陸軍経理部(6)

今回は大東亜戦争のさなかにあった「玄米」論争からお知らせします。

「玄米を食わせろ」東條首相に怒られた主計少将

 川島四郎主計少将(主計候補生12期)という人がいた。経理部将校の中でも糧食研究の専門家だった。先の戦時中のこと、ある婦人雑誌に『玄米食は必ずしも適当とはいえない』と記事を依頼されて投稿した。当時は航空糧食の試験や研究に没頭していた第7航空技術研究所長だった川島主計少将である。
 航空戦力の拡大、その発展が当時は大きく必要とされていた。陸軍の空中勤務者あるいは地上で戦力を支える整備、補給に携わる将兵の食糧は重要なものとされていた。大東亜戦争給与令細則には「空中勤務者特別糧食」が定められ、常時増加給食という制度があった。飛行時特別食、飛行後特別食として規定されていた。飛行機乗りが特別な食事を摂っていたという記録もよく残されている。
 川島四郎氏は1918(大正7)年5月に陸軍経理学校を卒業。同年12月に名古屋歩兵第6聯隊で3等主計に任官した。満洲の部隊勤務後、1927(昭和2)年5月、経理学校高等科学生を終えて、「員外学生」として東京帝国大学農学部農芸化学科に入学した。オリザニンを発見した鈴木梅太郎も教えていた農作物や栄養との関係を学ぶ学科だった。1930(昭和5)年に学士号を取得、兵食の研究を主務とした。糧秣本廠や経理学校に勤務しつつ、航空本部や航空技術研究所で研究に従事した。
 シベリヤ出兵(1918年から)にも第11、同8師団司令部附として従軍し、寒冷地の糧食研究を行なう。満洲事変(1931年)、第1次上海事変(1932年)、第2次上海事変(1937年)、広東上陸作戦(前同)、支那事変北支四月攻勢作戦(前同)などにも参加し、戦歴も豊富な経理官だった。とりわけ特筆されるべきは、第1次上海事変では派遣軍経理部員でありつつ、野戦作井(やせんさくせい)隊長として活躍したことである。作井隊とは自動車に作井機を積み、水質の悪い戦地で井戸を掘り、地下水を採取する部隊だった。この作井機を開発したのも同人であることは確からしい。また戦時中の1942(昭和17)年には、『軍用糧食に関する研究』で東大農学部から博士号を授与された。
 その第7航空研究所長で食物学の権威者である現役の主計少将が、東條首相はじめ政府が進めていた「玄米奨励」に大きく逆らうような文章を、しかも一般の女性向けの雑誌に出したのである。これはすぐさま東條陸軍大臣に報告された。当時、東條大将は総理、陸相、参謀本部総長を兼職し、「東條幕府」とまでいわれた最高権力者の地位にいた。このときの挿話が『陸軍経理部』に載っている。以下、それを原文になるべく忠実に紹介する。
『国民には白米をやめて玄米を食えと国会で演説し、新聞もそれを肯定的に報道している。総理大臣も陸相も兼務するワシが国家のために主張することを軍人たる貴官が反対するのは軍紀を乱し、明らかに命令に対する干犯(かんぱん)だ』
 陸軍省の大臣室で、川島少将は直立不動で東條陸相の前に立った。電話で呼び出されたのである。最初に浴びせられたのが、この罵声だった。
 1943(昭和18)年1月7日、米の搗(つ)き減りを防ぐために配給米が「五分搗き」になった。続いて15日には玄米の配給が始まった。東條首相はじめ玄米食推奨を唱える人たちのおかげである。
 いきなりの怒声に対して川島主計少将は冷静に答えていう。
『私も玄米が好きです。糠(ぬか)という字は米へんに健康の康と書きます。タンパク質もビタミンBも脂肪も無機質もたいへん多く含んでいます。玄米から糠を取ってしまい白米にすれば、これらが失われることはよく知っております』
 これに対して東條陸相は続けた。
『そういう栄養論もあろうが、現在の食糧が極度に不足するいま、玄米を食えば100%国民の腹に入るが、搗いてしまって4%の糠を捨ててしまう。96%しか国民は食べられていない。戦争をどうしても勝たねばいけないときに、栄養のある糠を捨ててしまって白米を食おうという贅沢が間違っているのだ』
 しかし、実際には玄米は不消化で、その栄養も吸収できないでは何にもならない。
『糠は馬糧(ばりょう)になっております。無駄に捨ててはおりません。生きた兵器たる馬に食わせています。それに玄米は消化が悪く、87%しか体内に吸収できません。白米にすれば98%が吸収されます。この点でも明らかに玄米食は損をいたします』

