鉄道と軍隊(14)─弾丸列車計画と海底トンネル

弾丸列車計画

 トンネルの話題から関門海底トンネル、つづいて朝鮮・大陸へのトンネル計画を紹介する。
 1912(明治45)年には新橋─下関の間に特急列車が運行されるようになった。所要は25時間である。それが1925(大正14)年には線路の改良や経路の短縮などが行なわれ、20時間を切るようになった。下関から朝鮮の釜山には連絡船があったので、半島から満洲を経てシベリア鉄道に連絡する国際列車が本格的に検討されるようになった。
 列車が乗り入れるわけではないが、国際連絡輸送がこのコースで始まったのは1927(昭和2)年の夏のことだった。釜山から満洲鉄道全体のゲージは1435ミリに統一されていた。わが本土との連絡も、対馬海峡と朝鮮海峡を海底トンネルで結ぶ計画もあって、その予備的な実験もあり、関門海底トンネルが計画され始める。
 すでに明治時代には後藤新平鉄道員総裁がこのアイデアを披露していた。1914(大正3)年ころには資料集めが始められ、同7年には帝国議会で工事の調査開始が認められた。それが世界大戦後の不況、いわゆる大正バブルの崩壊(同8=1919年)や続いての関東大震災(同12=1923年)のおかげで工事の実施は保留されていた。
 1930(昭和5)年には東京─大阪間を結ぶ「超特急つばめ」が走った。この区間が8時間20分になったことはすでに書いた。ただし、これはあくまでも在来線を機関車の運行を高速化して得た結果だった。この翌年に起こったのが「満洲事変」である。陸軍の出先機関だった関東軍が事を運び、満洲から張学良軍を駆逐し、満洲国を生みだした。

満洲帝国の誕生と海底トンネル計画

 1934(昭和9)年には清朝の廃帝溥儀(ふぎ)を担ぎ出し執政にしていたが、本人も望んで皇帝となり、「五族協和」をスローガンにした満洲帝国が発足する。このころ、蒋介石の中国政府も、奉天─北京・天津の間の鉄道運行を認めるなどしている。これは満洲帝国を認めているかのような行動である。
 ソビエト連邦も自分がもつ北満洲の鉄道をわが国に譲るといった態度を見せ始めた。東清鉄道は1935(昭和10)年、満洲国に譲渡され、ゲージも1500ミリのソ連規格から1435ミリに改められた。満鉄は満洲国から鉄道の運用を任されていたので、いわば自由に行動できた。
 中国共産党軍はこの頃、「長征」を始めており、日満の行動に介入する力もなかった。満洲帝国の陰の支配者は、関東軍と満鉄をもつわが国であり、北海道から東京、下関、釜山、満洲とつながる鉄路の建設が夢ではなくなった。
 おりから大量の出水に苦しんだ静岡県の丹那トンネルも完成し、技術的な経験からも自信をもつことができた。
 では、朝鮮とわが国の間を結ぶにはどこから掘り始めるか。過去の経験が役に立った。経験とは有名な豊臣秀吉による「朝鮮征伐=1592・文禄の役」のことである。韓国側ではその発生年から壬辰倭乱と称し、被害者意識ばかりで語られる。しかし、両国の交戦関係で見直すと、わが国から見れば過去の朝鮮勢力による幾度かの侵害から考えると初めての進攻だった。
 なお、「征伐」とは不穏当であり、日本の侵略への反省がないという戦後の左派学者による主張が今も根強く、教科書にもその用語は使われなくなっている。当時から伝わる歴史的名称も後世のイデオロギーで変えられてしまうという例である。
 余談はさておき、秀吉軍が朝鮮への渡海に使った港は肥前北部の唐津(佐賀県)、呼子である。兵站集積の拠点だった名護屋城もそこにあった。最短距離であったからだ。その近くからトンネルを掘り、玄界灘の海底100メートル以上の深さに潜っていく案も出てきた。壱岐、対馬を経由して釜山付近で地上に出る。そのために関門トンネルを掘削することは重要だった。いずれ青函トンネルで北海道と本州を結び、さらに宗谷海峡の下を掘りぬいて樺太へ行く計画も出た。本州と四国を結ぶトンネルを掘る案も出された。
 陸軍は当然、関門トンネルや朝鮮海峡を地下で結ぶ案に好意的だった。参謀本部の運輸通信部長だった後宮淳(うしろくじゅん)少将も満洲への軍需品輸送の便を考えて朝鮮半島へ直通するトンネルに賛成した。その上で、まず実現可能性が高い関門トンネルの重要性に目をつけていた。それは当時、大陸向けの軍需物資の集積には門司と小倉が使われていたからだ。そこで後宮少将は1934(昭和9)年秋、参謀総長閑院宮載仁(かんいんのみやすけひと)親王(元帥陸軍大将)に働きかけ、鉄道大臣に向けて関門トンネルの実現に努力するよう意見を出してもらった。
 翌年には内田鉄道大臣は関門トンネル計画について上奏し、翌々年2月に建設予算
は議会を通り、9月には門司側で起工式が行なわれた。

弾丸列車計画

 1934(昭和9)年、鉄道省岐阜建設事務所長を務めていた1人の鉄道技師が地図を見ていて気がついたという。国鉄は名古屋から関西方面に出るには2ルートある。名古屋から岐阜へ向かう東海道本線と桑名・奈良方面に行く関西本線である。その関西線と東海道線の間が空いているから、もう1本、伊勢、桑名あたりから京都へ抜ける「新しい東海道線」があってもいいのではと考えた。このアイデアを本省に持ち込み、周囲も巻き込んで話がだんだん大きくなっていった。

『東京と下関間を14時間くらいで結ぶ高速列車を走らせて、下関と釜山の間に海底トンネルを掘りぬいて、朝鮮から満洲の奉天へ抜け、北京まで結ぼう』

という話に発展していく。
 実現化し始めたのは1939(昭和14)年8月。新幹線を造るために省内に幹線課ができ、ついで新幹線調査会が生まれる。この調査会には海軍から山本五十六、陸軍からは阿南惟幾(これちか)、実業界からは小林一三(いちぞう)なども加わった。この調査会では11月に答申案が出されたが、会では広軌(標準ゲージ)か従来の狭軌かでもめた。陸軍は当初、広軌には反対、さらに電化については戦時の爆撃を受けることを考えて絶対に否定した。それやこれらの議論が続き、国鉄側の島安次郎などの調整努力もあり、大陸と同じ広軌にすることが認められた。速度も実行案が11月6日に出されたときには、下関まで東京から9時間に決定された。
 答申によると、線路は現在線に並行する必要はない。複線がよい。長距離高速度の旅客列車を集中して運転する。貨物列車運転のためには速度は落とさない。線路は広軌とする。線路や建造物の規格は朝鮮や満洲の幹線鉄道と同じにし、それ以上でもいい。東京と大阪間は4時間半、東京と下関の間は9時間を目標とする。
 次回はさらに弾丸列車計画と海底トンネルについて詳しく述べる。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)9月28日配信)