陸軍経理部(17) ―軍馬の話(3)―
ご挨拶
9日間の連休の方もいらっしゃるとか。わたしはカレンダー通りの勤めがあります。いかがお過ごしでしょうか。幸い関東では穏やかな晴天が続いています。
さて、またまた自衛隊に対しての嫌がらせがありました。某党のK議員です。「国民の敵」と3等空佐に罵られたとか。互いに言ったことが、それぞれの記憶とは異なるようで真相は闇の中ですが、どうもこの議員の言うことは「クーデターが起こる」とか穏やかではありません。元からこの議員の方は、戦争になったら亡命するとかいろいろと、多少誇大妄想(あるいは虚言)の癖があるようです。
それにしても、「君たち自衛官が死なないように努力している」とか「君にも家族がいるだろう、防衛省には通報しない」とか、その場で和解をしたといいます。ところが、翌日には国会で事件について公開するという支離滅裂というか、ウソツキというか。そういう人格ですから、何をおっしゃっても仕方がありません。問題は、ああいう人でも議員になれるということだと思います。
モリカケ問題も、これを機会に「獣医師行政」を考えるとか、「私学の許認可」のシステムを話し合うとか、日報問題も「自衛隊の海外派遣の枠組み」の見直しを考えるなどの本質に迫る議論が欲しいです。
高句麗軍に大敗する
「軍隊は自らの失敗からしか学ばない」といわれる。実際、日露戦争では強固な要塞、頑強に抵抗する敵には銃剣突撃しかなかった。敵の白兵突撃を防ぐには機関銃だと真剣に学んだのは日本陸軍だった。それに対して観戦武官を派遣して、その現実を学んだはずの欧州陸軍は、世界大戦では機関銃の前に無謀な突撃をくり返した。日本陸軍は反省を生かして、チンタオ要塞攻略では重砲、野砲の射撃、航空偵察、十分な海軍の艦砲射撃の掩護を受けて見事に要塞を落とすことになった。
4世紀末、わが「日本の軍隊」は外地で初めて大敗をきっした。騎乗の敵兵が現われたのは、有名な高句麗の「広開土王(好太王)」で知られる時代だろう。その遺蹟を語る「石碑」によれば、辛卯の年(西暦391年)には倭(わ・ニンベンに小さいという蔑称である)が海を渡って侵攻してきたという。百残(百済・くだら)や新羅(しらぎ)を従えて、かなりの倭の大軍が激しく高句麗軍と何度も戦いを交えたらしい。(後世の日本側による碑文の改竄(かいざん)も主張されるが)最後の戦いでは、大量の日本兵の死体が山をなし、血は川になって流れたという。屍山血河(しざんけつが)と書かれた通りの敗戦だった。
戦いの背景
3世紀には卑弥呼(ひみこ)の上書を受け取った「魏(ぎ)」が滅び(265年、晋の武帝に禅譲)、朝鮮への中国の圧力が低下した。一種の真空状態が朝鮮に生まれて、新たに建国した新羅と百済をはさんで、北方の高句麗と南方の倭が対立するといった構図である。弥生時代からすでに朝鮮南方の加羅(から)と、わが九州の北部には十分な交流があった。人的にも文化的にも私たちの先人が朝鮮と密な関係があったことは明らかである。
そうしてわが国では3世紀後半には奈良盆地に基盤を置いた政権が生まれていた。その証拠は明らかに巨大な古墳が、その時代に多く造られているからである。この大和政権が北九州をも支配下におさめ、朝鮮への動員・出兵を行なったことは明らかだった。
『日本書紀』には朝鮮系の資料が多く引用されている。その「百済記(ひゃくさいき)」には、壬午の年(382年)に新羅討伐のために派遣された日本の将軍の名が挙げられている。「沙至比跪(サチヒク)」という名で登場する人物は、記紀(古事記・日本書紀)」にも書かれた葛城(かづらぎの)襲津彦(そつひこ)にあたる。現在の奈良県南西部、葛城(かつらぎ)地方の豪族である。
強力な大和政権の武力
大和政権軍隊の戦闘技術、装備はこの朝鮮での大敗で多くの教訓を受け取った。それは考古学の研究によって明らかである。畿内の古墳の副葬品の中に占める武器の割合が増した。数百本の鉄製刀剣が発掘されている。矢の先に装着する尖根細身(とがりねほそみ)の鉄鏃(てつぞく・矢尻)は、実物と同じように再現してみると、100メートル先の人馬を殺傷する能力をもっている。朝鮮系の環頭太刀(かんとうたち)や北方アジアに起源をおく眉庇付冑(まびさしつきかぶと)など朝鮮半島との深い関係を示す物も多い。
