陸軍経理部(8)

ご挨拶

 大活躍でしたね。とりわけ女子選手が華やかでした。北海道なまりの言葉をかけ合い、いつも笑顔で励まし合うカーリング娘たち。すばらしい結果を見せてくれました。
 ところで、今回はNKの美女応援団や音楽隊について、あまり騒がれませんでした。少なくともマスコミの扱いもずいぶん減っておりました。面白かったのは韓国での評判でした。「田舎くさい」という印象を語る人が多いとで、ずいぶん韓国人も成熟されたと思いました。
 今後、いったいどうなってゆくのか。オリンピックの興奮が去ったあとが気になっております。今回は具体的な兵営の暮らしの一部をお伝えします。

陸軍の炊事勤務

 戦前の軍都ともいわれた陸軍の衛戍地(えいじゅち)にはほとんど歩兵聯隊があった。分散配置とでも言うべきか、大正の軍縮時代には大隊規模で分屯したこともあったが、ふつう全国の府県には最低1つの歩兵聯隊があったといっていい。動員がなかった平時では、3個大隊(合計9個小銃中隊)と機関銃中隊で構成されたから、10個中隊。中隊は120人の下士兵卒がいたから、1200人が3度の飯を食べていた。
 3食分の食材を企画し、発注するのは聯隊本部経理室だが、それを食事の形にするのは一般の兵隊である。これが海軍のように調理の専門家がいない陸軍の特徴だった。もともと陸軍がある地に「駐屯」するのは臨時のことに過ぎない。いざとなったら鍋釜担いで出征する。戦場に出たら中隊単位で行動し、誰もが炊事もしなくてはならなかった。だから、専門家などはいなかったのだ。
 中隊の人事掛(かかり)の特務曹長(准士官・のちに准尉)の目にかなえば、臨時勤務を命じられて3カ月の服務期限を限って炊事場に出向していた。もっとも、人事掛は軍隊の古狸でもある。入営前は地方(一般世間)で板前だったなどという人がいたら、その人を指名して、3カ月過ぎたところで1日だけ別の配置にする。その翌日にまた発令である。そうすれば『臨時勤務は連続3カ月以上の上番を禁じる』といった規則に触れることはない。
 これに対して海軍には調理専門の人事コースがあった。主計兵である。主計科の中に烹炊(ほうすい・煮炊きのこと)と事務方(経理事務)の2つのコースがあった。
 帝国海軍の堂々たる軍艦の中で、『すっとんとん すっとんとんと菜っ葉切る・・・』という自嘲気味の歌があったらしい。高橋孟さんという方の主計兵物語の中にあった。調べてみると、海軍兵の中にはちゃんと調理専門の人がいた。主計科下士官に厨宰(ちゅうさい)と筆記(ひっき)という官名があった。大正9(1920)年に「海軍武官官等表」にあわせて「海軍兵職階表」も改訂された。どちらも主計兵曹に統一されたのだ。兵も同じで、「主厨(しゅちゅう)」から主計兵に改められた。とはいえ、仕事の中身が変わるわけではない。高橋さんもエプロン、長靴姿で包丁を振っていたことは変わらなかった。

炊事兵の勤務

「古兵殿、起きてください。午前2時であります」。静かな寝息やいびきが聞こえる内務班の中で、ひそひそとした声があった。中隊廊下から不寝番がそっと足音をしのばせてきて起こすのだ。炊事場勤務の2年兵を朝食準備に行かせねばならない。炊事兵はといえば、消灯ラッパ(午後10時前後であり、衛戍地や部隊、季節によって異なる)が鳴るまでは横になることはできなかった。
 夕食が終わり片付けと翌日の準備があるから内務班に帰ってくるのはラッパが鳴る30分前あたり。日夕(にっせき)点呼前である。とても十分な睡眠とはいえなかった。その代わり、昼食の片づけが終わって2時間ほどは炊事場で仮眠をとっていたという。とはいえ、ゆったりした環境ではないから、いつも睡眠不足だったことだろう。
 今も集団給食があるところは同じだろうが、炊事場には大きな蒸気釜があった。それで、1200人分の米と麦を炊き上げるのである。その量は、せんだっての川島少将の論文によると、朝食で胚芽米200グラム、圧搾麦62グラムという。ざっと白米240キログラム、麦が74.4キログラムである。米は炊くと体積が2.4倍になる。白米は576キログラムにもなった。だからさすがに円匙(えんぴ=土工用のスコップ)は使わなかったものの、巨大なしゃもじを振り回して、麦と米を混ぜ合わせていたようだ。この大しゃもじが時として、新兵への制裁にも使われたというから恐ろしい。
 炊事場の監督責任者は炊事軍曹といわれた半分プロである。半分というのは、衛生管理や調理業務にまったく素人では勤まらない。中央の経理学校の下士官課程の教育を受けるようになっていた。それは特技になっていて、人事管理上も考慮された。

