陸軍経理部(21) ―軍馬の話(7)―

ご挨拶

 いま古代からのわが国の武装や武具、軍隊について書いています。実はこれについては、たいへん苦い思い出があるのです。
 学部時代でした。いずれ細かく書きますが、わたしは1人の教官にレポートとして、「源平合戦時代の武士の戦闘法」を出しました。「源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)」「平家物語」「弓張月(ゆみはりづき)」などの軍記物と「今昔物語」などから武士の戦闘シーンを再現したものであり、騎射戦が主流であり、組打ちがそれに次いだ事実をあげ、武士の主武器が弓箭(きゅうせん)であることを論証したのでした。
 唯物歴史学の国内での権威のお一人だったA先生は怒りました。
「くだらない。こんなことはどうでもいいのだ。要は武士たちが農奴を使い、自分たちの土地を守る、敵から土地を奪う情熱の元がどこにあるのか、それを考えることに価値があるのだ」
 それが、いまだに私はこんなことをしています(笑)。

お尋ねに答えて

 HMさま、ご愛読ありがとうございます。また、このたびは「軍人訓戒」と「軍人勅諭」についてのお尋ね、重ねてお礼を申し上げます。
 さて、原文は「成規類聚(せいきるいしゅう)」の中にあったかと存じます。ご存じのように、この綴じ込みは大部なもので、明治建軍からの諸法規などがすべて入っています。
 現在、個人でもっている方はいないと思われます。わたしが手にしたのは陸上自衛隊某駐屯地の資料館です。明治建軍のころの警察官と兵卒の喧嘩について調べていた時でした。だいぶ以前のことですがノートにメモを取りました。残念ながら全文はとても長く、コピーも取れませんでした。その一部がノートに残っています。なお、漢字や仮名は一部現用のものにしました。
 また、資料収集で高名な小説家、松本清張氏が『象徴の設計』(1976年・文藝春秋)の30ページから32ページにかけて書かれています。おそらく氏は「成規類聚」を所有されていたと思われます。
一、軍人タル者 聖上ノ御事ニ於テハ縦(たと)ヒ御容貌ノ瑣事(さじ)タリトモ一言是ニ及フヲ得ス サレハ衛兵其他ノ事ニテ接近ヲ得ルモ 終始恭敬ノ意ヲ懈(おこた)ル可(べか)ラス
一、軍人ノ言葉ハ寡簡(かかん)ヲ尊ヒ 容儀ハ粛静(しゅくせい)ヲ貴ヒ 動作ハ沈着ヲ貴ヒ 応対ハ詳実(しょうじつ)ヲ貴ヒ 飲食財貨ノ事ハ廉潔ヲ貴ヒ 武器兵仗ノ取扱ハ鄭重ヲ貴フヲ主トスヘシ 是皆忠実ノ一端ナリ
一、軍人タル者服従ヲ守ルノ義務ハ嘗テ間断アル可ラス 部下トシテハ其長官ノ命スル所 不条理ナリト思フ事モ決シテ之ニ対シテ恭敬奉戴(きょうけい・ほうたい)ノ節ヲ失フ可ラス 況ヤ公務上ニ於ケル事ナルヲヤ 之カ為ニ聊(いささ)カモ憤怒ノ色ヲ露(あら)ハシ誹議スルコトヲ得ザレ 然レトモ其事如何ニモ不条理ナリト思フコト有ラハ 一度(た)ヒ其事ニ服従シ耐忍ヲ遂ケタル後ニ 其苦情ヲ訴フルハ許サレタル所ナリ 然レトモ是ハ唯其仕向(しむけ)ノ非理ナリト思フ事ニ限ル 固ヨリ其ノ事柄ノ利害得失ヲ目的トスル訴ヘニ非ス
一、警視ノ官ハ尋常ノ非違ヲ監察スル職分ニシテ 公務上ニ於テモ往(さき)ニ陸軍ヨリ援助ヲ仮スコトアルハ 衛戍ノ諸例中ニモ見ユル如ク 同ジク兇暴ヲ禁スルノ備ヘタレハナリ 唯事軽重ニ由テ職分ノ別アリト雖トモ 畢竟(ひっきょう)同勢相応スヘキ者ニテ 公務以外ト雖トモ警視官ノ及ハサル所アレハ 軍官ニテ援助保護ヲ仮スヘキ義アリ 是ヲ以テ平常ヨリ和諧(わかい)スレハ 両力相合シテ国中ノ静謐ヲ護シ人民ノ安全ヲ保ツ為ニ大利益アリトス
 すぐに分かることは、「軍人勅諭」より具体的に書かれています。興味深いのは警察官とのトラブルも多かったので、互いの理解を高めようとしています。実は建軍以来、兵隊たちは警察官との対立どころか、喧嘩はする、暴行は働くという様子でした。
 しかも、決してこれは将校用ではなく、下士兵卒に至るまでの御達しでしょう。
 HYさま、いつもご感想、ご教示ありがとうございます。今回は「ほこ」の種別や使い方について書きます。銃剣道もその前身の槍術、片手もちの刀剣戦闘も、いずれふれてまいります。
 古代の軍団の装備については、大ざっぱに説明させていただいています。今回は、「やり・ほこ」などについてお知らせします。