5世紀の戦闘は、それまでとは一線を画した様相だったことだろう。『楯列(たたなみ)山』や『楯並(たてな)めて』という記録からは、大型の楯が軍陣では使われていたことをしのばせる。出土品からみれば、高さ150センチ、幅60センチにもなる楯はびっしりと並べられていたのだろう。その合い間から鋭い矢が放たれ、つづいて砂塵を巻き上げて甲冑に身を固めた騎士が突進してくる。馬は陣地をふみにじり、騎士はもろてで振りかぶった大刀を渾身の勢いで振り下ろす。そうした戦いが各地で見られたことだろう。
教科書や資料集にも書かれる『宋書倭国伝』中の倭王武(雄略天皇か?)の宋の皇帝への上表文には次のように書かれている。
「昔からわが祖先は自ら甲冑(かっちゅう・よろいかぶと)を身につけ、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう・各地を歩くこと)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとまあ)らず(一か所に安定したことがない)。東は毛人(もうじん・現在の関東地方の民)を征すること55カ国、西は衆夷(しゅうい・異文化人)を服すること66カ国、渡りて海北(かいほく・朝鮮半島ではないか)を平ぐること95カ国」
とあるのも、服従を誓わない人々を武力で鎮圧してきた実績を誇ったものだろう。その背景には進んだ兵器と、戦術行動の革新性がうかがわれる。
『古事記』などから伝わる、クマソタケル、イズモタケル、英雄ヤマトタケルなどの説話からは、わが先祖たちの勇敢さや奮戦の様子がよく伝えられている。
騎兵の登場
さて、馬や動物に乗るには騎乗具がいる。走るときに背骨が屈伸する動物は騎乗には向かない。したがって、馬が最適なわけだが、裸馬に乗ったとしたら、乗り手の意思をどうやって馬に伝えるのか。絶対に必要なのは手綱(たづな)であり、馬の口にかます銜(くつわ)である。この銜は、馬の口に噛ませる啣(はみ)という棒と、その両端にあって、手綱や銜を馬の口に固定するための面懸(おもがい)を取り付ける鏡板(かがみいた)からできていた。
なお、これらは中世(鎌倉期)以降の用語を使って説明している。記述の多くは騎馬史のあるいは中世戦闘の権威者である近藤好和博士のご研究から学ばせていただいた。
啣はたいてい金属製であり、そんなものを噛ませて馬は大丈夫かと思うが、馬の口内にからくりがある。歯槽間縁(しそうかんえん)といって前歯と臼歯の間には、歯がないくぼみがあるのだ。そこにすっぽりと鉄棒がはまるのである。
馬具には他にも、鐙(あぶみ)、鞍橋(くらぼね)、鞦(しりがい)などがあった。これらは古墳の中からすべてそろって出土する。ただし5世紀の出土品は多くが餝(かざり)馬具であり、実用的な馬具は5世紀の末頃から生産されたらしい。したがって本格的な騎兵の出現は6世紀初め以降とされるのが通説となっている。
その根拠となるのは出土品の内容である。考古学でいう挂甲(けいこう)、つまり鉄板を重ねつづった鉄札甲(てつざねよろい)で、他には直刀(反りがない両刃の剣)、鏃(やじり)、馬具(鐙・あぶみ、銜・くつわ)がそろって現われる。
研究者の間で重要視されるのは、この鏃と馬具のセットである。古墳の主人は、弓を携帯し、動きやすい鎧(よろい)を着て馬に乗る人に違いない。すると、機能的に見て、彼は弓を主武器にした騎乗兵ではないかと考えられる。
原始・古代の戦士たち
ここで原始・古代の兵士について考えておこう。ただ、ここでいう兵は軍務に従う人、すなわち軍人のことをいうのであって、後世の身分上の将校や兵と区分された身分をいうわけではない。
一般的に世界史的にみても、近代より前、中世・古代の兵には騎兵と歩兵があった。攻撃兵器には弓矢(歴史資料的には弓箭・きゅうせん)・投槍(とうそう)・火器(鉄炮など)のいわゆる「飛び道具」と、刀剣類を中心にして、それに棒などを加えた打撃・斬撃・刺突(しとつ)を目的とする「衝撃具(しょうげきぐ)」があった。それぞれを組み合わせると、兵は4つのグループに分けられる。なお、本来は弓箭と表記するのが学問上は正当だが、これ以後は一般的な弓矢にさせていただく。
