輓馬・駄馬 5250グラム
行李輜重輓馬・駄馬 4200グラム

圧搾馬糧

同上 5300グラム
同上 4240グラム

秣(まぐさ)類

干草

4000グラム

藁(わら)

  3500グラム

食塩

 

40グラム


 これらを合計すれば、乗馬と行李や輜重の他の輓馬・駄馬の場合は糧秣の合計14キロ550グラムに塩が40グラムである。もちろん、さらに記述は細かい。これらが入手できなかったら、「換給(かんきゅう)定量」という欄があり、基本品種たとえば燕麦1000グラムに対して高粱(こうりゃん)なら1000グラム、ただし限度規定があり、全量に対してはその3分の2以内とある。同じように豆粕(まめかす)、玉蜀黍(とうもろこし)、玄米、裸麦(はだかむぎ)、小麦、大豆、粟(あわ)、ライ麦、籾実、馬鈴薯、麦皮、米糠などがあげてあり、その限度も示されている。
 干草がない場合は生草、牧草、青刈燕麦(あおかりえんばく:未熟な燕麦)、青刈大豆やサツマイモの葉など、それに稈(かん・稲以外の茎による「わら」のこと)類で代用もしたらしい。
 乗馬、駄馬、輓馬(ばんば)、それに行李や輜重(こうりやしちょう)について説明しておこう。乗馬とは乗用に適する馬で、指揮官や乗馬本分(佐官以上、機関銃・歩兵砲中隊長、獣医将校など)の者が乗る。駄馬は背中に駄鞍(だあん)をつけて荷物を運ぶ。たとえば重機関銃の弾薬馬は540発入りの木箱を4つ載せた。輓馬は輓曳具(ばんえいぐ)をつけて、砲車や弾薬車、あるいは輜重車などを牽引する。行李輜重とは歩兵隊などでは大行李(陣営具や炊爨具など)や小行李(弾薬など)の部隊をいう。輜重は輜重兵聯隊に属する輓馬や駄馬をいう。
 乗馬は格別であり、駄馬や輓馬には戦闘部隊と輸送部隊の格差があったことが分かる。行李や輜重の輓・駄馬はそれ以外の、砲を引いたり、架橋材料を運んだり、分解した山砲を背に載せて運んだりする役目のそれらに比べて、負担は軽いとされていた。
 また、輸送中の軍馬への給養規定もあった。
『鉄道又ハ船舶輸送中ノ馬糧』という数字がある。燕麦・大豆は2630グラム、圧搾馬糧なら2650グラムの『内一種』(どちらかということ)、それに切藁(きりわら)800グラム、干草6000グラムと40グラムの食塩である。1日の合計は塩を除いて9430~9450グラムとなる。圧搾馬糧については後に述べる。
 備考の欄には、『藁及び食塩は、その地の最高司令官において、季節及び馬格の関係により、本表定量の5割以内を増加することを得(う・できる)』と書いてある。

水の定量

 水についても詳細な規定がある。前述の備考にも、『特別の状況により、飲料水を調弁し、または特に補給を要するときは、一馬一日20立(リットル)ないし30立(同前)を標準とする』と書かれている。
 また『作戦給養作業ノ参考(乙)」には「一般ノ場合ノ給水量基準」とあり、ここにも興味深い記述がある。
「人」については「特に給水を要するとき」4リットル、幕営では炊事・飲用・洗面用に11リットル、駐留するときには炊事・湯茶に25リットル、洗濯用および雑用に15リットル、入浴用に20リットルと規定されていた。すべて1日あたり。
「馬」については、「特に給水を要するとき」20リットル、幕営では飲用に22リットル、雑用に12リットルの合計34リットルになる。しかも注意書きがあり、馬匹には12リットルずつ1日2回、馬匹1頭の飲水時間は約5分、幕営の場合は中隊ごとに適量の井泉1個を配当するを要すともある。また、駐留では飲用に44リットル、雑用に12リットルで合計56リットル。この場合、一回11リットルで1日4回の支給である。
 馬というのはいかに水を必要とするか。それには理由がある。もともと野生の馬は草原地帯にいて水分豊富な柔らかい草を食べて生きてきた。それをとらえて飼育し、調教し役立ててきた歴史がある。人が飼育すれば、与える餌は乾燥された濃厚飼料である。だからこそ馬は多量に水を必要とする。水が足りないと馬は「疝痛(せんつう)」という便秘症状を呈して、すぐに死んでしまうのだそうだ。

