陸軍経理部(31) ―軍馬の話(17)

ご挨拶

 猛暑、いや酷暑としかいいようがない天候がつづいています。また、被災地を直撃するような台風の襲来、みなさまいかがお過ごしでしょうか。わたしはエアコンで室温を下げ、就寝中も運転をやめていません。おかげでどうやら凌いでおります。
 新聞を読んだら、「サマータイム」の2年間限定実施を国会では提議されるとか。2年後の東京オリンピックへの配慮のようです。2時間、繰り上げることで、たとえばマラソンのスタートが現状の7時から5時になるとのこと。そうすればゴールが現在の7時半ころになり、気温が低いうちに競技ができるといいます。
 しかし、経済活動や労働時間はどうなるでしょう。学校もいまでいう6時ころから始まり、12時半、13時ころに下校となります。長い放課後が生まれます。日没までの時間を考えてみてください。経済コンサルタントは消費が拡大し、景気にもよいと言っていますが・・・。
 一方、「盛夏のスポーツは止めよ」という朝日新聞の主張が笑われています。それをいうなら同社が主催する「甲子園野球大会」はどうなるのだというのです。もちろん、新聞社側は、「充分な配慮をする」と答えるのですから首尾一貫しない主張としか思えません。社説を書くような大知識人の頭の構造を不思議に思います。
 また、文科省の高級役人。卑しいですね。高級クラブで接待を受け、怪しいブローカーと人脈をつなぐ。そういう裏側には、われわれ庶民とは異なる価値観をもった方々がいっぱいいることが分かります。平和が2世代半、70年も過ぎると「乱世」に耐えられない仕組みがいっぱいあるのでしょう。
 わたしの大切な友人である自衛官たちは、こうした中で黙々と活動を続けています。改めて、警察官、消防官、地方自治体の方々のご奉公に心より敬意をささげます。

馳射(はせゆみ)から組打ちへ

「一の谷の軍(いくさ)敗れ 討たれし平家の公達(きんだち)あはれ」(文部省唱歌『青葉の笛』の歌い出し)
 一の谷の合戦で平家軍は敗走する。沖合の船を目指して多くの武者たちは馬を泳がせていた。源氏軍には船がない。海上に逃れれば、平家水軍は健在である。
 敵に背を向けて野下行く一人の軍装も美々しい武者がいた。そこへ追いついたのは源氏軍の熊谷次郎直実(くまがい・じろう・なおざね、1141~1208年)である。
「そこにおわすは平家の大将軍でありましょう。敵に背を向けて逃げるのは卑怯なおふるまいです。どうか馬を岸にお返しになって、わたしと勝負してください」
 そう呼びかけられて、馬を岸に戻したのは、無官大夫(むかんのたいふ・従五位下の位をもちながら任官していない人をいう)平敦盛(あつもり)だった。敦盛はこのとき16歳(1169~1184年)。朝からの戦闘に疲れ果ててもいた。もうすぐに、味方の船に届くというときだった。それなのに、「卑怯」といわれて我慢できなかったのだ。
 敦盛は平清盛の弟である経盛(つねもり)の末子である。幼いころから天分に恵まれ、さまざまな才能に恵まれた平家一門でも笛の名手として有名だった。熊谷は波打ち際からあがる敦盛を待った。そうしていきなり馬を寄せて、馬上で敦盛に組み付いてしまう。一緒に落馬する。組み伏せると素早く刀を抜いた。
 この刀は前回も紹介した通り、後世でいう短刀である。さて、鎧のすき間をさぐって刺し殺す前に相手が少年であることに気づく。名前を聞いた。しかし、答えない。この後の物語は中学校2年の国語教科書の多くに書かれている。「お助けします」、「いや討て」の何回かの問答の後、味方の接近を知った直実は泣く泣く首を獲った。その後に、首のない死体の懐(ふところ)を探ると美しい袋に入った横笛を見つけるのである。
 読者はここで違和感をもたないだろうか。中世前期の武者の特技は「馳射(はせゆみ)」だったはずだ。しかも一騎打ちならば、距離をとって相手の右手に位置しようとする機動が重要だったはずだった。前方、あるいは前下方に矢を射る「馳射」(はせゆみ)こそが武者の表芸だったからである。
 熊谷はどうしたか。ようやく渚に立ちあがったばかりの、泳ぎに疲れた敦盛の馬。それに対して、元気な自分の馬で敦盛の馬に体当たり(馬当てという)をしかけ、バランスを崩した相手につかみかかり、上からのしかかるように落馬したのである。
 まさに、戦闘様式に大きな変化があった。
『平家物語』にはこのシーンが「馬の上にて引き組みて、波打ち際に落ちにけり」とある。その後、3~4回と組み合って、とうとう熊谷は上になることができた。左右の膝で、(敦盛の)鎧の左右の袖をむずと押さえつけ、相手は少しも動けない。刀を抜いて、内兜(うちかぶと・顔面)を掻(か)こうとして見ると、色の白い15、6歳ばかりの若者である。見た目も美しく、お歯黒をつけていた。と描かれている。これは本物の貴族である。
 この戦いは、明らかに30年ほど前の保元・平治の戦の弓射中心とは異なる。前回は馬術奨励をいう、鎮西八郎為朝から逃れた老武者の話を紹介したが、それと同時期のことである。12世紀末の鎌倉政権の鶴ヶ岡八幡宮の祭礼では、奉納されるショーとして競馬(くらべうま)、流鏑馬(やぶさめ)、相撲(すもう)があったことが指摘されている。
 このことから、馬上や、落馬してからの格闘戦では、相撲も武技として有効だと認められていたことである。事実、中世前期の鎌倉期の武者たちは、「弓馬、相撲の達者」という褒め言葉が使われるようになっていた。