この戦士を4つに分けるという考え方は、欧米の軍事史からわが国の学界が学んだ概念である。軍事史の分野ではわが国の研究水準は欧米と比べるとひどく遅れているというのがほんとうのところだ。明治以来の学界の軍事軽視、無視、あるいは軍隊が研究を独占したことが理由の一つだろう。
また、学者になるような人間は、わが国では軍事嫌い、軍人蔑視であり、その考え方がインテリゲンチャ(知識人)の証拠でもあった。いまもテレビやマスコミに乗る大学教員や政治家、評論家が、専門家から見れば噴き出してしまうような話し合いをしていることがある。それは戦前から続く、軍事軽視、蔑視の伝統の一つだろう。
しかし、この欧米流の戦士の分類は、わが国の武士の研究にも適用できる。近藤博士も、これによって日本の戦士を分けている。ただ、わが国では衝撃具はふつう「打物(うちもの)」といわれ、飛び道具も(鉄炮渡来以前は)ほとんどが弓矢だった。そこで、博士は、わが国の実情や用語に即して、弓射騎兵、弓射歩兵、打物騎兵、打物歩兵に分けている。わたしもそれに従うことにする。
ただし、弓射騎兵・歩兵は弓矢だけでなく、同時に打物をもっているのが普通である。刀剣を帯びるか、もしくは佩用(はいよう)していた。これに対して打物騎兵や歩兵は弓矢をもっていない。すると、2つの兵種の違いは、弓矢をもつかもたないかに集約されることになる。だから、打物をもつかもたないかではなく、弓矢をもっていれば弓射騎兵もしくは弓射歩兵ということができる。
11世紀には成立したといわれる『今昔物語』には、さまざまな武器使用の話がある。私腹を肥やした国司(こくし・律令時代の地方官)が、汚職の証拠を消すために書記の若者を部下に殺させる話がある。その凶器は弓矢だった。国司の部下は若者に同情しながらも「これも前世の報いであろう」と座らせて、背後から矢で首を射貫して殺した。これなどは部下が刀剣を佩用していた記録もなく、この国司の私兵は弓射歩兵だったのだ。
ある山中で旅の夫婦が襲われる話もある。山道で夫婦の前に現われた男は見事な太刀を佩いていた。それが欲しくなった弓矢で武装した夫は、男が交換を申し出ると、弓を渡し、太刀と交換してしまう。その後、男の態度は豹変(ひょうへん)して矢をつがえ夫婦を脅し、金も食物も太刀も持ち去ってしまう。これも弓矢をもつ者は太刀をもたないこともあった当時の実態であろう。また、近い距離で弓に狙われたら抵抗できないという事実も教えてくれる。
鉄札甲(てつざねよろい)と騎兵
古墳から出土する鉄札甲には2つのタイプがあった。1つは両当系(裲襠式・りょうとうしきとも言われる)という形式。もう1つは方領系(ほうりょうけい)と呼ばれる胴丸(どうまる)式の形である。
前者の両当系とは、前後の板を肩の上でつなぎ、サイドを脇楯(わいだて)といわれる板を接続するものである。後者の方領系というのは別名を胴丸というように、胴を一周して合わせ目は身体の正面になる。胴の正面を引合(ひきあわせ)といった。
前者にはさらに下半身を守るために、草摺(くさずり)といわれた4枚の防具がつく。剣道や銃剣道の防具の垂れは全面と左右だけだが、甲(よろい)では後ろも守る。これは騎馬にまたがっても前後左右を守れるので、大陸では騎兵用の装備だった。後者はそれに対して、歩兵用の裾の防具(草摺)がスカートのように一つながりになっている。これは騎乗するとめくれあがってしまう。古墳から出土する「武人埴輪(ぶじんはにわ)」はこの形式であり、弓矢と太刀をもっている。徒歩弓兵である。
これは古墳の被葬者が弓射騎兵であり、その護衛は弓射歩兵だったとわたしは考えているがいかがだろう。
次回は、『日本書記』に見られる弓射について紹介してみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)5月2日配信)