陸軍経理部(16) ―軍馬の話(2)―

ご挨拶

 関東地方ではすっかり桜も散り、まるで夏のような日差し、気温が続いています。八百屋さんやスーパーの青果売り場をのぞくと、レタスや大根などがたいへん安くなりました。例年よりずっと気温が高い3月末から4月の初めとなったせいだそうです。葉物の成育が順調過ぎて、大きくなり過ぎ、出荷できないものが増えたとのこと。レタスなど最高値をつけたときの4分の1だとか。天候に左右される農家の方々は大変ですね。
 政治の方は依然としてモリカケ、日報、つづいて財務次官のセクハラ、自衛官の議員への暴言問題が騒がれています。野党の方々の仕事はなんなのでしょう。「国民が許さない」「国民が納得しませんよ」などの言い放題の言動。これ不思議ですね。国民とはおっしゃるけれど、制度が正しく運営された結果である国政選挙で与党を選んだ方々が大多数いるわけです。
 さらに呆れたのは、自衛官に「国民の敵」と暴言を吐かれた某議員。防衛大臣が言われたように、「自衛官も国民の一人」です。心の中まで支配はできません。某議員が言うには、統合幕僚長と防衛大臣が辞任しないと、いずれ自衛隊がクーデターを起こすそうです。こんな誇大妄想の持ち主が議員バッジつけていていいのでしょうか。(笑)
 それらに対して、この連載では、とても現代に役立ちそうもない昔話ばかりです。
 今回からは、日本陸軍の兵士にとって「物いはぬ戦友」と大事にされた軍馬の物語をしばらく続けます。

お詫びと訂正

 前回の経理部の全体像についての解説の中で、「エンジニア」を技術部と訳してしまいましたが、「工兵科」の誤りでした。要塞などの建築物は工兵の所管、それ以外の兵舎や設備などを経理部が扱ったのでした。
 予備自衛官である友人のT氏からのご指摘です。ここにお詫びし、訂正します。

ある日、召集令状が届いた

福井県大飯郡(おおいぐん)本郷村岡田第九号二十三番地
    第二国民兵役   安田万吉
右充員(補充)ノ為中部第四十三部隊ヘ召集ヲ命ゼラル
昭和十九年五月五日午前九時マデニ京都市伏見区深草墨染(ふかくさ・すみぞめ)町ニ到着シ此令状ヲ持ツテ当該(とうがい)部隊(集合所)召集事務所ニ届出ヅベシ
                   福井聯隊区司令部

 名前だけがペンによって書かれ、枠の外に円で囲まれた馬というゴム印がおされていた。令状を届けにきた役場の兵事掛(へいじかかり)は、中部第四十三部隊とは「輜重隊」であって、馬の印は「輓馬(ばんば)隊」ではないかと言って帰った。のちに高名な作家、水上勉になる安田万吉(仮名)の26歳のときだった。
 事実はこの通りである。「兵隊は一銭五厘の葉書で集められた」というような言動が過去にもされ、いまもそう信じているような方もいる。しかし、その実態は聯隊区司令部(各都道府県に置かれた召集・動員・徴兵検査・兵籍管理のための官衙)で作られ、市では市役所に、町村では警察署に保管された召集令状を役場の吏員が届けた。
 このとき安田は大飯郡内の小学校の分教場で助教を務めていた。旧制の私立中学校を卒業していた彼は、正規訓導(くんどう・小学校教諭)の資格はなかったが、人手不足で臨時任用をされていたのだ。
 徴兵検査では肺結核と診断され、「丙種合格」、第二国民兵役に編入という処置を受けた。それは平時ならまずほとんど軍隊や召集とは関係がない立場だった。このような戦争末期には、「ニコク(第二国民兵役)の弱兵」が召集されることもあったのだ。なお、通常の兵役経験者は予備役から離れると第一国民兵役に服した。まったく軍隊で被教育経験のない人がニコクである。
 秘匿名の中部第四十三(ヨンサン)部隊は、京都に司令部をおく第16師団の輜重兵第16聯隊である。作家はこれを輜重兵第53聯隊とし、「墨染(すみぞめ)輜重隊」といったと書いている。小説で発表する以上、部隊の固有名を意図的に変えたのだろう。なお、本来の秘匿名は中部第百四十三部隊である。
 安田の父は日露戦後の明治39年、金沢輜重隊(第9師団)に現役で入った輸卒(ゆそつ)」だった。「輜重輸卒が兵隊ならば、ちょうちょう・とんぼも鳥のうち」と悪口された召集の輸卒ではない。体つきは大工(だいく)らしく頑健でも、身長が甲種には足りなかったのだろう。父はいう。
『輸卒には駄馬と輓馬(ばんば)があるねや。駄馬は馬の背中に荷物をつけて運ぶのやし、輓馬はけつに車をくくってひっぱる。輜重兵は剣もつれるし馬にも乗れるけど、輸卒は馬に乗れん。クツワをとって五里も十里もてくてく歩かんならん』
 入隊した輜重隊(留守師団の補充隊と思われる)は3個中隊編成で、1、2中隊は輓馬、3中隊は自動車隊だった。作家によればこの時の召集兵は300名ほど。出頭した彼は少尉の命令で第2中隊第1小隊に編入され、第11分隊に配属される。分隊長は輜重兵軍曹だった。2人の輜重兵上等兵が教育掛助手と紹介された。長剣をさげ、乗馬長靴を履いた予備と現役の2人だった。
 教育されたのは『輓馬及び駄馬の馭術(ぎょじゅつ)其他規程の動作の習熟』である。教科書は「輜重兵操典(そうてん)」と「馬事提要(ばじていよう)だった。どちらも司令部から知らされ、入営前に本屋で買ってきたものである。2日間はひたすら、この2冊によって教育を受けた。
 初めて馬に接したのは入営第3日目である。馬糧庫の前にある厩(うまや)に引率されていった。屋根はトタンぶきだったが、中央の土間はみなコンクリートの清潔なたたきで、両側に何本もの柱が立っている。馬房(ばぼう・馬が1頭ずつ入る小部屋)の境である。馬はみな尻を見せていた。この第1厩(だいいちうまや)には120頭の馬がいた。この世話の苦労が語られる。
 5月14日、梅小路駅(うめこうじ・下京区にあった貨物駅、七条大宮の電車通りにあった)に新馬を受け取りに行った。軍馬補充部から回されてきた未調教の馬ばかりだった。この馬たちは「育成馬(いくせいば)」である。駅には獣医将校2名と下士官が3名もいた。伝染病をもっとも恐れた陸軍は、輸送途中にも注意を怠らなかった。作家の班が受領したのは10頭の秋田馬である。
 補充馬の育成はたいていが農家の兼業だった。大事に、のんびり愛情たっぷりに育てられてきた若駒である。それが狭苦しい貨車に押し込まれ、長い旅をしてきた。心身に変調があって当たり前である。馴化(じゅんか)の訓練は15日から始まった。(『兵卒の?(たてがみ)』水上勉、角川文庫、1981年による)

