陸軍経理部(19) ―軍馬の話(5)―

はじめに

 663(天智天皇2)年、現代韓国の全羅北道群山(くんさん)の北を流れる錦江(ぐんがん)が黄海に流れ出す入江、白村江(はくそんこう・はくすきのえ)で日中両軍の衝突がありました。唐と新羅の連合軍と、倭ことわが日本と百済(くだら)の連合軍との戦いでした。兵力に大きな差があり(諸説あり13万対4万など)、倭軍は近くの海についても不案内、何より戦術、戦略的にも劣ったそうです。損害は1万人と馬1000頭という数字も残っています。
 詳しいことは分かりませんが、倭軍は1000隻の船のうち、400隻あまりを失ったようです。敗残の将兵と、百済の敗亡の人々は命からがら九州に逃げ帰ったのでしょう。これ以後、唐の大規模な侵攻に備えて、日本は防衛努力に励みました。もし、あの強大な唐の軍隊に本土まで攻め込まれたら、わが国は滅んでしまう。百済がそのいい例である。その恐怖をもとに危機感が大和朝廷を支配しました。
 日本史教科書には北九州や対馬に防人(さきもり)を置いたことも書かれています。朝廷の権力の及ぶ地域からの徴兵です。朝鮮式山城も築きます。大宰府の北にはいまも水城(みずき)と呼ばれる防衛陣地が残っています。
 都も難波(なには・現在の大阪付近)から内陸の近江(おうみ・滋賀県)に移しました。北九州から「海の道」である瀬戸内海をつたって唐軍がやってきたら、ひとたまりもありません。この後の律令体制の整備の中で、各地に軍団が置かれるようになります。今回はその地方の軍団の成立まで駆け足で書いてみます。

お問い合わせとご意見

 HMさま、日露戦争の奉天会戦に向かう乃木第3軍の移動手段についてのお問い合わせをありがとうございました。結論からいえば、列車で北上した部隊もあり、徒歩で進んだ部隊もありました。東清鉄道はロシア軍が退却中に破壊していきましたが、わが軍も野戦鉄道提理部が復旧しています。戦中も長嶺子から大連を経て、前線近くまで物資、兵員を輸送することができました。このことについては、日露戦史の権威である長南政義氏(『新史料による日露戦争陸戦史-覆される定説』の著者)にもご教示をいただきました。
 NKさま、近衛兵の選抜や入営についてお問い合わせありがとうございました。叔父上様は久留米の歩兵第48聯隊区とのこと、無事にご復員されたのでしょうか。さて、ご承知のように、近衛師団の歩兵と騎兵だけは全国から選ばれた方々でした。他の特科隊、工兵、野砲兵、輜重兵という方々は第1師管区から選ばれたのです。
 まず、近衛師団から新入営兵についての上申がされ、陸軍大臣が裁可し、各師管に人数が配付されます。徴兵官は各師団長ですが、次は歩兵聯隊区ごとに人数が分けられ、それによって徴兵検査時の合格数が決まりました。したがって、合格者がそこで入営先を知らされることはありません(ただし時期と場所によって異なります)。
 徴兵検査の目的は「徴集(ちょうしゅう)」すること、つまり現役か補充兵役かを決めることだけが目的です。ただし、海軍に行く人にはその場で宣告された人もいるようでした。
 近衛騎兵、同歩兵の選考は、検査後に行なわれました。市役所、町村役場の兵事掛と聯隊区司令部の掛の仕事です。役場の兵事掛はすべて個人情報をもっています。家族に至るまでの詳細を知り、検査の午後に行なわれた「壮丁教育調査」の結果も勘案されました。国語・算数・公民の3教科の成績で知的レベルも調べられます。
 地方で資産もあり、声望もある。思想的にも問題はないとなると聯隊区司令部と兵事掛の協議で決まれば、入営先が決まります。したがって歩兵第48聯隊には入営されたことはないでしょう。通知は兵事掛を通じて、年内には知らされました。近衛兵を出すことは「家の誉れ」でもありました。
 