東條陸相ついに納得する

『吸収を良くするには噛めばいい。よく噛むことが玄米食にはいいのだ』
 そう言う陸相に対して川島主計少将は一歩も引かなかった。
『玄米推奨をする人たちは必ずよく噛めとおっしゃる。そのために食事時間はふだんの3倍にも4倍にもなってしまいます。国家総動員、危急存亡のとき、寸刻を惜しんで働くべき時に、ゆっくり飯を食うのは平時のことであります』
 沈黙する陸相に、川島主計少将はさらに言葉を継いだ。
『豆を洗う、芋を洗うといいますが、米に限って「研(と)ぐ」と申します。とぐとは硬いものに硬いものをすり合わすという意味です。この「とぐ」は、昔は玄米を水に漬けておいて、糠が軟らかくなってからゴシゴシと研ぎおろして、糠を取り去ってから食ったなごりであります。現在の玄米論者が言うように、糠が少しでも取れないように、そっと大事に玄米を炊いたようなものではありません。それに玄米を炊くには、白米の2倍半の時間がかかります。従いまして、燃料不足の時代には大きなマイナスになってしまいます』
 以下の発言は、沈黙する陸相にさらに追い討ちをかけた。
『それに軍が率先して玄米食をするなら、現用の飯盒では炊けません。炊く途中で水を足して、火の回りや、玄米の膨張度を考えながら炊きます。それに玄米は夏には変敗の惧れが大きい。さらにはアルミ資源の不足している現在、飯盒の取り替えや改良はできないことです。その上、炊飯時間が2倍半にもなると、野戦では追撃が鈍ってしまい、敵は逃げてしまいます』
 陸相もそこは軍人である。理詰めの説明にすっかり納得したらしい。怒りもおさまり、せめて玄米の悪口は言うてくれるなということで処分問題も宙に浮き、事なきを得た。
 川島主計少将は戦後にこの回顧をして、当時の東條陸相を高く評価している。というのも普通なら、統帥系統上の上官である航空本部長や、職務上の上官である陸軍省経理局長を呼びつけて説明を求めたことだろう。航空本部長は第7航空技術研究所を直轄していたし、経理部将校としては経理局長の統制を受ける身だったからだ。
 そうした上官たちならこうした的確な反論もできず、「川島を処分せよ」という結果になっただろうという。戦時中の東條首相や陸相、参謀総長については現在も非難が多い。しかし、「仕事は一番やりやすかった」と省部(陸軍省・参謀本部)の中堅幕僚には戦後に回想する人も珍しくなかった。こうした率直な東條陸相評価もあるのが事実である。
なお、当時の作戦参謀たちの気分が知られる話もある。この川島主計少将は大本営の佐官級の中堅幕僚たちにひどく評判が悪かった。
『川島などという経理部将官は、この重大な時局に、これは便利であるというようなものを研究発表している。今は、これは必要だというものをたくさん生産しなければならない時機である。経理部は戦況に無関心だ』
 陸軍大学校で学び、よい成績をとり、作戦用兵第一で地位を築いた人たちである。戦争がすそ野の広がりを必要とするということを理解できなかった軍事エリートがいたことをわたしたちは忘れてはならない。
 なお、川島は戦後も食糧の研究を続けていた。朝鮮で起こった北朝鮮による韓国侵攻(1950年)のことである。米軍に招かれて川島は韓国軍のレーション(携帯口糧)について相談を受けた。この川島の進言を生かして、日本でレーションが生産されることになった。朝鮮戦争での「隠れた特需」であり、わが国の戦後復興の一助になったことは疑えない。
 