献立の作成

 献立は1週間分が決められる。それは聯隊の経理委員首座である高級主計(大尉もしくは少佐)が聯隊附医官の意見を聞いて作られた。そこで大事にされたことは「栄養」、「経済」そして「嗜好」である。軍隊では当然、最優先されるのが栄養であり、次に経理上の整合性、そして喫食者の好みだった。
 栄養はとりわけ重視された。聯隊医務室では毎月の健康診断で下士兵卒の体重も管理し、栄養価についても医官はうるさくチェックした。経理上の整合性は、陸軍独自の委任経理(部隊長権限で与えられた金品を裁量する)のこともあり、師団司令部経理部長の決裁を得た賄料(駐屯地ごとに多少の増減があった)を考慮しなくてはならない。また、嗜好は重要な項目であり、食事を楽しみにする兵隊が多く、残菜が多いことは経理委員の責任とされた。
 陸軍では食材を「植物性」と「動物性」のそれぞれに分け、これに調味料、嗜好品類、栄養食の5つに区分していた。植物性食品とは、たとえば「穀類およびその製品」として、米(日本米と外米)、麦類(大麦、小麦、ライ麦、燕麦)、雑穀類(粟=アワ、黍=キビ、トウモロコシ、高粱=コウリャン、蕎麦=ソバ、稗=ヒエ)、穀類製品としては圧搾麦(押し麦のこと)、小麦粉、パン、饅頭(まんじゅう)、素?(そうめん)、圧搾口糧(戦用糧秣)、乾麺麭(かんめんぽう=乾パン、戦用糧秣)を挙げている。
 もう少し続けよう。「豆菽(とうしゅく)類」と読む。大豆、小豆は読めるが、菜豆(なまめ=インゲンマメ)と豌豆(エンドウ)は読みにくい。落花生(ラッカセイ)はいいが蚕豆は読めなかった。調べたら「さんとう」と読んで、ソラマメの漢名だという。それらの製品は豆腐、油揚げ、凍豆腐(こおりどうふ)、納豆、豆素?とある。根菜類は長根類として大根、蕪菁(むしょう=カブ)、人参(ニンジン)、牛蒡(ゴボウ)、蓮根(レンコン)、塊根類(かいこんるい)として甘藷(カンショ=さつまいも)、馬鈴薯(バレイショ=じゃがいも)、里芋(サトイモ)、蒟蒻(コンニャク)だった。
 漬物類もある。沢庵漬、浅漬、塩漬、味噌漬、粕漬、福神漬、糠味噌漬だった。動物性食品の中には、?(するめ)、身欠鰊(みがきにしん)、乾鱈(ほしだら)、貝柱。?蔵品(あんぞうひん)という項目もあり、塩鮭(しおさけ)、塩鱒(しおます)、塩鱈(しおたら)、塩鰤(しおぶり)、塩鯖(しおさば)とまるで漢字難読クイズになってしまう。
 最後に、調味料を見てみよう。香辛料の中には、胡椒(こしょう)、山椒(さんしょう)、唐椒(とうしょう=とうがらし)、芥子(けし)、生姜(しょうが)、山葵(わさび)、葱(ねぎ)とカレー粉がある。この他、ハムやベーコン、仙台味噌に田舎味噌、三河味噌などが出てくる。三河味噌は近頃、登録商標問題で話題になった八丁味噌のことだろう。名古屋の兵隊さんはこの赤味噌が好みだったのだろう。

「副食物一人一回標準分量」

 とにかく書類仕事が陸軍である。もちろん、こういう細かい給与規定など無視してどんぶり勘定で失敗したのが明治維新新政府の倒幕志士あがりの高級将校だった。そこで監督部(経理部の前身)ができたわけだが、この細かさを見よ。
 副食物材料として獣肉は150グラム、ただしこれ一種のみのときである。たとえば豚カツなどはこれにあたる。ところが他の材料と合わせる場合、肉野菜炒めなどだと110グラム、味付添物や汁ものは70グラム、カレー汁やシチューとかだろう。同じように、塩魚肉だと、それぞれ120、100、80グラムとなり、豆腐は300、150、100グラム、缶詰肉だと75、40、25グラムとなっている。生野菜は400、300、150グラムであるから、なかなかのものだった。この他、調味料や揚げ物に使う揚げ油なども規定してある。
 これらを勘案していよいよ献立になる。ところで、炊事兵の仕事は洗い物係り、下ごしらえ係り、煮方・焼き方と昇格していったようだ。その詳細も伝わっている。野菜の切り方は一例だが、乱切り、木口(こぐち)切り、千切り、賽の目(さいのめ)、短冊(たんざく)切り、みじん切り、ささがきなどにされていた。
 みそ汁は陸軍が必ず出した汁ものだ。その具は、「旬(しゅん)」の物が尊ばれた。今でこそ栽培方法や流通に工夫され、露地物ではない季節外れの野菜も食べられる。当時は決してそんなことはない。また旬のものは一番流通も多いから値段も安く、まとめ買いをすれば賄料が安く抑えられ、積立金が増えて、祝日行事では少し贅沢な物が出せる。そう考えて献立をつくった経理官もいただろう。毎日、毎日、大根ばかりだとか、茄子の季節だから毎日みそ汁の具が茄子で飽きたという苦情もあった。

