鉄道と軍隊(最終回)―敗戦と鉄道

鉄道員の復員

 無条件降伏をした陸海軍から次々と鉄道員も復員してきた。召集令状を受けて従軍した者、あるいは鉄道部隊に配属されていた者などなどである。人手不足による職員の採用が戦時中には多かった。若年労働者は兵士として入隊、中堅技術者は軍属として鉄道部隊へ行かされた結果は、内地の鉄道職員の高齢化と女性化をもたらしていた。さらには『日本国有鉄道百年史』には次のように書かれている。
「主体となる青壮年男子労働力はほとんど予告なしに、大量に軍要員に繰り込まれていった。この労働力の不規則な大量移動によって生ずる不足は、そのつど、より低質な新しい労働力によって応急的に補給されなければならなくなったのである」
 戦後にもなって、「より低質な新しい労働力」とは、なんとあからさまな、対象者の名誉を損なうような書きぶりだろうか。男子は満17歳から第二国民兵役にあった。そうなると、いつ召集が来るか分からない。とすれば新しい労働力とは、男子は満14歳の小学校高等科卒業者である。
「わたしは機関士に入社4年目になりました。昭和20年5月のことでした。満18歳だったね」
 縁戚につながるG県N市の機関区の指導機関士だった人の直話である。戦後になっての規定では、中学校卒で整備掛(戦前では庫内手)2年、機関助士試験に合格後3か月半の学校入校、見習乗務を3か月、機関助士45か月、試験に合格したら学校の機関士科に5か月半の入校、見習3か月を務めて初めて機関士になれた。もちろん、これは最短記録であり、合計7年間である。戦時中はそれが短縮されていたのだった。
 戦時中の酷使、整備不良がたたって機関車はボロボロ、線路の状態も悪い。乗務員にもろくな食料がなかった。給料は安く、加重な勤務が重なり、運転中も睡眠不足による眠気が襲った。石炭の質も落ち、カロリー計算が成り立たず、機関車はしばしばエンコ(動かなくなること)する。投炭する助手も高等小学校を出たばかりの子供が採用されていた。みんな戦時中も大変だったが、戦後になっても辛かった。
 こうしたなかに戦地から、軍隊から次々と職員は帰ってきた。戦時中に増えた女性も退職し、幼い労働者たちも国鉄を去って行った。ほかに仕事がある人はそれでよかった。しかし、そうもいかないでほかに働き場所もない人も多かった。1948(昭和23)年8月末には職員の総数は62万3000人となっていた。
 この年の12月、アメリカ政府は日本国政府に経済安定策を要求する。そこでマッカーサーは経済安定9原則を示した。それは歳出引き締め、均衡予算、徴税強化などを骨子としていた。翌年にはGHQ経済顧問のドッジが主張した9原則が実施される。なかでも大きかったのが政府の歳出の引き締めであり、とりわけ公務員の人件費削減が緊急性をもっていた。
 昭和24年6月に「行政機関職員定員法」が施行された。国鉄の職員数を50万人にするという大規模な削減策だった。職員が多かったことは確かに事実だったにちがいない。機関車には3人が乗り込み、機関助手の1人は信号注視だけが仕事ということもあった。職場にもよったが人員整理は「先任順」という手続きが取られることが多かった。
『降職及び免職に関する準則』の中に、つぎの文言がある。
「その者の国有鉄道における勤務の長さ(以下先任順位という)を基準として、その劣位の者から順次これを行う」
 つまり、勤務経験が短い、若い順に免職になるというのだ。
 戦時中に短期養成された多くの若い機関士が降格されて「副機関士」になった。定員の中では機関助士にされて、ふだんの仕事はカマタキの助士に戻った。人が足りなくなった時だけ機関士をさせてもらえる。そのぶん、若い機関助士は免職になって職場を追われた。乗務員の間にも隙間風が吹いた。軍隊から復員してきた古い機関助士たちは言う、「戦争のどさくさで機関士になれたくせに」。機関士たちも言った。「使いづらいのが副機関士だ。できないくせにプライドだけはあって、文句ばかり言ってくる」
 そうして9万7000人が整理された。

