陸軍経理部(30) ―軍馬の話(16)

はじめに

 猛暑、酷暑の次は台風です。被災地の皆さま、さらなる被害が心配になります。先週にも引き続き、厚くお見舞いを申し上げます。
 HYさま、ご丁重なご挨拶、ご返信ありがとうございます。武士たちの戦闘様式の変化について、高いご関心をお持ちのご様子。感服しております。絵巻物や軍記物しか史料が見つからないのですが、少しでもご紹介したいと考えています。今後とも、ご愛読、ご感想をお願い申しあげます。
 ここのところ、中世前期の弓射騎兵の話を進めていますが、装備についてまとめておきます。まずは太刀と刀からです。

太刀と刀の話

 刀剣は、刀身と外装に分けられる。外装は「拵(こしら)え」といわれ、現在では刀身と別個に扱われていることが多い。そのうえ、外装は鐔(つば)などの刀装具がまたまた分かれ、それぞれが鑑賞され、蒐集されることもある。笄(こうがい)や目貫(めぬき)、柄頭(つかがしら)などは三所物(さんしょもの)ともいわれて、それぞれがまるで別々の美術工芸品ともなっている。しかし、これらはすべてが揃って一体となり、初めて実用ができるようになる。刀身と外装が、すべてそろって刀剣となることを知っておかねばならない。
 外装は柄(つか)、鞘(さや)、鐔(つば)などから成っている。柄は木製で、刀身の中でも刃を着けない茎(なかご)を包み、ふつうは鮫皮(さめがわ)を張って、目貫(めぬき)という穴が開いている。そこにふつうは竹製の目釘(めくぎ)を挿入して固定化する。柄は中世の後期からは、組紐(くみひも)や韋緒(かわお)で巻き締めた。握ったときに手の内の締めがよくなるためだ。
 しばしば映画やドラマで、柄巻きの上に白いさらし木綿などをさらに巻いている演出もあるが、ああしたことはあり得ない。わざわざ組紐や緒で手の内にしっくりくるようにしているのに、さらし木綿で柄を太くなどしてどうするのだろう。もちろん組紐などを湿気や汚れから守るために、日常は木綿布を巻いていたという旧陸軍の将校もいたが、実戦で斬り合いが予想される時には外していたに違いない。また、大戦末期の内地部隊では、鹿革で造ったやわらかい柄袋も流行っていたという。この韋緒の韋(かわ)はなめした革(かわ)のことをいう。
 鞘は木製で、その上に漆塗(うるしぬり)や金属張、革包(かわづつみ)など各種がある。鐔は金属製(昔は鉄だった)、あるいは撓革(しないがわ)による練鐔(ねりつば)である。撓というのは「たわむ」、「ゆるやかに曲げる」、あるいは「かきまぜる」という意味になる。練り革を数枚重ねて膠(にかわ)などで固めていた。現在でも、竹刀の附属品として造られているから見ることができる。
 この外装には、太刀(たち)様式と刀(かたな)様式がある。太刀は佩(は)くという。刀身の刃側を下にして左腰に佩用(はいよう)した。一対、2つの足金物(あしがなもの)、革緒(かわお)や?(くさり)の帯執(おびとり)、そして佩緒によって吊る。これは中国大陸伝来の方法である。太刀というのは刀身が湾(彎)曲(わんきょく)してからの呼び方だった。直刀の時代は、大刀、横刀、剣(つるぎ・釼)、刀までもすべて「たち」と読んでいた。直刀には、その外形、構造にも違いがあった。切刃造(きりはづくり)、平造(ひらづくり)、両刃造(もろはづくり)とあるが、太刀は鎬造(しのぎづくり)のみである。

日本刀とは

「元寇(げんこう)」という言葉がいつから使われてきたかご存じだろうか。または「鎖国(さこく)」そして「日本刀」とはいつから使われ初めた言葉だろうか。実はいずれも幕末の頃からの用語である。日本固有の方法でつくられた刀剣というほどの意味になる。だから、どんな様式から日本刀というかは、研究者や関係者によってさまざまである。
 とはいえ、おおよその目安があって、ふつうは鎬造(しのぎづくり)で、優美な反りがある彎刀(わんとう)形式のものを指す。鎬というのは、いまもライバル同士が接戦をするようなとき、「鎬をけずる」などと使うことがある。刀身の刃と反対側の背(棟・峰)の間を刀身にそって走り、山の稜線のように高くなっているところを「しのぎ」といい鎬の字をあてる。
 古代の太刀は刀身がまっすぐ(直刀形式)で、平造(ひらづくり)か切刃造(きりはづくり)だった。平造は鎬がなく、断面がローマ字のV字形になる。切刃造は鎬はあるが、刃の方にそれがきわめて近く、断面が長方形と三角形を組み合わせたように見える。
 まず奈良時代から平安時代前期にかけて平造の「蕨手刀(わらびてとう)」が現われた。柄の先端、柄頭(つかがしら)の形態が早蕨(さわらび)が巻いているように見えるから命名された。次に出現したのがやはり平造で、柄反り(つかぞり)のある毛抜形刀(けぬきがたとう)である。
 蕨手刀は東北地方で開発、発達し、俘囚鍛冶(えふのかじ)が製作したエミシの剣といわれる。毛抜形太刀は衛府(えふ)の官人たちの野剣(やけん)とされたもので、儀式用の剣ではなく、実戦用のそれだった。いわゆる「衛府の太刀」といわれ、院政の時代には俘囚は「えふ」と呼ばれるようになったが、そのせいではないかという意見もある。毛抜形というのは、柄の中央にある細い溝が毛抜きの形に似ているからだそうだ。
 この鎬造の毛抜形刀は10世紀に入ってから現われる。初期の日本刀、茎(なかご)と区際(まちぎわ)に強い反りがあり、刀身の中ほどから先はほとんど反りがない。区際とは刀身本体と茎の境目を区(まち)というが、そこから湾曲が始まるのだ。興味深いのは、日本刀の反りは、馬上からの斬撃のときに斬りやすくなるからと解説されることがあった。しかし、あのような反りくらいではとてもその説明には納得しにくい。むしろ中国製の青龍刀やトルコの半月刀の反りなら納得しやすいが。
 日本刀は、折り返し鍛錬と焼き入れという、わが国独自の高度な製作技術で造られる。焼き入れによって焼き刃ができて、そこを研いで研ぎ刃となる。おそらく、あの優美な反りは鍛錬のさなかに収縮率の差で出来るのではないかと思われる。