広島第5師団の献立表(昭和10年)

 朝のみそ汁は豆腐と京菜、油揚げが具になっている。豆腐は規定通り70グラム、油揚げが10グラム、京菜は130グラム、出しにした削り節は5グラム、赤味噌55グラム、京菜の漬物が65グラムである。主食は胚芽米200グラムと圧搾麦62グラムだった。以下、数字の後の単位はすべてグラムなので省くことにする。胚芽米200グラムは炊き上げれば480、麦も約2倍の120になる。朝食から米麦で600となり、普通の茶碗で3~4杯にあたる。
 昼食では主食は朝と同じ。副食が肉うどん、これは豚肉が45、乾燥うどん25、長ネギ150、にんじん20、ごぼう50、醤油48ミリリットル、辛子漬けが15、それに番茶0.5となっている。
 夕食も主食は朝昼と同じ。1日でやはり、白米600、圧搾麦約200を摂っている。おかずは鱧(はも)のフライ100、これには鶏卵10、小麦・パン粉で40、ラード20、タマネギ200、煮干し(すまし汁のだし)10、たくあん45で番茶が0.5だった。
 この他には、シチューなどがある。牛肉15匁(56.25)をタマネギ、バレイショと煮込んだものだった。

陸軍糧秣本廠の推奨献立

 また春季の献立として、陸軍糧秣本廠から出された「四季標準献立表」には「吉野煮(よしのに)」という副食がある(昭和12年)。イカ75、大根150、タケノコ150に生姜を1.13加え、砂糖7.5を加えた醤油36ミリリットルで煮込んだものである。また、「卵とじ煮」という豚肉37.5に牛蒡112.5、タマネギ112.5、麩7.5を砂糖醤油で煮て、上から卵37.5でとじた物である。パン食も推奨されていた。その場合には白いんげん豆112.5を砂糖56.25を加えて煮た「豆つぶし」という副食が出た。
 そして夏の推奨献立は「ライスカレー」である。豚肉37.5、タマネギ37.5、ニンジン18.75、ジャガイモ18.75、カレー粉0.38、小麦粉11.25、胡椒0.38、食塩3.75、ラード7.50というものだった。よく小麦粉を炒め、ラードを加えてルー状にして、野菜の炒め煮に溶いていれたという。またコロッケの中には鮭缶を開いてジャガイモを混ぜることも内容に書かれている。
 冬季の推奨献立を通してみよう。いずれも副食だけを挙げておく。バラエティに富んだ献立であることが分かる。
日曜、粕汁・肉うどん・鯖味噌煮(順に朝・昼・夕)
月曜、味噌汁(卯の花・葱)・牛肉煮込み・けんちん汁
火曜、粕汁・旨煮(イカ・焼き豆腐・レンコン)・薩摩汁(豚肉他)
水曜、味噌汁(豆腐・青菜)・牛缶詰肉煮込(バレイショ・タマネギ)・豚豆腐
木曜、粕汁・魚麺(イワシ・そうめん)・鯖の照り焼き(小松菜の付合)
金曜、味噌汁・豚カツ・萩餅と豆腐汁
土曜、呉汁(大豆・葱・大根)・カレー(牛肉)・鮭フライ
 このように、陸軍は兵食については「国民中等」の食事の提供を心がけた。それは洋食が重視され、あるいは油脂類が多く、ほんとうの(兵隊が育ったような)一般家庭の暮らしとはずいぶん異なっていたというのが実態だった。手元に大正末期の主計官の手記があるが、N県O市の新入営兵の実態である。家庭で白米食をすべてしていたのは、わずか18%でしかない。米麦混食も28%であり、麦しか食べていなかったという兵も30%を数えた。あとは雑穀や混食である。
 中学から経理学校を出て主計官になった彼にとっては驚かされたのは、軍隊で初めてまともな肉を食べたという兵士の言葉だった。
『兵隊ごとは地方の仕事に比べて楽チンであります。朝はラッパが鳴るまで寝ていていいし、夜になればさっさと寝ろといわれる。まさに極楽とはこのことであります』
『具合悪くなれば、軍医官に診てもらえと連れて行ってもらえて、薬もくださる。飯はコロッケやカツが食える。甘いものまで下さっております。こんな美味しいものを家族は食べておりません。申し訳なく思っております』
 これが大正、昭和初めのわが国の実態の一部だったのだ。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)2月28日配信)