陸軍経理部(18) ―軍馬の話(4)―

ご挨拶

 GWも終わり、皆様いかがおすごしでしょうか。すっかり初夏の感じがした日もありました。体調をくずされた方もおられるのではありませんか。
 H・Mさまから日露戦争の運輸についてのお問い合わせをいただきました。調べますので、お時間をいただければ有難いです。よろしくお願いいたします。

日本書記にのる「弓射」

 よく知られている話が『日本書紀』の記事である。雄略天皇が即位前に1人の皇子を殺したことが書いてある。即位する前年のある日、天皇は「狩りにゆこう」と皇位継承のライバルを誘った。疑いもせずに出かけた皇子を馬での狩猟の途中である。
 天皇は『弓を彎(ひきまかな)ひ馬を馳せ』(彎とはひくと読める)、馬上から同じく馬に乗る市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)を射殺した。これが文献に騎射が見られる初めとなる。
 雄略天皇は教科書の「宋書倭国伝」の倭の五王の1人である。中国名は「武」。雄略という贈り名でもうかがわれるように、とても気性も荒々しい人のようだった。その在位期間は5世紀末から6世紀初めと想像される。他にも雄略天皇記には「一言主神(ひとことぬしのかみ)」と狩りで「轡(くつわ)を並べて」、鹿を追った話がのっている。書紀の記述、すべてが信用できるわけでもないが、前回に述べた考古学的な考察を補強する材料といえよう。
 甲(よろい)や馬具が出てくる古墳に葬られているのは、当時の地域の有力者である国造(くにのみやつこ)クラスだった。5世紀中頃から6世紀にかけての時代が古墳時代の武具の変革期にあたる。その形式が律令体制化の軍装にも引き継がれていった。とりわけ甲は、それまでの鉄板製の、考古学でいう短甲(たんこう)が消えて鉄札甲ができあがる。札(さね)は小型の鉄片であり、それがつづられていった。いまも五月人形の甲冑では、縅(おどし)といわれ、様々な色の糸や革でつながれているので理解しやすい。

天武・持統朝廷の規定

 西暦645年、のちに大化元年とされ、昭和世代には「大化の改新」で知られる(今の学界では乙巳の変という・いつしのへん)。そこから中国風の律令体制が始まるが、672年の壬申の乱は、またまた皇位継承についての争いだった。その戦いでは伝令や偵察・戦闘に騎兵が活躍した様子が書紀に残っているが、くわしい戦闘の様子は省かれている。したがって、この騎兵が「打物(うちもの・打撃兵器)」を主武器としたか「弓箭(きゅうせん・ゆみや)」を主に使用したかが不明である。
 戦後、勝利者となった大海人皇子(おおあまのおうじ)は天武天皇となった。その出した詔(みことのり・天皇の命令)がある。読みやすく現代語にする。
『およそ政治の重要時は軍事である。したがって文官も武官も、武技(兵・つはもの)を鍛錬し、馬に乗ることを訓練せよ。すなわち馬と武具、あわせて戦闘用の被服・装具は努力して備えよ。馬をもつ者は騎士(うまのりびと)とし、馬の無い者は歩卒(かちびと)として、ふだんから訓練しておけ』
 律令官人(りつりょうかんじん)は武官・文官を問わず、みな軍事的な素養と兵器その他の装備をもち、階級的にも騎士と歩卒に分けられていたことが分かる。さらに持統天皇(女帝・在位690~97年・天武天皇の皇后)も693年に次のような詔を出した。
『今年から親王たち以下、最下級の官人までの所有する兵器を検閲する。浄冠(じょうかん)より直冠(じきかん)までは、各人甲一領(よろい・いちりょう)、大刀一口(たち・ひとふり)、弓一張(ゆみ・ひとはり)、矢一具(や・いちぐ)、鞆一枚(とも・いちまい)、鞍馬(くらおけるうま)、勤冠(ごんかん)より進冠(しんかん)に至るまでは各人大刀一口(たち・ひとふり)、弓一張(ゆみ・ひとはり)、矢一具(や・いちぐ)、鞆一枚(とも・いちまい)、このようにあらかじめ備えておけ』
 浄冠から直冠は騎馬に乗る士官で弓射騎兵。勤冠から進冠は下士官・兵にあたり、弓射歩兵だったということになる。

