陸軍経理部(4)
はじめに
経理部のお話ですが、あえてエピソードを中心に書き連ねています。最後に全体像をつかまえていただこうかと考えています。そのため、制度の時系列の順にはなっておりません。その代わり、重複を恐れずに時代背景や社会状況を入れております。
将校相当官という言葉
陸海軍を問わず、士官以上は将校と相当官に区分された。将校という言葉の起こりは諸説あるが、その一つを紹介する。将とは軍隊を指揮する者をいい、校とは方形の木の枠組みだったという。昔の商家で番頭さんが、帳場といい事務机の前や左右に立てていたものが似ている。古代では「将」は人の肩に載せられた木枠の中から部隊を指揮した。それが「将校」という言葉の起こりだったらしい。
つまり、士官とは身分をいい、将校とはそのうちの職務区分を表したものだった。近代陸海軍を興したとき、高等官(奏任官)以上を士官とし、さらに細分して上長官、将官とした。西欧軍隊でいう国王陛下からの信任状をもつ者を、英語ではコミッションド・オフィサー(C.O.)という。これは江戸期から続く封建意識の持ち主たちにも理解しやすかった。主君への面接権がある者が士だったから「昔でいえば、天皇陛下のお旗本だ」と威張った人もいたらしい。
兵科区分の発祥は明治5(1872)年であって、砲兵・騎兵・歩兵・工兵・輜重兵に分けた。もっともこのころは、「自分は砲兵だ」と言えば砲兵になったらしい。翌年5月には陸軍武官官等表ができてた。1等官の大将から9等の少尉までが士官、10等の准士官はまだなく、11等の曹長、12等が軍曹、13等が伍長となった。このときの大将は西郷隆盛がただ1人だった。
これを見ると、将官は大・中・少将と相当官として会計部監督課に監督長(少将相当)、軍医部には軍医総監(同前)しかなく、司契課には一等司契(中佐同前)、糧食課・被服課・病院課に軍吏正(少佐同前)、裁判所囚獄課に大尉相当官の1・2等軍吏があるのみである。もっとも、のちに獣医部になる馬医部にも少佐相当の馬医監しかいなかった。すべて所帯が小さかったころの話である。
将校とは兵科士官だけを指した。それは軍隊の指揮権がある士官だからだ。そういうと「いや、うちの祖父さんは主計将校の大尉だったと聞いている」
などという反論が出そうだが、それは1937(昭和12)年に各部将校という言い方ができてからだった。だから主計将校も正確には誤り。経理部将校であり、官名が主計大尉だったというのが正しい。そして経理部の部隊はなかった。同じように衛生部の軍隊はなかったのである。
陸軍の組織は、軍隊・官衙・学校・特務機関となる。軍隊とは師団-旅団-聯隊以下の諸隊をいい、戦闘力を発揮する集団である。官衙とは世間でいう役所のことで、陸軍省はじめ司令部、工廠などをいう。学校は軍人を作る補充学校と兵科ごとの実施学校などになる。特務機関はスパイや謀略とは関係がなく、陸軍将校生徒試験委員や元帥府、軍事参議院、侍従武官府、東宮武官(皇太子付き)、皇族王公族付武官、外国駐在員などをいう。
このうち軍隊の指揮官には将校しかなれなかった。他の官衙や学校、特務機関の長官には相当官もなることができた。経理部将校を養成する(当時は補充という)経理学校長は、たいていが主計総監やのちに主計中将がなったが、師団長や聯隊長、どころか小隊長にも各部将校はなることができなかった。相当官とはあくまでも「その官階の将校に相当する」という意味で、戦闘部隊を指揮することはなかったのである。
ただし、1937(昭和12)年には「将校相当官」という言葉はなくなった。同時に、主計総監は主計中将に、3等主計正は主計少佐、1等主計は主計大尉に変えられた。このときに各部将校といわれるようになり、衛生部も軍医少将、軍医中佐、軍医少尉、薬剤大佐、薬剤中尉、衛生大尉、軍楽部も軍楽少尉などと兵科と同じ階級名を使うことになった。
さまざまな不公平な扱い
