鉄道と軍隊(24)─泰緬鉄道の建設(1)
『戦場にかける橋』というトンデモ映画
1957(昭和32)年に英米合作の大作『戦場にかける橋』が制作された。翌年公開されるとたいへんな騒ぎになった。アカデミー賞を総なめにしたこの映画は主題歌の『クワイ河マーチ(ポギー大佐)』でも有名になる。
舞台は大東亜戦争中のビルマ(現ミャンマー)とタイ王国の国境だった。日本軍はそこに鉄道を通そうとした。投入されたのは英国、オランダ、オーストラリアなどの捕虜だった。日本軍による国際(戦時人道)法を無視した捕虜の就労強制が描かれ、加えて監視兵による虐待があった。脱走騒ぎや日本軍指揮官との衝突。異文化の衝突などもあり、結局、日本軍技術将校の手には負えず、英国人将校による設計がされ橋は完成する。しかし・・・といったストーリーだった。
ところがこの話が徹頭徹尾、フィクションだったのだ。橋の姿も名称も、実際の場所も、英国人捕虜の話もとことん空想の産物である。原作者はフランス人のブールという人でいまのベトナムあたりにいた人らしい。それが思いつきで書いた空想小説が映画になり、世界中に受け入れられた。もちろんわが国でもたいへんな人気になった。「史実ではない」と主張する人もいたが、わが国もようやく『戦後は終わった』という言葉が流行ったころである。事実の解明より世界に追いつこうという気分が強く、アカデミー賞総なめの権威にひれ伏してしまったというわけだ。
映像を見れば考証など必要もない。日本の監視兵がもつ小銃は英国製のリー・エンフィールドだし、監視塔から捕虜を睨む機関銃はビッカースの水冷である。脱走も不可能な密林に囲まれた陸の孤島という設定だが、現実の場所は平野部の端であり、川を下れば人家が多いところである。
橋の正しい名称は『メクロン河永久橋』である。架かっていたのはクワイ河ではなくメクロン河だったからだ。ところが、現在ではどちらもその名称が変わっている。理由は映画が大ヒットし、観光資源になったために河の名前(メクロン河がクワイ河に)も橋の名前もフィクションに合わせてしまったのである。現地に行った友人によると、なんと橋のたもとにある駅の名前は『リバー クワイブリッジ』だそうだ。
映画の橋は丸太を組み上げた木造であり、その重量計算や構造計画が日本人技師(技術将校)にはできなかったわけだが、実際の橋はコンクリート橋脚の上にのったトラス鉄橋である。仮設橋ではなく、永久橋であるから当然のことだ。
タイとビルマを結べ
1942(昭和17)年の12月、参謀本部第3部長若松中将は南方軍の参謀を東京に呼びつけた。18年の末に完成予定だったタイとビルマの連絡鉄道の進捗状況を報告させたのだ。
南方軍ではすでに7月から見積もり資料を集め始め、現地測量も終えて設計もできたところから工事を始めていた。ところが、現地は山と谷が多く、周囲は密林である。トンネルも掘れるようなところではなく、勾配を少なくするために、木を切りだし高く足場を組んでその上に線路を通すような所が多かった。その総延長は15キロにもなり、全線は400キロにもなるが、そのほとんどは周囲に人家もなかった。おかげで労働力が集まらない。
しかも雨季になれば、小さな川だけでも水位があっという間に上がった。短いスコールがきただけで10メートルも川面が上がってくる。せっかく築いた基礎もあっという間に流されてしまう。1000メートル級の山が連なるインドシナ山脈の東側の中腹地域である。道路もろくになく、開かれた土地もない。建設資材を運ぶのも、集積するのも難しい。工事現場への補給は建設したばかりの線路を使うしかなかった。
それまでの情勢
支那事変を起こしたのは国民党政府の蒋介石である。蒋介石は上海から始まる戦いに敗れ、揚子江上流の重慶に逃れた。これを支援したのは米英仏ソ連。英米仏の3国は仏印と当時言われたフランス領インドシナのハノイに物資を揚げた。そこで鉄道に積みかえたり、河川の舟に載せかえたりして雲南省や広西省に運んで行った。
1940(昭和15)年6月にフランスはドイツに降伏する。そこで日本陸軍はハノイ方面に進駐し、雲南へのルートを遮断することに成功した。これに対して英米の2国は英国領だったビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)に物資を揚陸し、鉄道で雲南省近くに推進し、そこからトラック便で重慶政権への援助を続けた。インドからもトラックによる物資輸送もされた。