 べーさま、いつも鋭いご指摘をありがとうございます。古墳時代の戦闘で乗馬した兵が「もろてで斬りつけることは不可能」ではないか?とのご指摘、まったくごもっともです。たしかに鋭利な大刀を抜いたままの馬上突撃は難しいでしょう。斜めに肩に担うようにしただろうというのも事実です。
「打物騎兵」の存在は文献上では南北朝ころからのようです。そして長刀や鑓(やり)といったものが馬上から振られただろうと仰るのはまさにその通りでしょう。しかし、学説上、古墳時代の出土大刀からみると長大な柄と大きな環頭、雄大な全長から見て、そして意外と小型の大陸からの渡来馬の馬格をみると、けっして馬上からの斬りおろしは不可能ではないと、いろいろやってみたわたしは思うのですが。
 なお、「打物騎兵」については、『太平記』に記述があります。片方の武器は1丈(3メートル余)あまりの樫の棒であり、相手は4尺6寸(約140センチ)と3尺2寸(約97センチ)の2口の太刀と大刀をもっています。お説の通り、馬上からは棒や鑓のような長物(ながもの)が有利となります。しかし、長大な太刀でも戦っていたようです。もちろん、斬撃というより打撃道具として使っていますので、斬るというより殴りつけるという感じです。
 太刀は両手でもって敵の棒の打撃を受け流し、両手で殴りつけるように使っています。ご存じのように弓射騎兵でも両手で戦い、手綱はもちません。訓練された古代の先人のしたことに目撃者もなく、記録に頼るしかありません。もちろん『太平記』などという古い本の書いていることは信用できないという論者もおられますが。
 馬の骨が古墳から出土していませんが、500年経った源平時代でも4尺(約121センチメートル)で成馬であったことからみても、当時の馬は小型であったのではないでしょうか。したがって今のところ、どちらが正しいと決められる確証はありません。
 いつも温かい応援をしてくださり、ベーさまには感謝の言葉もありません。おかげで、15世紀の打物騎兵のことも調べることができました。

白村江敗亡の記録

「己酉(つちのと・とりのひ)に、日本の諸指揮官と百済王は、天候気象も見ずに軍議を行なった。『みんなで先を争って進撃すれば、敵はしぜんに退却するだろう。攻撃あるのみだ』という話で軍議はまとまってしまった。そうして日本の軍はまとまりを欠きながら中軍の兵士たちは、唐の堅固な陣地に突撃してしまった。唐軍はそれに対して左右に水軍を展開して官軍(大和朝廷軍)を包みこみ、包囲戦を行なった。たちまち官軍は敗れてしまった。水中で溺れ死ぬ者も多く、船を旋回させることもできなかった。朴市田来津(えちの・たくつ、部将の一人)は天をあおいで奮戦を誓い、歯をくいしばって奮起し、数十人を殺した。そうしてここに戦死(たたかいう)せぬ」(日本書紀)
 己(つちのと)酉(とり)というのは十干十二支(じっかん・じゅうにし=えと)で知られる。甲乙丙丁戊己庚辛壬癸というのは、陰陽道(おんみょうどう)の五行(ごぎょう)からきている。世界は木・火・土・金・水の5つの要素からできているのだというのが世界観の基本になる。これが兄弟に分けられ、兄の「え」、弟の「と」となって十干。甲はだから「木の兄=きのえ」であり、乙は「木の弟(きのと)」になる。戊は「つちのえ」で、己は「つちのと」である。
 当時は数字による4日とか23日などという言い方はなかった。十干に子丑寅(ねうしとら)・・・で知られる十二支を組み合わせれば60通りになって、日もそれによって表していたのである。
 また中国側の記録、『旧唐書(きゅうとうじょ)』将軍劉仁軌(りゅう・じんき)伝には、以下の記録がある。
「仁軌(じんき)、倭兵と遭い、白江の口において四たび戦ひて捷(か)ち、その船四百艘(そう)を焚(や)く。煙?(えんえん・けむりとほのおのこと)天にみなぎり、海の水もまた血で染まって赤くなった。賊衆(ぞくしゅう・反乱軍)大いに潰(つい)ゆ」
 唐の皇帝は天下を治めることを許されている。それに従わない者は賊であるという。そうした論理で百済・日本連合軍は「賊衆」になる。
 この頃の軍隊の様子はよく分からない。ただ、総指揮官は皇太子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)であり、将軍たちは臣(おみ)や連(むらじ)といった称号をもつ中央豪族だった。阿倍比羅夫(あべのひらふ)や安曇比羅夫(あずみのひらふ)といった人名からそれが分かる。部隊長・指揮官は西日本の地域の首長たちであり、兵卒は支配下の農民であっただろう。地方豪族である国造(こくぞう・くにのみやつこ)といった人々が把握している農民で構成されていたのだった。
 この点は学会にも諸説があり、軍団はすでに律令が定められる前に、地方豪族である国造がすでに組織していたともいわれる。ここではそれには深入りせずに、律令制下の軍団について学ぶことにする。