RTOの支配

 アメリカをはじめ連合国は「占領軍」だった。過酷な軍政を布かなかったのも、別に親切だったわけでも、一部が言うような日本人に好意的だったからでもない。天皇陛下を上に据えた間接統治の方が効率上、良かったからであるに過ぎない。進駐軍という言葉をすぐに発明して実態を覆い隠すのがわが国民の弱点だが、このときもそうだった。しかし、その実態はやはり強力な武力を背景にした占領施策の数々があった。
 忘れられているのがRTOである。正式な名称は Railway Transportation Office で地区司令部の下についた。その司令部はまた連合軍の第3鉄道輸送司令部に隷属していた。特別な占領軍ダイヤが組まれ、一般民需輸送に優先して専用列車が運行されたので、大きな圧迫となった。車輛も同じで、昭和19年度には客車保有数は1万1700輌、そのうち優等車(1・2等車)は大半を占領軍が使い、比較的優良な車輛1000輌が差し出しを命じられた。
 問題は、どこの国でも動員された軍隊は同じようなものだが、アメリカの田舎の地方鉄道の平社員が陸軍中尉で、管理局に乗り込むということもあった。彼らのアメリカ式の合理的運営の考え方と、巨大組織であり伝統もある国鉄のやり方は当然異なったが、占領軍の威光である。物理的な不可能を抱えたものでない限り、RTOの命令は絶対だった。
「米兵はミスを許さなかった。わたしたちは実害がなければ、あるいはあっても多少の間違いなら、関係者同士で『異常なし』でまるく収めたけれど、そういうことは許されなかった。異文化だった」と語る人は多い。
 たとえば貨物列車が定刻に5分遅れたとする。それを機関士と車掌、駅が談合して定時に到着したことにする。大きな害などないではないかということだ。遅れたからといって、人と違って貨物は文句をいうわけではない。こういったことも『鉄道員物語(宝島社文庫・1999年)』には書かれている。
 もともと、国鉄には「国鉄一家」という言葉もあった通り、家族的な優しさもあり、その分、確かにルーズであった欠点もあった。職場規律もゆるみがちであり、貨物の荷を抜くのもよくあることだった。鉄道記者の青木槐氏によれば、駅の中で抜いた荷物だけで「すき焼き」をしていたなど日常だったという。
 昭和20年度の統計によれば、この年の連合軍関係輸送は、個人的輸送が545万人、臨時列車や特別車輛によるもの8万輌となっている。占領軍の人員は大多数は米兵が占めたが、少数の英国兵も含めて総員で43万人といわれている。個人的輸送とは部隊ではなく、個人として移動ということだからたいへんな数である。長距離の出張も多かったので、東北本線から東海道線への直通運転なども強要された。それまでの国鉄ではそんなことはしていなかった(現在は、上野東京ラインといって湘南地区から宇都宮まで直通している)。
 GHQ(連合軍総司令部)の中では昭和21年9月に民間運輸局(Civil Transportation Section)がおかれた。国内輸送の政策的管理のためである。その運営と連合軍に関わる輸送については第3鉄道輸送司令部があたったことはすでに書いた。そして現場のRTOが強権を背景に、各地へ進駐する部隊の輸送、外地から帰還する日本人の輸送、在日の「第三国人」の帰国輸送、連合国捕虜の帰還輸送などについての指令が出された。
 駅の中で一番立派なところにはRTOの看板がかけられた。占領軍の鉄道関係者の詰所や待合室に使われ、豪華な調度品(もちろん日本人邸宅からの押収品)が置かれ、赤いじゅうたんが敷き詰められ、冬はストーブがふんだんな石炭のおかげで真っ赤になっていた。その前を腹をすかせ、ろくな防寒着もない日本人は小走りに通り過ぎるしかなかった。