反りの変化と刀

 平安末期から鎌倉の初期の太刀には、茎と区際に強い反りがある。そして刀身の中ほどから先はほとんど直刀である。これを「柄曲り腰反り(つかまがりこしぞり)」という。源平合戦の武者が佩いていたのはほとんどがこれである。これが鎌倉後期、たとえば「元寇」で知られる文永・弘安の役(1274年と1281年)の時代になると、刀身全体に平均した強い反りが見られる刀身が現われる。これを鳥居反り(とりいぞり)、輪反り(わぞり)という。これは鞘との関係が大きいと思われる。
 鞘から刀身を抜くときのことを考えてみよう。旧い腰反りの太刀の場合、峰を大きくすると、鞘の口をかなり大きくしなければならない。それに対して輪反り、鳥居反りは峰が大きくなってもかまわない。同じような湾曲度の場合、納めやすく、抜きやすくなる。
 いっぽう、刀(かたな)といわれる様式があった。栗形(くりがた)、返角(かえりづの・折金ともいう)、下緒(さげお)で構成される。栗形は下緒を通すものであり、返角は鞘に付く突起である。特色は刃を上にして左腰に帯(お)びて固定する。この様式はわが国の独自のものであり、湾刀とほぼ同時に出現したらしい。これ以後、「刀」は「かたな」と読むことになった。注意するべきは、中世の刀は、腰刀(こしがたな)、鞘巻(さやまき)などというが、刀身はいまでいう短刀である。無反り(むぞり)の平造(ひらづくり・断面がV字形)で鐔を入れることはない。

打刀(うちがたな)の発生

 平安末期以降から、打刀(うちがたな)といわれるものがあった。鎬造、あるいは、まれに平造の湾曲刀を、さきほど述べた刀様式の外装に収めたものである。太刀はもともと「打つ」、打撃を与えるものであり、打刀とは微妙な名前ではあるが、鐔をつけたので「鐔刀(つばかたな)」ともいった。
 室町時代以降(14世紀中ごろ)には、この打刀が長大な太刀にかわって多く作られるようになった。初めのころは刃長が1尺数寸(およそ50センチメートルほど)の短いものだったが、のちには2尺(約60センチメートル)をこえる長い刀身も作られた。こうして、外装のデザインを揃えた長短の二本差しが流行するようになった。これが近世江戸時代の武士身分を象徴する打刀大小を帯びる姿になった。そして、注意を要するのは、近世では大刀を「刀」、小刀を「脇差(わきざし)」というようになった。
 武士の刀は2尺以上であり、1尺8寸までを「大脇差(おおわきざし)」と称した。庶民は2尺以上の刀を帯びられないが、1尺8寸までは勝手に差して歩いていた。『稲妻や一尺八寸そりゃ抜いた』などという川柳が詠まれた。また、たびたび庶民に帯刀を禁じる法令が幕府から出たのも、いかに無法者が大脇差を差して大手を振って歩いていたかの証拠になる。
 まとめておこう。中世と近世では、同じように「刀」といっても、実態が異なる。中世では「短刀」のことをいうが、江戸時代には「打刀」をいう。打刀の反りは、先反りである傾向があるが、おおよそ太刀よりも反りは小さい。
 笄(こうがい)や小柄(こづか)、火打ち石を入れた燧袋(ひうちぶくろ)についても説明しよう。笄は先端に耳かきがついた髪を整えるもの、小柄はペーパーナイフや爪削ぎにも使った小刀をいう。これらを刀の鞘の表と裏につけた。燧袋もぶらさげるのも普通だった。日常の携行するバッグがなかったので、刀につけて運んでいたと考えられる。
 次回では、いよいよ武士の表芸とされた弓射の道具、弓箭(ゆみや・きゅうせん)について詳しく紹介しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)8月1日配信)