古代の三関

 いまも関西と関東という。京・大阪・西国文化圏と、東京とそれ以北を表す関東文化圏に分けられている。では、この関(かん・せき)とは何を指すのだろう。近世・江戸時代にはこの文化圏を分ける関は箱根の関(神奈川県箱根町)をいい、これより東を関東といった。
 夏目漱石の名作『坊ちゃん』では幕臣の家の出のばあやの「清(きよ)」が、「箱根の向こうは化け物が出る」というエピソードがある。作中の時世は日露戦争の頃。維新からまだ30年あまり、生涯江戸を離れたことがないそんなことを言う年よりは珍しくなかったことが分かる。
 古代では、重要な関所を三関(さんかん)といった。北から順に、北陸道をさえぎる新発(あらちの)関、東山道を守る不破(ふわの)関、そして東海道の固めになる鈴鹿(すずかの)関である。みな当時の中央にあたる京や奈良、近江より東にある。そうして都から西には一つも関はない。関を設けた理由は外敵を防ぐためと、中央からの重罪人の逃亡を阻止するためだったからである。九州から瀬戸内海、そうして摂津や難波の地に至るルートは大陸の豊かな文物の移入には欠かせないものだった。そんなところに関が造られるわけもない。
 新発関は琵琶湖の北、福井県(越前国)新発山にあった。その外は越(こし・えつ、越前は福井県・越中は富山県・越後は新潟県)の国になる。これはのちに京都と大津(滋賀県)の間の逢坂(おうさか)の関に変わった。不破関は岐阜県不破郡関ケ原町にあった。その外は東国といわれた美濃国(みののくに)である。
 鈴鹿関は三重県鈴鹿郡関町南方にあり、同じく接するのは伊勢国(いせのくに・三重県)である。のちに畿内といわれた大和・山城・和泉・河内・摂津という五カ国が「五畿」といわれた重要な国々だった。それが中央文化圏である。関の外は「化外(けがい)の地」といわれた遅れた地域、国だったのである。
 新しい天皇の即位のたび、あるいは大きな天変地異が起きた時、「固関(こげん)」という儀式が行なわれた。これは関所周辺の警備を厳重にするという意味があった。反乱軍の侵入への警戒、あるいは重罪犯の逃亡を防ぐことがその理由だった。平安時代には実際に朝廷から「固関使(こげんし)」という役人が出張していた。それが鎌倉時代には形骸化してしまったというところが、権力の推移がうかがわれて興味深い。

壬申(じんしん)の乱(672年)と関ヶ原

 天智天皇は自分の死を病床で予感した時、弟の大海人皇子(おおあまのみこ)を呼んだ。自分の子、大友皇子(おおとものみこ)はまだ幼い、そこで貴下が皇位を継いでほしいと言うのだ。当時はのちのように父系の相続はかえって珍しい。だから叔父にあたる大海人が即位しても一向にかまわないが、天智の本音は違っていたらしい。大海人はすぐにそうと察して、「自分は出家する」と答えて、すぐに吉野(奈良県南部)に逃れた。当時は吉野は外から入るのも難しいとんでもない僻地である。
 天智が亡くなった知らせを受けると、大海人はただちに軍事行動に移った。側近の武力は皇族の護衛兵の舎人(とねり)である。また皇子の私領、美濃国湯沐邑(とうもくむら)の兵、大伴吹負(おおとものふけい)が率いる三輪氏・倭漢(やまとのあや)氏・鴨(かも)氏などの大和盆地の氏族の私兵があげられる。ただ、大きな中心兵力になったのは、伊勢・美濃の国の国司たちがもつ兵力と、東山道(現在の中山道に沿う国々)・東海道(沿海諸国)からの募兵だったことは疑えない。
 逆に大友皇子の軍も、西海道(現在の中国・四国地方を含む)、南海道(紀伊国=和歌山や土佐国=高知県も含む)から兵を集めている。こうした全国(むろん限られた地域だが)を巻き込んだ戦争がこの「壬申の乱」だった。このような募兵が大規模に行なわれていたこと、あるいは国造軍が存在していたことが推定される根拠は『万葉集』にある歌の中にもあるとされる。
 