圧搾馬糧について

 戦場の機動力の多くを「馬匹」に頼っていた第2次大戦以前の各国陸軍は当然、その調達や育成、健康管理、調教、健康管理に気を配っていた。よく日本陸軍を技術軽視といい、装備の後進性をむやみに批判するが、そういうときに参戦各国との冷静な比較をしていたかどうか。実は、ほとんどの論者が、戦後の手記や記録に頼って、歪んだ日本陸軍像をつくってきたのである。
 その理由は、手記を発表したり、批判的な言論を展開できたりしたのは、主に都会に住んでいた高等教育を受けていた人だったことがあるだろう。その数は同世代人口の中ではわずか4%前後でしかなかった。
 戦前社会は地方と都市部、あるいは地域内でも今からは想像もできないほどの生活格差が存在した。ほぼ毎日、白米を食べ、肉や魚を自由に食べていたインテリにとっては、軍隊生活はまさに劣悪な環境と受け止めただろう。しかし、大多数が農山漁村の貧しい階層から出て一般兵にとっては、「平等かつ贅沢」な生活の場であったといえる。それは馬にとっても同じだっただろう。軍馬は選ばれ、大切にされ、豊かな馬糧を与えられていた。
 糧秣(りょうまつ)については経理部の所掌であり、陸軍糧秣廠がその大本である。糧秣廠には各所に支廠があり、そこから出張所も置かれていた。大東亜戦争(1941年から45年)期には本廠は東京都深川にあり、糧秣支廠は大阪、宇品(広島市)、札幌に開かれた。深川の本廠では、圧搾口糧、圧搾馬糧、粉味噌、粉醤油を製造し、大阪では乾パン、宇品では牛肉缶詰、札幌では主に馬糧の燕麦を調達し、全国的に補給していた。
 東京の糧秣本廠の扱い品目の1つに圧搾馬糧がある。ところが、この実態が分からない。これから詳細な調査を行なうつもりだが、現在のところ、千葉県流山市の教育委員会の報告によるしかないのが実際である。
 千葉県流山市には糧秣出張所がおかれた。ここは水運と鉄道の便のよさで選ばれた。圧搾馬糧の原材料を周辺で買い付け、舟運で集める。製品は鉄道で深川へ運ぼうというわけだ。購入された原料は、干草・藁・大麦・牧草だった。このうち牧草は多くが北海道で買い付けられた。
 干草に藁や牧草を調合する。重さは40キログラムを計測すると、これを圧搾機にかけて縦横1メートル、高さ60センチの立方体に成型した。梱包用に針金もつけられた。検品は厳しく、重さが足りないものはもう一度ほぐして成型をやり直した。完成品は構内のトロッコによって倉庫に運ばれた。船舶に積み込むには、架空輸送機(かくうゆそうき)というスキー場のリフトのような運搬機が使われた。
 しかし、この40キログラムの圧搾馬糧も、現地に届けば日量5.3キロ支給の輓馬7頭ちょっとが1日で食べ尽くしてしまう。ちなみに戦列野戦師団が保有する軍馬は、約8200頭にのぼり、行李輜重の馬が全体の15%としても、平均して1頭あたり5キロとすれば、5×8200=41000キログラム。41トンである。圧搾馬糧がおよそ1000個あまりが1日に消費された。
 次回からは軍馬の歴史について語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)4月18日配信)