「ほこ」の機能と使い方

 昔の絵などを見ると、神武天皇が東征のとき、長髄彦(ながすねひこ)との戦いで弓の先にとまった金の鳶(金鵄・きんし)がいる。周囲には「やり」のような長柄(ながえ)の武器をもった人がいる。八咫烏(やたがらす・やたのからす)が熊野から大和への道案内したときを描いた絵でも「ほこ」というか「やり」を兵士たちはもっている。
 この長柄の武器はどこへ行ったのだろうか。古代の軍団の兵士の装備にはこれがない。兵衛などの衛士には「槍(ほこ)」があったことは確かめられる。以下、近藤博士のご説明に多くを負う。
「ほこ」とは主に刺突(しとつ・突き刺すこと)を主機能と長柄(ながえ)の武器である。わが国では、南北朝期の「菊池合戦(1370年頃)」の時代に「鑓(やり)」という長柄の武器が登場したようだ。これは金へんが鎧(よろい)を表し、突き通すことから字が始まったという。われわれがなじんでいる武士が片手に抱え、馬上であつかい、あるいは徒歩でも担ぐ「やり」である。
 以下、まず「ほこ」から説明をしたい。
 中国では「矛(ぼう)」といわれた長柄の武器は、わが国では紀元前2世紀前半に青銅製のものが現われる。それから1世紀も経つと鉄製の「矛」が見られる。それらはいずれ祭祀用のものになった。3世紀になると、刃の部分と下部のナカゴ(茎)ができ、茎を柄に差し込む構造になる。これは後世の「鑓(やり)」と同じ仕組みであるから、考古学では「ヤリ」と呼ぶらしい。しかし、これは構造的には中国では「鈹(ひ)」とされるものだという。
 5世紀より後になると、刀身が両刃(もろは)で刃の下にはソケット状になった袋(穂袋)ができる。このソケットに柄を差し込んで固定する。刀身の両方に刃がついて断面はひし形、もしくは三角形になる。これが律令体制下に「ほこ」と呼ばれるものとなった。前回でもたびたび読んだ軍防令にある「槍」がこれにあたる。
 ところが複雑なのは史料によって使われる「ほこ」の字がさまざまにある。「鉾(ほこ)」、食品にも蒲鉾(かまぼこ)という字が使われる。木へんの「桙(ほこ)」も、はては「矛(ほこ)」もある。「矛盾(むじゅん)する」の矛である。また、中国の「戈(か)」や「戟(げき)」も「ほこ」と読んでしまう。近代軍歌でも「干戈(かんか)交える幾星霜(いくせいそう)『加藤隼戦闘隊』」のように戦闘を行なうことを指している。また「夜空にひびく剣戟(けんげき)の音」などと白兵戦の描写にも使った。
 しかし、これらはみな構造的に異なるものであり、中国では厳しく区別しているという。
「軍防令衛士条」には、解説書によれば『木の両頭の鋭き者、即ち戈(ほこ)の仲間である』とある。つまり、金属製の刃などなく、両端を削って鋭くした長い棒だったのではないだろうか。

