陸軍経理部(37) ―軍馬の話(23)

ご挨拶

 当地では、先日までの猛暑から一転、肌寒い雨模様の空が続いています。大きな自然災害が相次いで起こり、なんとも不安な日々です。
 それにつけても大阪での台風被害、北海道の胆振(いぶり)東部地震、次々と自衛隊には災害派遣が続き、隊員の皆さんもお疲れ様です。なかにはご家族やご自身も被災者という例もありましょう。そうしたなかでも、懸命に一般の国民のために尽くされている姿には感謝という言葉だけでは伝えきれない思いがあります。
 かたや、いまだに自衛隊を改編して災害救助専門組織を作るべしなどという妄言も聞かれます。また、自民党総裁選でも「9条2項」の問題にこだわる石破さん。どうしちゃっているのでしょう。正直もいいのですが、「とにかく隊員の皆さんが誇りをもって働けるように」という現首相の言葉にわたしは軍配をあげてしまいます。
 また、先日は自衛隊についての「心ない」論説に出会いました。多くの読者はご存じかと思いますが、K大学の某研究所上席所員という肩書の方の「自衛隊幹部低学歴論」です。一読して、こういう記事に納得する、あるいは快感を得る方々がまだいるのかということに驚きをもちました。自衛隊に不案内な読者の中には、そうした人が少なからずいるのかという思いです。わたしなどは経済界のことなど何も知らず、世間に疎い方ですが、有名なネット記事であると聞いてほんとうに驚いています。
 自衛隊の幹部(国際的には将校)の半数以上が高校卒でしかない、中には中卒の1佐(大佐)までいるという「事実」の指摘がありました。その通りです。しかし、それは自衛隊という組織が内部教育を重視し、あわせていわゆる学歴(学校歴)にこだわらない人事を行っている証と思います。
自衛隊は高卒の方でも、あるいは中卒の方でも1佐になれるのです。1佐といえば数百人から千人をこえる隊員を指揮するポスト。上席所員の方の感想とは異なり、わたしは武装組織での指揮・統率は学歴のおかげばかりでは育たないことを実感しています。
将校たる者、修士をもっていればまずまず合格、博士課程ならなおいい、米軍に比べてひどく劣っていると筆者はいわれます。しかし、それは日米両国の「社会のありかたや歴史」をいっさい考慮しないただの数字比べでしかありません。自衛隊は多層で、多重な現場社会を背負っています。それは日米両国どちらも同じですが、わが国社会は個人の特性や能力を重視する「個人社会」の米国と異なり、それぞれが自分の役割を果たすことを重視する「役割社会」の伝統をもっているのです。
組織の中での人の評価は、わが国の場合、いかにそのポストにふさわしい能力を発揮するかで決まります。将校(幹部)の仕事も多様です。役割期待もまた様々です。そのランクやポストによって果たすべく要求される能力も異なります。それにふさわしい力が上席所員の方がいわれるように大学卒や修士課程、博士課程修了という学校歴だけで養われるとは思えませんが。
また自衛隊幹部の「能力の低さ」の例として、「機動」の解釈を語られていますが、どこで、誰がどうしたということも明示せずに、風評にしか過ぎないことを大げさに言いたてる書き方はわたしの好みではありません。上席所員の方は有名私立大卒、同私立大学院の安全保障講座の博士課程を修了されています。いわば、学歴的には専門家のはず。そうであるのに、自衛隊の組織を語るにはあまりに大ざっぱな学歴重視論をいわれているような気がします。
一点、同意できる提言は、現職幹部には公費で大学に行かせろ、というのはなかなかの指摘です。ただ、その財源を正面装備を減らせばいいというのは、あまりに素人くさい発想です。人事・制度は簡単に動かせるものではありません。社会の中でのその改変の効果や、見積もりを明らかにしなくてはなりません。たださえ、人手不足、課題が山積する自衛隊の中のことです。
 一見、結論は自衛隊幹部の低学歴を憂え、その対策を自衛官の見方側に立っておられるような書き方です。しかし、「高学歴の安全保障専門家」にしては、いささか陳腐な主張であられると申し上げておきます。