律令体制下の軍団や騎兵

 701年に「大宝律令」、718年に養老律令が編まれた。もっとも後者の実際の施行は757年になった。律は現在でいう刑法のこと、令は民法や行政法を指している。そして間違えてはならないのは、律令国家というのは軍事国家という実態のことである。
 防人(さきもり)や衛士(えじ)というのは国民に等しく軍事に携わるようにした制度であり、朝廷にまつろわぬ(従わない)夷(えびす)を征伐するから武家最高の官職は「征夷大将軍」だった。しかし、これは本来、非常の職であり、徳川将軍は歴代、内大臣(ないだいじん)や左右大臣に任じられる文官の顔ももっていた。官職そのものが朝廷の秩序に従うものだった。
 この原則は、明治維新(1868年)まで変わらない。事実上の政治運営は武家が行なったが、鎌倉、室町、徳川将軍もまた、制度的には一人の律令官人だったに過ぎない。幕末の尊王攘夷の志士たちも、そのことは十分に知っていた。倒幕の始まりは「武威を張れない将軍は要らない」ということだったのである。

五衛府と馬寮(めりょう)、兵庫

 律令官人は男子が武官と文官(もんがん)に分けられた。「公式令(くしきりょう)内外諸司条」によると、
『五衛府(ごえふ)・軍団、及びさまざまの武装をする者は武(官)とせよ。他はみな文(もん)とせよ』となっている。「諸の杖帯せらむ者(もろもろのじょうたいせらるもの)」とは武装をする「馬寮・兵庫(めりょう・ひょうご)」の官人だという。杖(じょう)とは「兵仗(へいじょう)」、「儀仗(ぎじょう)」という言葉にいまも残っている。武器のことをいう。官有馬を管理する役人、武器庫・兵器庫に勤務する者は武器を携帯しているから武官だということだ。
 五衛府というのは、衛門府(ゆげいのつかさ)と左右の衛士府(みかきもりのつかさ)、同じく左右兵衛府(つわもののとねりのつかさ)の5つの軍隊である。平仮名の読み方は古来のものいいで、えもんふ、えじふ、ひょうえふ、とも読む。衛門府、左衛士府、右衛士府、左兵衛府、右兵衛府の5つである。
 衛門府の構成員は古くから伝わる天皇が自ら率いた靫負(ゆげい)の後身と思われる。靫(ゆき)とは、矢を入れて背に負う道具である。後になるとより操作に便利な腰に吊るす胡?(ころく・やなぐい)になったが、靫そのものは滅びなかった。儀礼的な、神聖性のある兵器として生き残った。靫負は「靫を負う者」というのが元の意味である。所属する武官には門部(かどべ・宮城門の警衛)、物部(もののべ・罪人の決罰)、衛士(諸門の警衛)がいた。
 衛士府は諸国から集められた衛士によって編成されて宮城や京市街の警衛を行なった。これに対して兵衛府は格が高かった。やはり衛門府と同じように、令制以前の朝廷直率軍であった舎人(とねり)の伝統を継ぐ者たちだった。農民主体の衛士府よりも上だったのにはそうした理由があった。その出身も地方の豪族や首長たちの縁故者、子弟であった。
 それぞれの正確な所属人員は不明だが、8世紀を通じて衛門府400人、左右衛士府で1200人、合計1600人という数字がある。これほどの武力が都には常駐していたのである。また、宮廷内だけの警衛を行なう左右兵衛府には各400人の兵衛(ひょうえ)がいた。合計で800人、さきの1600人と合わせれば2400人が天皇直属の武力だったのだ。
 気がつかれた方もおられるだろう。中世末期(戦国時代)から江戸期、あるいは明治・大正になっても古代ゆかりの人名が珍しくなかったことを。武家の中には「高田馬場の仇打ち」や「赤穂浪士」で有名な堀部安兵衛(ほりべ・やすびょうえ)や、同志の中には藤左衛門、惣右衛門、郡兵衛などが見られる。これらはみな祖先の中に、衛門府の官人や兵衛を務めた者がいることを誇示したものである。庶民の中にもこの真似をして、よく使われたが、諸大名家ではこれを認めないこともあった。
 各衛府の長官(ちょうがん)を督(かみ)・次官(しかん)を佐(すけ)・次の高等官である判官(ほうがん)を尉(じょう)といった。この尉には大尉と少尉の2階級があった。気付かれただろう。帝国陸軍が継承し、いまの自衛隊も引き継いでいる階級名の佐官、尉官の元である。この3つの下には主典(しゅてん)である志(さかん)という階級があった(これにも大・少があった)。これを四等官(しとうかん)あるいは四部官といい、どこの組織もみなこの仕組みになっていた。この長官・次官・判官・主典をカミ・スケ・ジョウ・サカンとも呼んだ。
 大坂の陣で有名な真田信繁(さなだ・のぶしげ・幸村ともいう)は左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任されていた。江戸町奉行遠山の金さんこと遠山左衛門尉(さえもんのじょう)景元は、だから真田の下僚になる。赤穂浪士に討ち取られた吉良上野介(きら・こうづけのすけ)は、親王が国司の長官・守(かみ)を務める上野国(現在の群馬県)の次官である。吉良の嫡子は佐兵衛督(さひょうえのかみ)に任官していた。もっとも江戸時代には『武家の補任は当官の他たるべし』という規定もあり、名目だけのことだったが、彼らもあくまでも律令官人だったことは確かである。
 兵庫も馬寮も長官は頭(かみ)、次官は助(すけ)だった。馬の供給は全国各地にいまも駒込(こまごめ)、牛込(うしごめ)などの育成場だった地名が残っている。また帰化人系統の馬を育てる役目の者がきちんと仕事を果たしていたのだった。