 それは755年の歌である。階級名らしきものが存在していた。防人(さきもり)、上丁(しょうてい)、火長(かちょう)、主帳(しゅちょう)、主帳丁(しゅちょうてい)、助丁(すけてい)、国造丁(こくぞうてい)、国造などが出てくる。そうして語意や使われ方から想像して、国造-国造丁-助丁-主帳という四部官の存在をいう研究者もいる。
 壬申の乱の経過については詳しくふれないが、大海人が吉野から目指した場所が関ヶ原であることを指摘しておこう。関ケ原付近はもともと大海人の所領があったところであり、鉄鉱石も存在した。巨大な古墳もあるところから、原始から豊かな土地であったらしい。後世の1600年の関ヶ原の戦では徳川軍の本営は桃配山(ももくばりやま)に置かれた。その名の起こりは、大海人が部下をねぎらうために桃を配ったからであるという。
 このとき、大海人は素早く関を押さえた。鈴鹿と不破の両関を固めたのだ。それから美濃からの軍団の到着を待ち、大和(奈良県)と近江(おうみ・滋賀県)に進撃していった。大海人軍の勝利のもとは、美濃以東の東国の軍団を率い、関ヶ原という兵站拠点を押さえたことであるといっていい。
 白村江の敗退以来、天智天皇は九州や西国に兵を多く配備した。そのために西国の国造たちは疲弊し、経済的なゆとりもなくしていた。近江朝廷(大友軍)からの呼集があっても、それに応じることは難しかったのである。

「軍防令」に見られる軍団

 近江朝廷を破り、天皇位に就いたのは大海人だった。のちの贈り名を天武天皇という。在位は673年から686年である。あとを継いだのは天智天皇の娘であり、天武の皇后だった持統(じとう)天皇だった。彼女は天武の事業を多く引き継いだが、唐の府兵制にならった軍団制を発足させた。その概要は次の通りである。
 一般農民のうち男子正丁(せいてい)の1戸(こ)ごとに3人に1人の割合で兵として(徴する。正丁とは満21歳から60歳までの人をいう。当時は核家族では暮らしていなかった。各世代がいっしょに暮らしていたし、そうでなければ生産力が低い時代、生きていくこともできなかったのである。だから1戸には平均して20~30人の家族がいたと思っていいだろう。うち正丁はたしかに3人くらいはいたとする。うち1人である。
 こうして集められた兵はおよそ1000人を単位として軍団にされ、各地に置かれたという。そうして50戸を集めて里(り)とした。里の集合が郡(こほり・評とも書いた)となって、国は複数の郡でできていた。国の行政官は国司といい、郡は郡司(ぐんじ)が支配した。
「軍防令」によって規定された兵士の装備が分かる。
弓 一張(はり)
弓弦袋(ゆづるふくろ)1口
副弦(そえづる・予備の弓弦)2条
征箭(そや・戦闘用の矢)50隻
胡?(やなぐい・腰につける矢の収容物)1具
大刀(たち)1口
刀子(かたな・ナイフ)1枚
礪石(といし・大刀を研ぐ)1枚
藺帽(いがさ・草で編んだ笠)1枚
飯袋(いいぶくろ)1口
水甬(みずおけ)1口
?巾(はばき・脚絆のこと)1具
鞋(からわらぐつ・わらじのこと)1両
 これらは兵士が自分で持参した。
 これに対して、兵士が私蔵してはならない武器や装具ものっている。
 鼓(つづみ)、鉦(かね)、弩(いしゆみ・機械仕掛けの大弓)、牟(ほこ・2丈のもの)、?(ほこ・1丈2尺のもの)、具装(馬につける防護具、馬よろい)、大角(吹鳴具)、小角(同前)、軍幡(軍旗・のぼり)。
 部隊行動をとるときに指揮官だけが使える装備や強力な武器は自由に持てないことが分かる。分かることはそれだけではない。唐の兵士と比べると、かなりお粗末な個人装具であり、唐軍では分隊ごと(およそ10人を1火とした)にもつ鉄製の飼葉桶や工具類がないことが特徴である。
 この軍団の長は「大毅(だいき)」、次官は「少毅」という。この「軍毅(ぐんき)」といわれた人々は、郡司の一族であることが多かったようだ。なお、現在でいう下士官にあたる階級を「軍曹(ぐんそう)」といった。
 明治以後の判任官だった下士官の軍曹の起こりである。また、建軍当初、階級名を相談した時に、現在の尉官は「大毅(だいき)・中毅(ちゅうき)・少毅(しょうき)」にしたらどうかという意見が出た。将官と佐官は中央官衙(かんが)の近衛(このえ)や兵衛府からとった。ならばその下の士官は、古代の軍団の「軍毅(ぐんき)」である「毅」でどうかという主張だった。その後、奏任官(そうにんかん)に格上げされることにもなり、判官(ほうがん)の別名である尉(じょう)が使われることに決まった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)5月16日配信)