馬当ての奨励

「馬当て」は戦国時代の資料にはよく出てくる。乗馬ごと敵の馬に体当たりする。それによって敵の体勢を崩し、落馬させる。わざと立ちあがらせて、そこを鑓で叩いて敵を倒すという描写がよく出てくる。逆に敵を落としたまでは良かったが、焦って鑓を突きだしたために両手で引っ張られ、自ら頭から落ちてしまって、逆に討ち取られたという話もあった。
 史実としてはあやしいが、山内一豊(やまのうち・かずとよ、1546~1605年)が織田家の初級将校だったころの話である。名馬を妻(見性院として知られる、1557~1617年)のへそくりを使って購入した。それは馬当てで有利だからだ。言い伝えでは姉川の戦いで、敵方の武者の馬に寄せていって体当たり。ゆらぐ相手の足をのせる鐙(あぶみ)を蹴り上げて落馬させたとある。そうした戦法の始まりが、この時代からのように見える。
『平家物語』の中にも、「平山(季重・すえしげ、現在の東京都日野市平山を本領とした)が乗りたる馬は究竟(くっきょう・現在なら屈強と書く)の馬なり。城中の者どもの乗りたる、船に立て、磯(いそ・海岸に近い)に立てたる馬なれば、痩(や)せ疲れて、一当(ひとあ)て当てたらば倒れぬべければ(倒れてしまうだろうから)、近づかざりけり」
 源氏方の平山季重という武者の馬が頑丈で馬力もありそうである。平家方の城にこもっている馬は、船中で過ごし(せまい軍船の中で充分な飼葉もなく)、あるいは磯のそばで(青草も食べることができず)痩せてしまい、体力も衰えている。ちょっと馬を体当たりでもさせたら、すぐに倒れてしまうだろう。そこで近づこうともしなかった。
 たしかに、当時の馬は現在の規格から見ればポニーに過ぎない。体高もせいぜい130センチ前後しかなかっただろう。ところが、実態は猛獣だったといっていい。急流を乗り越えた宇治川(京都市内)の一番乗りを果たした佐々木高綱の「生喰(いけずき)」という馬がいた。その名前の由来は、「生きるものなら何にでも喰いついた」からだという。去勢されていない牡馬(おすうま)の凶暴さは、現代のおとなしい調教された競走馬などから想像してはならない。
 日清戦争(1894~5年)になっても、徴用された民間馬は暴れまわり、世話する兵士を死傷させ、互いにケンカをし、傷つけ合っていたという。ちなみにわが国で獣医の手による去勢術の普及は、日露戦中(1904~5年)のことであった。
 気性の荒い、体力のある馬に体当たりをされたら、弱い馬はひとたまりもなかった。軍馬に用いられた、しかも名将の乗る馬は140センチ前後である。ふつうの馬に乗った武者が対抗できるわけもなかった。
 この「馬当て」は戦国期を通じて、ごく普通の技術になっていった。たとえば、古式馬術の大家であった金子有隣(かねこ・ゆうりん)氏は、その著書『日本の伝統馬術 馬上武藝編』の中で、「自分の馬を敵の胴中へ打ち当てて相手の人馬を打ち倒すのを騎馬戦の本義としている」と書かれ、肥後熊本藩では「馬当(うまあて)」と名付けて、もっぱら馬をそのように訓練したともいう。
 また、和田義盛が郎等(ろうどう・家来)の三浦真光(みうら・さねみつ)に「馳組み」戦の心得を聞いたところ、近頃では戦闘は変わったという。敵の馬の腹を狙って矢を射る。すると馬は棒立ちになって騎手を振り落とす。そうなると徒歩立ち(かちだち)になった敵を射ることができる。さらに近頃では、理由もなく馬上から並んでいって組みついて、下に落ちたところを、太刀、腰刀で勝負をつけるようにもなった。
『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』の中にはさらに馬から降りて、あるいは落ちてからの「打物(うちもの)」とっての戦闘の描写もある。1183(治承2)年に行われた現在の福井県の砺波山(となみやま)合戦でのことである。牛の角に松明(たいまつ)をつけて峠の上から平家軍に襲いかからせた倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦ともいわれる。
 そのとき、平家方の平知度(たいらのとものり、生年不詳~1183年、清盛の子で三河守、この年、加賀国篠原で戦死)は馬を射られてしまい、徒歩(かち)立ちになっていた。そこに岡田冠者親義(おかだ・かじゃ・ちかよし)がたまたま出会ってしまった。知度は、太刀を抜いて、岡田の甲(かぶと)の鉢(はち)を打った。これはおそらく弓を失った、あるいは矢をつがえて射る暇もなかったからだろう。
 また、義仲の夫人、巴御前(ともえごぜん)も馬上の組打ちをよく行なっているという。史実としては扱いにくいが、この時期の戦闘を想像するときには役に立つ。相手となった内田という武者が弓を引かなかったので、巴も引かなかった。内田は太刀も抜かなかったので、巴も太刀を抜かなかった。近づいて、互いに声をあげて、やあとばかりに組み合った、という記述がある。