陸軍将校には命課布達式という盛大な儀式があった。士官学校本科をおえて、原隊に復帰する。時代によってちがうが、3か月あまりの見習士官勤務を終えると、聯隊将校団の銓考(せんこう)会議を経て、晴れて陸軍少尉に任官した。見習士官というのは兵科将校の言い方で、経理部では見習主計、衛生部では見習軍医などといい、それぞれ各部曹長と同じ服装である。帽子だけは士官用のものを着けていた。それは見習士官は士官・主計・軍医・薬剤・獣医の各候補生(のちに技術も加わる)だからである。
それが将校用の服装になり、将校用の襟章に金筋が1本入り、星が1つ輝く。指揮刀、もしくは軍刀も将校用のものになった。聯隊の全員が整列する中、壇上に新少尉たちを従えた聯隊長が全員の注目を集め、
「天皇陛下の命に依り、・・・以後、同官に服従し、その命令を遵奉せよ」
と宣言する。部隊は捧げ銃の敬礼を行ない、全員が新しい少尉たちの顔に注目し、それから分列行進を行なった。
この捧げ銃と注目の敬礼は、昔の軍隊の、「生殺与奪の権」をもつ軍隊指揮官だけへの敬礼だという。だから兵科将校にだけ行なわれる敬礼だった。自分の命に直接関わる命令を下す指揮官の顔を確認する、そうした意味があったらしい。
「ちぇっ!あれ主計だった。損したぜ」
という聞こえよがしの兵隊の捨て台詞を聞いたのは夕方のことだった。
S見習主計は営門から公用で外出し、向こうから帯刀した曹長に率いられた演習帰りの小部隊が近づいてくるのを見た。
部隊指揮をとる曹長が、
「歩調とれっ!」
と号令をかけると、兵たちは一斉に銃を担ぎなおし、手をそろえ、膝をあげ、歩調をそろえて行進を始める。斜め4歩ぐらいのところで曹長は「敬礼っ!」と叫ぶと右半ば右をして見習主計に挙手注目の敬礼を送った。「直れっ!」の号令がかからないうちは兵たちは歩調を取りつづけ、注目もすることもやめてはならない。
そして通り過ぎてから、将校勤務である見習士官ではなく、見習主計であることに気づいた者がいたのだろう。「きちんとやらされて損した」という不満がつい口をついたのだ。兵科将校でなければ、たとえ軍医大佐だろうが、主計少佐であろうが、歩調を取り、敬礼は要らなかった。「気をつけ!」の号令をかけ、指揮者だけが挙手すればよかった。
営門の出入りも同じだった。兵科少尉には衛兵司令以下、控えの衛兵もバネ仕掛けよろしく全員が立ちあがり、直立して司令の「敬礼!」の声で目視目送した。それが主計大尉には司令だけが立ち上がり敬礼する。衛兵も姿勢は正すが立ち上がることなく、まっすぐ気をつけの姿勢をとるだけだった。
礼式の矛盾は他でも起こった。経理学校長は主計少将、もしくは同中将だった。ところが候補生たちの指導官には兵科将校のポストがあった。生徒隊長は兵科中佐である。壇上にあがった校長閣下には「指揮官の敬礼」、すなわち各部隊の指揮官だけが挙手の礼、生徒たちは気をつけで姿勢を正すのみである。続いてあがった生徒隊長には、全員が挙手・注目の敬礼を行なった。武装していれば、全員が捧げ銃の敬礼を行なわねばならなかった。
主計さん
聯隊本部での出来事である。兵科の下士官が入ってきて、
「あのう、主計殿!」
兵科大尉から転科した1等主計は怒った。
「1等主計殿といえ!」
ふつうの会話ばかりか、戦後になっても兵科将校たちの手記などにも、「○○主計正が・・・」というような記述が見える。主計は1から3等に分かれ尉官相当官である。主計正は同じく3階級に分かれ大佐から少佐の相当官になる。兵科将校なら少佐と大佐をいっしょくたにはしないのだろうが、経理官にはこのような扱いをすることもあった。
ある聯隊長が怒ったという。宴会の席でのことだった。杯が回っていたときに、みな聯隊の高級主計(のちの主計大尉)に向かって、「主計さん」と呼びかけていた。聯隊長は、「軍隊に『さん』、という言い方があるか!高級主計殿となぜいわぬか!」
と怒ったという。
面白いのはこうした風潮を弁護する人もいた。それは陸軍士官学校の先輩、後輩の間では、私的な会合などでは、先輩をあえて「さん付け」する気風もあったという。そこから「主計さん、軍医さん、獣医さん」という言い方があったらしい。また、大尉殿、中尉殿ならいいやすいが、1等、2等、3等などとは言いにくい、そこで主計さんという言い方がされたともいう。そうしたことから、階級名の改正で大・中・少が使われるようになって良かったという思い出もある。