武官と公服

 律令官人の世界は服制もうるさかった。皇族と官人は、公務につくとき、「衣服令(いぶくりょう)」という規定で定められた公服を着なければならなかった。公服には礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服の区別があった。礼服は皇太子以下の皇族と五位以上の上級官人が即位式などの特別な儀式で着用する。朝服は、皇族とすべて官位をもつ役人が日常の公務につくときに着る執務服にあたる。制服は無位(むい・位がない)や官人以外の公服をいう。舎人(とねり)である衛士(兵衛府の兵)やふつうの兵衛は無位であるが、武官には制服の規定がなく、決められた朝服を着て武器を(はいたい・佩くは、はくと読み、腰に吊るすこと)して服務していた。
 佩帯武具については身分や状況で異なっていた。朝服の場合を「武官朝服令」で見ると、日常の公務を行なう「朝廷公事(ちょうていくじ)」と特別な警衛を必要とする「会集等日(えしうとうび)」に分かれている。
 ふつうの公事の日には、四等官と主帥(しゅそち・四等官のさらに下にいる後世の下士官にあたる指揮官)は横刀(たち)、兵衛は横刀と弓矢、衛士は「尋常(じんじょう・ふだん)」では横刀と弓矢、ややあらたまった「朔・節日(さく・せちび)」は横刀と弓矢もしくは槍(ほこ)をもつ。なお槍を「やり」と読むのは江戸時代以降のことで当時は「ほこ」と読んだ。
 特別な「会集等日」には、尉(じょう)と志(さかん)は裲襠(りょうとう)という儀仗の甲に横刀に弓矢、主帥は挂甲(うちかけのよろい)という兵仗の鉄札甲(てつざねよろい)に横刀と弓矢、兵衛が挂甲に横刀、弓矢に槍、衛士は挂甲に横刀、弓矢または槍という規定がある。したがって会集等日には長官と次官の督・佐以外の武官は全員が弓矢を携帯することになる。

六衛府(りくえふ)になる

 奈良時代にはさまざまな改編があり、平安初期には六衛府といわれるようになった。左右近衛府(さゆう・このえふ)、同衛門府、同兵衛府の6つである。これが明治維新まで変化なく続いていった。律令の施行細則を「格式(きゃくしき)」というが、927年の「延喜式」を見ると、武官の服装と佩帯武器が書かれている。儀式の重要度を、大・中・小で表すようになる。
 大儀での左右近衛府を例にすると、長官は大将・中将、次官は少将、判官は将監(しょうげん)、主典は将曹(しょうそう)、これ以下に府生(ふしょう)、近衛(このえ)に分かれた。主典は准士官、府生は下士官、近衛は兵卒であろうか。少将以上は横刀という規定があるが弓矢はない。ただ1つの例外が天皇の身辺にもっとも近づく「御輿(みこし)に供奉(ぐぶ)する少将(供奉御輿少将)」だけは横刀・弓矢をもち、将監以下近衛まで全員が横刀・弓矢で武装した。興味深いのは甲で、供奉御輿少将と府生・近衛は挂甲(うちかけよろい)となっている。
 この身分による佩帯武具の違いは、左右衛門府、同兵衛府でも同じである。すなわち督、佐だけは横刀のみ、他は弓矢も携帯する。旧陸軍も曹長以下は歩兵銃や騎兵銃をもったが、准士官以上は帯刀し、銃をもつことはなかった。こうした傾向は、中・小の儀でも原則は変わらない。
 ところが、もっとも警戒を要するのは行幸(ぎょうこう・みゆき・天皇の外出)の場合だが、武官最上位の左右近衛大将以下、すべての武官が弓矢を携帯することになった。いかに、当時、弓矢が強力な武器であったかが分かる。なお、延喜式の規定では、槍の規定は姿を消してしまった。
 次回では、地方の軍団について説明しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)5月9日配信)