古代からの軍馬

 原始の古墳時代、4世紀の頃からの埴輪(はにわ)にも馬が見られる。しかし、いったいどのように馬が使われていたのかはよく分かっていない。ただし、7世紀にもなれば国家の軍隊としての体裁が整ってきていて、律令制でも武力の重要な要素になる馬の飼育や武器の生産や管理も官司(かんのつかさ・官庁)が行なうようになった。聖徳太子も自らが騎馬に乗り、馬上から弓を射たことが書かれている。
 令制で馬の飼育を管理したのは左右の馬寮(めりょう)である。そこには馬部(うまべ)60人と飼丁(しちょう)とがいた。馬部は役所に交代で勤務する官人(かんじん・伴部・ともべ)であり、飼丁は伴部を助けて馬の飼育にあたる部(べ・雑戸・ざっこ)だった。このトモがベを率いて奉仕するのは律令制(8世紀初め)以前からの仕組みである。
 馬寮の飼丁を義務として出す戸を「飼戸(しこ)」というが、10世紀初めの「延喜式」ではその戸の所在地がある。左馬寮(さのめりょう)には山城(京都府)6、大和(奈良県)40、河内(かわち・大阪府)108、美濃(岐阜県)3、尾張(愛知県)9の合計166戸である。右馬寮(うのめりょう)には右京(京都の朱雀大路を中心に右側)3、山城5、大和49、河内51、摂津(兵庫県)16、美濃3の合計127戸である。
 多いのは大和と河内であり、もともと帰化人(大陸からの移住者)が多かった国だった。乗馬の風習と騎馬戦闘が伝わるのは古墳時代中期のことであり、その頃には馬の専門家が多く、この2カ国にいたのだろう。軍事に関わる歴史には冷淡、あるいは無視に近い態度をとってきた戦後の歴史学で学んだ私たちは教科書によって「品部(しなべ)・雑戸(ざつこ)」があって朝廷に奉仕したとは習った。しかし、それは衣服に関係した「服部(ふくべ)」などの非軍事的な匂いのする人々のことばかりであり、鍛部(かぬち・刀剣や槍の製造)や甲作(こうさく・よろいづくり)、弓削(ゆげ・弓の製作)、矢作(やはぎ・矢の製作)、鞆張(ともはり・弓弦の反動から手を保護する道具)、羽結(はねゆい・矢羽を作る)などの雑戸の存在を教えられたことは少ない。
 大きな変革は「大唐帝国」との争いをきっかけに起こった。次回は645(大化元)年の改新から始まる古代天皇の率いた軍隊のことから記していこう。そして限られた資料と先人の研究を紹介していく。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)4月25日配信)