いまの陸上自衛隊では、1等陸尉(大尉)をイチイ、2等陸尉(中尉)をニイ、3等陸尉(少尉)をサンイと言っている。各部も自衛隊にはなくなったから、すべてそれで通じるようになった。もっとも部外者にとっては、イッサ(大佐)よりニサ(中佐)、それよりサンサ(少佐)が上ではないかと混乱することもあるだろう。数が多いほうが上だろうという誤解である。社会一般に1等、2等、3等という格付けが、運動会の徒競走ぐらいしかなくなった珍しさもあるに違いない。
なお、大・中・少は古代の律令官制のなごりであり、大はつかさどる、少はたすけるという意味で、中はその間ということから名づけられた。大納言、中納言、少納言などといわれたからである。
悲劇M事件が起こった
朝鮮会寧は朝鮮と満洲の国境を流れる豆満江沿岸の小さな町である。歩兵・工兵・重砲兵聯隊のほかに航空隊も駐屯する軍都だった。
事件は1941(昭和16)年6月、重砲兵聯隊(第19師団所属)の創立記念日の祝宴の場で起こった。聯隊高級主計のM主計中尉が軍刀でY兵技中尉を斬殺してしまったのである。しつこく経理部をおとしめ、経理部の悪口を言い続ける兵技中尉を一刀のもとに致命傷を負わせ、自らもその場で割腹自殺を図り、周囲に押え込まれ憲兵隊に逮捕され、拘禁所に移送されてしまった。
M主計中尉は復活した経理部士官候補生出身だった。1936(昭和11)年に募集された久しぶりの現役主計候補生の第1期生である。合格採用者30名(ただし卒業は26名)に対して3000名あまりの応募があった。陸軍士官学校には近視などのために受験できなかった、そうした若者たちが殺到したのである。ちなみに陸士は裸眼視力1.0以上、陸経は矯正視力0.6以上でよかった。
昭和14年9月に経理学校卒業、11月に主計少尉に任官したMは東京都出身、東京高等師範学校附属中学校卒業の秀才だった。この中学校はのちの東京教育大附属高校、現在の筑波大学附属高校にあたる。歩兵第75連隊で見習主計勤務を終えて、少尉に任官。15年12月に中尉に進み、16年3月に新編の重砲兵聯隊の高級主計になったばかりだった。
裁判が行なわれ、同期生による弁護が行なわれた。判決は懲役であり、おそらく事情に酌量があったからだろう。この加害者は兵科将校と変わりない教育を受けてきたのに、いわれない差別的言動や蔑視に耐えられなかったのだろう。また、被害者がやはり技術部の兵技将校だったことに特徴があると思われる。技術部もまた兵科ではない。
技術部将校が一本化されるのは大東亜戦中のことであり、当時は兵器技術(兵技)と航空技術(航技)の2系統があった。Y中尉の出身は分からないが、おそらく兵技下士官から進級してきた将校だったのではないだろうか。陸士、もしくは高等工業や大学工学部出の技術系将校は技術部に移りたがらなかった。
ここで説明しておこう。海軍は技術科士官は造船、造機、造兵、水路とコースが分かれ、専門が明らかだった。帝国大学の造船学科や造機・造兵学科を出た学士であり、あるいは高等工業を出たインテリばかりである。海軍兵学校を出て、操船や運用などを学ぶのが兵科士官、いくら海兵が秀才でも、技術に関しては大学、高工出にかなうわけはない。また海軍機関学校も機関科将校を育てるところであり、設計や製作、研究などを本務とするわけではなかった。
ところが陸軍では、砲兵・工兵の技術系将校という制度があった。これも大学や高工の卒業生であり、ただし兵科将校に採用されて工廠や研究部門で働いていた。さらに砲兵と工兵の学校で優秀な成績をおさめた者は選ばれて帝国大学などに派遣された。こうした将校たちは決して、技術部に移ろうなどとは考えなかったらしい。
いじめられ、差別されていた人は、より弱い立場の人をいじめて憂さ晴らしをしようとする。兵技中尉はたたき上げの現場の技術者である。つらい、哀しい思いを味わっていたのだろう。(以下、次号に続く)
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)1月31日配信)