「ほこ」の使い方

 すぐに思いつくのが「矛盾(むじゅん)」である。右手にやり(矛)を持ち、左手で楯(たて)を使って防御する。古代中国の市場で武器商人が、「どんな楯でもつらぬける矛だよ。こっちはどんな矛でも防ぐことができる楯だ」と売っている。面白がった客が「じゃあ、そのどんな楯もつらぬく矛で、どんな矛も防げる楯を突いたらどうなるんだ」と尋ねると、商人は黙ってしまったという故事からきたのが矛盾という熟語である。
 投げる「ほこ」もあった。あるいは投げ槍としてもいい。あるいは両手で敵に対して突きだす。そして、その姿勢で前進する。こうした使い方が考えられる。この使い方を考えてみると主に徒歩兵だったと考えられる衛士には、敵に対して突き出し、あるいは前進するといった集団歩兵の戦い方がふさわしいと考えられる。操作も集団の移動も簡単であり、班田を耕していた農民を兵士に仕立てるのも容易だったことだろう。
 でも、どうして軍団の兵士たちは「牟(ほこ)」を持てなかったのだろうか。両端を削っただけのものなら、簡単に自分で揃えることもできただろうに。そこでさらに「義解(ぎのげ)」を読んでみると興味深い。「牟は二丈の矛」「?(さく・ほこ)は丈二尺の矛」という記述がある。「丈」は『方丈記(鴨長明・かものちょうめい)の鎌倉前期の随筆』でも有名な長さの単位である。1丈は1尺の10倍になり、2丈なら約6メートルにもなる。丈2尺は12尺、すなわち3.6メートル。これらは「禁兵器(きむひょうき)」とされて私有は許されていなかった。盗めば、たちまち「徒刑(ずけい・禁固刑)一年半」だった。ちなみに弩は「徒二年」である。

正倉院御物(ぎょぶつ)の「ほこ」

 奈良の正倉院には33点もの「ほこ」がある。柄と刀身が揃っている。柄の材質は29点が木製の芯に、周りを割り竹で包んだ「打柄(うちえ)」という形式である。この柄の全体を糸巻、黒漆塗(くろうるしぬり)、韋巻(かわまき)などとしている。そして主に手でつかむ部分をさらに糸、韋(かわ)、銅線などで巻いてある。ただし、木製柄の4点だけは巻(まき)が施されていない。だから巻は竹と木を分離させないための補強の工夫と考えられるが、柄の滑り止めにもしていたとも思える。
 事実、握る部分は明らかに他とは違って、韋巻には糸を巻いたり、柄の全体を黒漆で塗っておき、把握部だけを革(韋)巻きにしたりするようになっている。滑り止めの工夫があったことが分かる。
 刀身はすべてが穂袋造(ほぶくろづくり)でありソケット状になっている穴に柄を差し込んでいるようだ。13点の刃には鎌のような鎬(しのぎ)造の枝が出ている。のちに奈良宝蔵院流の片鎌鑓(かたかまやり)などという形を想像してほしい。ただし、鎌は前に向かっていない。逆に手前側に湾曲している。これは宮内省の戦前の調査で「鉾(ほこ)」とされたが、古代の「鎌槍(かまぼこ)」ではないかと近藤博士もいわれている。中国ではこうした枝が出たものを「鉤鎌槍(こうれんそう)」というそうだ。たしかに「カギ」がついた鎌槍であろう。
 これらの寸法がどれくらいかというと、刀身は1尺前後、柄は最短で1丈3寸(3メートル12センチ)、最長が1丈4尺1寸(4メートル27センチ)にもなっている。中国の文献によると、「矛の長さ丈八尺を?という、馬上で使う」とある。1丈8尺といえば、5メートル45センチである。これは中国では騎兵用の「馬?(まさく)」と思われる。したがって、正倉院の「ほこ」は騎兵用の馬上?であったかもしれない。
 そうなると、律令時代、打物である?をもった騎兵がいた可能性も出てきた。物理的に弓をもち、矢を背負い、太刀を佩き、?をもつことは不可能だろう。弓矢を装備せず、?で武装した騎兵もいたのだろうか。
 次回は令の中にある「騎兵」について考察してみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)5月30日配信)