なぜ、戦闘法は変化したか?

 研究者たちの主張によれば、それは全国で多発した騒乱の結果であり、それにともなう戦闘者の階層が拡大したことに原因がある。弓射騎兵の伝統は軍事貴族が維持してきた。「追物射(おものい)」を訓練し、弓射に長けて、馬術に親しみ、大馬を何頭も飼えるのは大領主であるか、軍事貴族のような豊かな階層だけができたことだった。
 ところが戦乱が広がり、小さな領主たちも動員され、ふだんは農耕に使っているような貧弱な馬に乗って戦うようになった。平素からの弓の訓練も不十分であり、武装も貧しければ、体力勝負だけの「組打ち」に頼るようになる。とはいえ、弓射の技能は低くても、格闘したあげく、太刀で殴り合い、(腰)刀で致命傷を与えるというのは、まさに戦闘のプロでもあっただろう。
 教科書的知識だけに頼ると、いわゆる「治承・寿永の内乱」を源平だけの争いのように受け止めてしまう。手元の高校教科書の記述をみてみよう。
(1)1180(治承4)年4月、平氏打倒の兵をあげた以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の戦い。
(2)同年8月には、伊豆(静岡県)の源頼朝の挙兵、いったん敗北するが千葉へ逃れて再起する。
(3)2カ月後の10月、駿河国(静岡県)富士川での討伐軍敗走(平家軍の潰乱)。
(4)1183(寿永2)年5月、北陸道で木曽義仲軍が平家軍を大敗させた越中国砺波山(となみやま)合戦。これは倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いとして知られる。
(5)1184(寿永3)年1月、鎌倉軍が義仲軍を敗走させた。宇治川合戦。
(6)同年2月、鎌倉軍が平氏軍を一の谷で破り、山陽道から追い落とす。
(7)1185(元暦2)年2月、讃岐国(香川県)屋島(やしま)合戦。
(8)翌3月、平氏一門を滅ぼす壇ノ浦(だんのうら)合戦。
 以上が、源平合戦の経緯を示す教科書の記述である。大学入試ではこれらの順番を暗記
していれば充分かもしれないが、これら主要戦闘は全国的騒乱の中では、ごく一部にしか過ぎないことを確かめておいて欲しい。
 1180(治承4)年では、9月に信濃国(しなののくに・長野県)で木曽義仲が挙兵。甲斐国(かいのくに・山梨県)では甲斐源氏武田氏、紀伊国(きいのくに・和歌山県)では熊野別当湛増(くまのの・べっとう・たんぞう、生年不詳~1200年?)が挙兵している。別当湛増は和歌山県田辺(たなべ)を本拠地として、熊野水軍を率いていた。
 11月になると、延暦寺堂衆(えんりゃくじ・どうしゅう)や園城寺衆徒(おんじょうじ・しゅと)と手を結んだ近江(おうみ)源氏が組織して「近江騒動」を引き起こした。これらは美濃国(みののくに・岐阜県)に勢力をもつ美濃源氏や若狭国(わかさのくに・福井県南西部)の有力な在庁官人(ざいちょうかんじん・国司や郡司)の同調を起こしていった。