連合軍専用列車と一般列車の不足

 敗戦直後、占領軍の進駐以来、国鉄や私鉄は連合軍の行動のために働いた。物資輸送、兵員輸送、車輛や火砲の輸送などである。その混乱がやや収まった昭和21年1月からは個人として利用する連合国軍人、軍属とその家族のための定期専用列車が東海道・山陽本線をはじめとして主要な線区に設定された。また、大都会を中心にして基地やキャンプの間を走る一般列車には車体に白帯を巻いた専用車輌が連結された。
 食堂車や展望車は戦時に贅沢だからという理由で国鉄の大井工場に隠されていた。まるで手つかずのようにきれいだったという。それを連合軍に提供したのだから、敗戦の景色を背景に走る専用列車はまるで絵のようだった。日本人が乗る車輛は、それに対してようやく空襲の被害を逃れた、シートも窓ガラスもない、雨漏りのするようなオンボロである。まさに敗戦の悲劇を絵にかいたような風景だった。
 ところで運賃はどうだったかというと、昭和20年10月から占領軍の制服着用の軍人・軍属には無賃乗車という扱いがされた。そして、占領業務に関わる物資や兵器、弾薬などの輸送は、日本政府の国庫負担とされて終戦処理費から払われることになっていた。
 この終戦処理費は終戦直後については日本銀行立替払いとし、昭和21年からは一般会計からの支出とした。21年度から28年度まで5168億円が出されたが、21年度から22年度までは一般会計歳出の3割以上にものぼり、インフレの一因ともなった。もちろん、予算折衝については日本政府に発言権は全くなかった。支出の内容は、基地や道路の工事費など、占領軍が雇用した人への給与、資材費などであり、軍人・軍属の給与や軍隊の武器弾薬費などは含まれなかったが、25年度からは朝鮮戦争関係費に流用されたといわれている。
 一般旅客列車は大いに不足した。東京から九州に行こうとすると、直行列車は東京発14時10分の博多行き普通列車だけだった。それが33時間半もかかったのである。しかも1日に1本のみだった。東京駅や上野駅から発車する長距離列車は出発前から超満員状態で、出入り口の車輛両端にあるデッキも満員、乗客は窓から出入りをした。
 せっかく動き出しても各駅での混乱で発車の遅れは当たり前で、ダイヤ通りの運転などできるはずもなかった。昭和20年の11月にはダイヤ改正を行なって、遠距離急行列車を設け、旅客列車も大増発したが、機関車の石炭不足でかえって混乱した。年末12月15日には列車の大削減を行ない旧に復したが、これも現場の実情をつかめないGHQの指令だったといわれている。

「マイ レールウェイ」

 第3鉄道司令部司令官はベッスンという准将だった。ウェストポイントの陸軍士官学校卒業後、マサチューセッツ工科大学で土木工学修士号をとった秀才である。アメリカ軍は建軍の事情から秀才は工兵に多かったといわれる。准将は日本の鉄道事情や実態について十分な理解があり、国鉄側との意思疎通もよくできていた。
 昭和24年3月には准将は第8軍輸送司令官に栄転した。後任にはライオン大佐、すぐにシャグノン中佐に交代し、4か月後にはライオン大佐が再任され、シャグノンはGHQの民間運輸局に移った。このシャグノンが癖の多い人物だった。国鉄のことを「My Rail way」と呼んだという。
 ある時には自説が通らないので激高し、拳銃を抜いて日本人に突きつけたという。これはしばしば占領軍の横暴を伝える話で、警視庁にも米国の田舎の保安官経験者が中尉くらいでやってきて土足をデスクにのせたとか、拳銃を抜いて威嚇したとかよくいわれる。こうした異文化との接触で起きたトラブルが多かったことだろう。ただ、撃ち殺されたという話は寡聞にして聞かないので、大げさに語られたことも多かったと思える。また、相手を「たかだか田舎の保安官で、国家規模の警察行政では素人のくせに威張りやがって」と笑いものにしてうっぷんを晴らしたこともあったに違いない。
 彼ら米軍の鉄道将校たちは、ある人は理解があり、またある人は事情に理解があったと評価される。しかし、日本の鉄道をアメリカ流に変えようとするのは誰もがしたことだった。経理面や技術面では、なかなか立派な意見を出してくれた米国人もいた。
 興味日深い逸話を青木氏が残している。「日本の駅長は線路の方を向かずに、街の方を向いている」と米国人はいう。「街の顔役の一人でいろいろの宴会には名士として出るが、輸送、運転といった方は専門ではない。駅長はホームの方をつねに凝視していなくては鉄道は安全に運転できず、事故が起こる」。青木氏はこの感想を聞いてなるほどと納得している。
 昭和戦前の鉄道と地域社会の関係をうがった見方だと思う。
 まだまだ書きつづけたいこともあるが、このあたりでいったん終わりにしたい。いろいろなご感想やご意見のお礼を申し上げます。なお、戦中や戦後の叙述については、『戦中・戦後の鉄道』(石井幸孝著、JTBパブリッシング、2011年)を参考にさせていただきました。
(鉄道と軍隊 おわり)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)6月14日配信)