弓箭(ゆみや・きゅうせん)と装具

 ただの自然木を使っての弓から、苦竹(まだけ・にがたけ)を使った合せ弓(あわせゆみ・伏竹弓ともいう)への進化はすでに説明した。源平争乱時代にはその転換期ではなかったか。それでは矢(箭)はどうだったのか。今回は詳しく説明してみよう。
 まず、矢の各部の名称から。構成は矢羽、鏃(やじり)、?(やがら)である。種類がある。軍陣で使う戦闘用の征矢(そや)、狩猟に使う野矢(のや)あるいは狩矢(かりや)、歩射(ぶしゃ)競技用の的矢(まとや)と用途別があった。どこが違うかといえば、鏃の種類と矢羽の矧ぎ方(はぎかた)である。
 ?は中世では篠竹(しのだけ)をよく用いた。篠竹は根笹の仲間の総称であり、細い。武家の庭にはよく植えられていたという。司馬遼太郎氏の『燃えよ剣』では、少年期の土方歳三が実家の庭に植えていたとのエピソードを書いている。矢竹を箆(の)ということから篠竹製の?(やがら)を箆ということから、?を箆をほぼ同意義とする。
 征矢には「かたの」という堅い三年竹の箆を最上とした。表面に黒漆(くろうるし)を塗った塗箆(ぬりの)や、箆にある節の部分に黒漆を入れて補強して、その上下をぼかした節影(ふしかげ・あるいは節黒)などを用いる。この箆の堅さといったら相当なもので、絵巻や画像で、しばしば武士が背負った箆が折れているものもあるが、戦場での動きのすごさを表現しているものだろう。
 『今昔物語(こんじゃくものがたり・11世紀に成立したとされる)』の中に、兄である荘園領主のために箆を整えている「大力(だいりき)の女性」の話がある。盗賊に人質に取られて胸元に腰刀を突き付けられ、泣きながら手元の箆を指2本で潰す淡々とした描写がかえって恐ろしい。それを見た盗賊はすっかり怯えてしまい、素直に女性を離して縛につくという話だが、箆はそれほど堅いのである。
 有名な毛利元就が3人の息子に諭した逸話もある。3本も束ねれば壮年の武者でも折ることは難しかったという。

矢の長さと矢羽

 矢の長さはいささか曖昧である。矢の長さを矢束(やつか)という。成人男子の握りこぶし(上から見て指4本)を一束(いっそく)として、それ以上は指1本を一伏(ひとふせ)として数えた。もちろん標準はあった。十二束(つか)である。古代の遺品では鏃を入れておおよそ80センチ弱だが、中世では90センチあまりの長さになっている。おそらく、合せ弓になったことから弓の弾力性が増し、矢束も長くなっていったのだろう。
 箆の端には彫(えり)という切りこみをつけて弦(つる)をかける矢筈(やはず)とした。箆に直接切りこみを入れた?筈(よはず)が主流で、別の竹の節や、木、角などで筈だけを作り、箆に差し込む継筈(つぐはず)があった。戦闘用の征矢は、たいてい直に切りこみをいれた?筈だった。
 矢を回転させ、安定した軌道を生むのが矢羽(やばね)である。大型の鳥の翼や尾羽(おばね)を使う。これらを保呂羽(ほろば)といったらしい。鷲(わし)、鷹(たか)、鴇(とき)が愛された。とりわけ鷹は真鳥羽(まとりば)といわれて珍重されたという。鷲はオオワシである。この14枚の尾羽の斑文(ふもん)には個性がある。白と黒褐色の混ざり具合が斑になるが、切斑(きりふ)、中黒(なかぐろ)など斑文ごとに区別し、黒保呂(くろほろ)などと部位の名称で名を付けていた。これが所有者を、つまり戦場では、誰が射たものかを明らかにすることになる。「元寇」の重要資料である「竹崎季長蒙古合戦絵詞(えことば)」では、それが明らかに描き分けられている。
 矢羽はこうした羽を羽茎(はぐき)から半分に裁って使われる。この羽の枚数で、二立羽(ふたてば)、四立羽(よたてば)、三立羽(みたてば)に分けられた。二立羽は上下2枚が貼られた儀式用のもの。四立羽は二立羽の左右に、幅がより狭い小羽(こば)をつけて軌道を安定させためのものだが、矢は旋回しない。そのため、鏃には扁平なもの、狩猟用の野矢に使われた。
 戦闘用の征矢や競技用の的矢には旋回する三立羽が用いられた。羽3枚を半裁して、羽の表裏をそろえて矧(は)ぐ。ところで、「矧ぐ」というのは矢竹に羽をつけて矢にするといった意味をもつ動詞である。
 興味深いのは、矢には左旋回と右旋回があった。左旋回を甲矢(はや)といい、右のそれを乙矢(おとや)という。これで2隻(せき)を組んで諸矢(もろや)といった。なお、隻とは矢を数える単位である。この諸矢という風習のため、征矢と的矢は装備する時、何隻を用意するかといえば必ず偶数になった。