 延暦寺は「やま」あるいは「山門」(さんもん)といわれた天台宗総本山、有名な僧兵という兵力があり、宗教界ばかりか現世にも権力をふるった。園城寺とは滋賀県大津市にある天台宗寺門派の総本山であり、「寺門(じもん)」と呼ばれた。同じように武力をもち、その現世的権利を守ろうとしていた。
 さらに12月から治承5年にかけて、興福寺衆徒(こうふくじ・しゅと)と河内源氏の石川氏が手を結んで蜂起する。九州では肥後国(ひごのくに・熊本県)に菊池隆直(きくち・たかなお、生没年不詳)、豊後国(ぶんごのくに・大分県の大部)には緒方惟栄(おがた・これよし、「義」とも書かれる、宇佐八幡宮領緒方荘の荘官)という平氏支配に抵抗して立ち上がった武者たちがいた。土佐国(とさのくに・高知県)では源希義(みなもとのまれよし、生年不詳~1180年)、伊予国(いよのくに・愛媛県)でも河野通清(こうの・みちきよ、生年不詳~1181年)が反旗をひるがえした。
 希義は頼朝の異母弟であり、平氏軍の追討を受けて戦死する。河野通清は現在の北条市に本拠をもち、伊予権介(いよのごんのすけ・国司の定員外次官)に任官した。国内で競合関係にあった武市(たけち)氏が平氏側に立ったのでこれを攻め、伊予国の「正税官物(しょうぜいかんもつ)」を都に送らなかった。これを抑留(よくりゅう)するといった。
 このように、内乱は全国的に同時多発的に起きていることが分かる。単に源平争乱というような見方ではなく、全国レベルで不安定な時代だったということを理解しておきたい。

「動員」の拡大

 ここでいう「動員」とは近代国家の軍人・物資動員とは、あるいは戦後労働陣営、左翼運動の組合員たちが運動に出かけることとは異なる。源平の両陣営がそれぞれに、兵員や兵站物資、築城(ちくじょう)の労働力などを命令で集めたことをいう。
 この時代、これまでの国衙(こくが)軍制を継承した正規武士(国兵士・くにのつはもの)だけでなく、『器量に堪うる輩(ともがら)』や『武器(つはもの)に足るの輩』が戦闘に加わったことが特徴である。川合博士は「妹尾(せのお)の者供、物具(もののぐ・武具)・馬鞍・郎等(ろうどう)をも持ちたる輩は、平家に付き奉りて屋島に参りぬ。物具持たざる程の物(ママ)は、妹尾に留まりてありける」という記述を引かれている。
 そして一の谷の合戦の描写の中には、武蔵国(むさしのくに・現在埼玉、東京、神奈川)の河原(かわら)兄弟がそろって戦死する場面がある。兄弟はいう。「大名(多くの名田をもつ豪族)は自分で戦わなくても、家の子や郎等が手柄を立てて高名(こうみょう・功績)を名誉にできるが、我々は自分が戦わなくてはそうした名誉も得られない」と語っている。彼らは下人(げにん・家の子)に後のことを託して、先陣を切って戦死した。
 このように、「武士の戦闘」に大きな変化をもたせたのは、こうした「動員」の結果であるだろう。
 次週はさらに戦場の実相、野戦築城の実態などを調べてみよう。 
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)8月8日配信)