委任経理と経理委員

 糧秣(りょうまつ)、つまり人の食糧と馬の秣(まぐさ)については、陸軍省官制の中に経理部衣糧課の中に「被服及び糧秣の給与に関する事項」という項目がある。平時では陸軍給与令、戦時では戦時給与規則で、人馬に対する食糧全般の規定があった。
 陸軍はその創設から、営内に暮らす下士以下には現物を給与することを原則としていた。これが艦船内で暮らし、現金を渡され、副食などを自由に買い入れていた海軍の下士・兵とは大きな違いだったことは『脚気と軍隊』にも書いたことがある。この給与令は、主食の定量や、副食の賄料(まかないりょう・副食費や調味料費、炊爨に必要な燃料費も含む現金調達価格)の定額を定めていた。
 平時の給与は「委任経理」によって、実施は隊長(独立団隊長)に委任されていた。この委任経理が陸軍独特の制度である。つまり、中央からの物品(現品)支給は行なわず、部隊ごとに兵員数に応じた予算を渡し、部隊単位で糧秣や生活必需品を自己調達する独特のシステムである。炊事、入浴、兵舎内の照明、暖房などの光熱費も含めた必要経費を、日額に換算して予算計上し、実行していた。よく大正時代や昭和戦前期の兵隊の思い出話に、聯隊の軍旗祭などで紅白饅頭が出たとか、酒が配られたなどというのも聯隊(大隊)経理委員の腕によったものだろう。
 歩兵聯隊を例にとると、将校とその相当官(各部の士官)はおおよそ平時では60名ほどになる。聯隊付中佐(戦時の特設聯隊長要員)1名をトップに、兵科尉官、主計、軍医、准士官までを含んでいる。彼らは当然、各種平時業務を分担していた。演習掛、人事掛、陣営具掛、兵器掛などの管理業務である。もっともきつかったのは動員室勤務だったというが、これは別格。経理関係を担当したのは、佐官1名を首座(しゅざ)にした経理委員である。時期や部隊規模で変わるが、おおよそ5~6名だった。もちろん、主計殿といわれた経理部将校は職務指定でこの一員となった。

たいへんだった毎日の給食

 食料倉庫の保管出納にあたる兵科将校や、准士官、調理実施の責任者である炊事掛下士官、炊事の専従兵(特別勤務だから3カ月以上の連続上番は原則禁止だったが、抜け道があり、中隊の人事掛特務曹長などの配慮で、およそ固定していた)の勤務には休日はなかった。一般でいう休日にも各種勤務下士官兵はいるし、兵の外出は夕食までだから、少なかったのは昼食くらいだった。また、会計事務を担当する経理部下士官も2000名余りの給食代の精算のために事務量は膨大だった。
 下士官兵は原則として営内に居住することを義務付けられている。そうした身分立場の者には調理された食品を供給するのが軍隊の義務であり、逆にいえば、下士官兵にはそうした給与を受ける権利があった。したがって、帰省や外泊や外出を許可されて給食時に部隊に不在の者や、営外で勤務する者などには、「不食料」という現金を支給した。本来支給するべき米麦代金と賄料の定額を渡すことになっていた。単独で旅行する者には旅費額の中に食料費を繰り入れる。無断外出した者や、食事時間に帰営しなかった者、弁当持参を拒否した者には現金を支給しなかった。食事時間に帰営できなかった者というのは営外居住している将校等の当番を命じられ、官舎で働き、遅れる者もいただろう。そういう時には将校たちが配慮して食事を出し、中には酒もご馳走になったなどという話も残っている。
 営外居住を許されている曹長以上、准士官以上は食料自弁である。この営外者に食料を与えることがある。営内にいなければ果たせない職務(詰切・つめきりといった)があった場合、当直勤務についたときである。その他、演習や軍隊移動のときには下士官兵と同じ給食を受けた。
 次回はこの「給与令」の変遷と実態を詳しく述べよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2018年(平成30年)2月14日配信)