鏃(やじり)のこと

 鏃の機能は、「射通す」、「射切る」、「射砕く」に大別できた。旋回する征矢の場合は、火箸(ひばし)の形状のような丸根(まるね)系統があった。この系統という言葉は、近藤好和氏が採用されている。また、鍛えられ、刃をつけた鎬(しのぎ)がある柳葉(やないば)や槇葉(まきのは)系統もあった。これらは鎧や敵の肉体を射通すためのものである。
 回転させない四立羽の野矢の鏃には、狩俣(かりまた)と尖根(とがりね)があった。狩俣は二股に分かれたものでU字型である。この内側の刃で射切ることを目的とした。手首などに当たれば、すっぱりと落とされてしまうだろう。この狩俣にはふつう鏑(かぶら)を付ける。鏑は内部が空洞になっている蕪(かぶ)のような木や動物の角(つの)などの先端に数個の穴を開けた。飛翔すると大きな音をたてた。笛のようなもので、もとは獲物を威嚇し、その動きを封じるものだった。
 中世になると、「鏑矢(かぶらや)」という言い方が広まり、狩俣の矢に鏑が付けられたものを指すようになった。これを戦時では、征矢の表差(うわざし)として2隻を必ず加えていた。これは開戦の最初に、互いに射合うためのものだった。そうして朝廷の儀式である五月の騎射(うまゆみ)のとき、また武士の流鏑馬(やぶさめ)にも使われる。
 おそらく蒙古襲来でも、開戦にあたっては敵勢に向かって射られただろう。それを蒙古軍が嘲笑ったという記録もあるが、後世の創作、たとえば鎌倉武士に悪意をもった『八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)』などの影響だろう。京都の朝廷に関わりが深い寺社の書き手は鎌倉武士を卑怯で、だらしなく描いた。蒙古軍は強かった、先進的だった、それに比べてわが武士どもは・・・という気分が全編をおおっているのが、『八幡愚童訓』である。
 異文化の敵の厳粛な行為は、笑えば相手の戦意を削ぐことができる。言葉の通じない敵と最前線で戦う不安は、そこにいる兵士だけのものである。数十年後の机上のアイデアからのウソと解釈を信じる必要はない。近代の歴史学会はこの資料を唯一の正確な資料として「元寇」を研究してきた。
 また武士の戦技を向上するために行われた笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)には鏃をつけない大型の鏑を付けた矢が使われた。これを響目(ひきめ)といい、命中率を高めるために三立羽である。
 尖根(とがりね)は腸抉(わたくり)と平根(ひらね)に分けられる。腸をえぐる、という意味が恐ろしい。鎬(しのぎ)と逆刺(かえり)がついている。逆刺は抜けにくくする工夫である。平根は腸抉から鎬を取り、逆刺を小さくして扁平にしたものをいう。加工が楽であり、大量生産には向いていただろう。これらは古い城等の資料館に展示されていることが多い。比べてみると、よく分かる。
 これらに対して的矢(まとや)は鏃をつけない。中世では金属で箆の先端を包んで、先端を扁平にする。平題(いたつき)といったようだが、軍陣で使われると甲(かぶと)や楯(たて)を射砕くために使われたらしい。

矢の容器、その携帯方法

 つづいて矢の入れものを調べてみよう。近藤好和氏の研究のお世話になる。矢の容器は刀と鞘(さや)の関係と同じく、弓と一体化して不可分のものである。古代からさまざまものがあり、靫(ゆき)、胡?(やなぐい)、箙(えびら)、空穂(うつぼ)に大きく分けられる。靫と胡?は古代で使われ、10世紀以降は儀仗に使われるようになった。
 中世の軍陣で使われたのは箙と空穂である。ところで、こうした矢の入れものは背中に負うと誤解されている。とくに遺跡から出土する埴輪(はにわ)の武人像では靫を背中に負っているが、実際に背負うと矢は抜き出せないことがわかる。実際は、右腰に矢が斜め後方に突き出る形で負うことが正しい。
 箙(えびら)は方立(ほうだて)と端手(はたて)から出来ている。方立には筬(おさ)という竹製のすのこが組み込まれ、ここに鏃を差し込んで固定した。端手には、矢を乱れないように束ねたり、箙自体を負うための数種類の緒(お)が付く。箙の材質には各種あったそうだが武士に人気があったのはイノシシの毛皮で張り包んだものだった。その名称を逆頬箙(さかつらのえびら)という。
 その起こりというのが、摂関家などの高級貴族に朝廷から与えられた護衛官である随身(ずいしん)の装備品だった。これも格好いいからと都の正規武官の風俗を武士達が真似したものといっていいだろう。
 次回は最近の研究動向などから「蒙古襲来」での武士の戦闘の様子を調べたい。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)9月19日配信)