大東亜戦争開戦後、マレー半島を押さえた南方軍はビルマ攻略を計画した。援蒋ルートを潰すためである。1942(昭和17)年2月に第15軍によって始められた攻略戦はまずラングーンを占領する。続いて北方400キロメートルにあるマンダレーに向かった。そこは鉄道、水路、道路が集まる要地だった。そこから北東へ300キロメートル、ミートキーナまでは鉄道があった。しかし、その西側およそ150キロを走るインド国境まではチンドウィン河の他にはろくに交通手段はなかった。
第15軍は英印軍と蒋介石軍を圧倒し、1942年の5月中にはほぼビルマ全土を支配した。ところが米軍が太平洋各地で反撃を開始した43年に入ると全土で英印軍の反攻も目立ってきた。高空攻撃やゲリラ戦による損害が出始めた。英印軍もまた約1年をかけてラングーンまで南下する計画を立てていたのだ。
大本営はビルマを守るには兵力を増強し、3個師団を基幹とする第15軍だけに任せず、7個から8個師団が必要だろうと見積もっていた。そのビルマ方面軍への補給もまた海上輸送だけでなく、タイから鉄道輸送で補完しようとも考えていたのである。その具体策が400キロメートルを超す泰(タイ)と緬甸(ビルマ)を結ぶ泰緬鉄道だった。
工事始まる
完成期限は4カ月も短縮を命じられた。1943(昭和18)年末どころか8月一杯とされるようになった。その代わり資材の支給などでは優先順位が上げてもらえた。予備資材やダイナマイトは要求通りに用意された。同時に鉄道の規格をゆるめることも認められる。1日当たりの計画輸送量を半分に下げてもらえた。技術とはそういうものである。計画輸送量を減らせば、関連する施設、退避線やホームの規格、準備資材や集積場所など、多方面の計画や工事が楽になる。たとえば、機関車も貨車も軽くなる。枕木の本数も減らせるし、基礎部分の強度も下げられるので工事の負担も少なくなった。
さらに鉄道技術部隊の増員が認められたことも大きかった。おかげで内地や満洲などの鉄道員の応召が増えた。単純労働力も英米豪蘭などの戦時捕虜が使えるようになった。本来、捕虜の使役は戦力を増強させるような作業には使えない。しかし、この場合は間接的な輸送力増強がねらいだからいいだろうと、いささか甘い見積もりもあったようだ。
担当部隊はタイ側からは鉄道第9聯隊、ビルマ側からは第5聯隊が担当した。他に鉄道技術者集団の第4特設鉄道隊がマレーから引き抜かれた。さまざまな数字があるが、ビルマ人が9万人、マレー人7万5000、英国人3万、オランダ人1万8000、オーストラリア1万3000人というのが信じられるところである。米国人はわずか700名ばかりという。日本側は約1万5000名というところだった。(もちろん諸説あって、現地人工夫7万、連合国捕虜5万5000、日本軍1万の合計13万5000人という著書もある)
ノンプラドック(バンコクからシンガポールに向かう線路の1地点)とビルマのラングーンから南下する鉄道の1地点タンザビアを結ぶ路線が計画された。工事はその両地点から同時に始められた。レールの長さは1本が10メートル、国内のそれは30メートルだから急カーブなどにも対応するためである。ただし、ゲージはメーターゲージといわれた1000ミリメートルだった。
工事用のレールや枕木を運ぶのはガソリンエンジン付きの牽引車である。路外ではタイヤで走り、鉄路の上でも使える軽車両である。今もその実物が埼玉県朝霞市の陸上自衛隊輸送学校の校舎の前に復元されて保存されている(100式牽引車)。
工事は早ければ1日で1キロ進むことができた。捕虜も監視する側もひどい環境の中で過ごした。作業兵、監視兵も捕虜も、みんなテントで寝るしかなかった。食事も野戦炊事であり、ほとんど米しかない。衛生環境も劣悪というしかなかった。
それでも監視役の日本側の捕虜収容所の軍人たちは配慮した。なかには豚を送って、捕虜にせめて肉を食べさせようとした収容所長もいた。対して工事作業を監督する日本軍人たちは兵站からの給与なので、ろくに副食などが送られてくることがなかった。塩辛い漬物や、乾燥醤油や乾燥味噌などでパラパラのタイ米を食べていた。脚気症状を見せる者も多くいたが、工事の完遂が重要視された。
飢えているのは監視役も捕虜も同じだった。働く技術部隊の兵士も飢えていた。そうした中で捕虜の逃亡を恐れ、反抗にも目を配りながら勤務する監視兵は緊張の連続だった。体罰が行なわれ、足蹴にされた、殴られたという訴えが戦後多く出た。おかげで戦争犯罪人に指定され裁判にかけられて非業の死を遂げた日本軍将兵もいた。しかし、殴る、蹴る、重量物をもたせるといった処罰は日本社会全体にあったものである。職人の徒弟や商家の小僧も先輩や師匠の暴力にさらされていたのが実態だった。それが外国人に対してだけ急に態度が変えられるものではない。
工事手順のおおよそ
鉄道聯隊には建設隊があった。これに技師や技術将校、技能下士官がつき、測量を元にした計画を立てる。航空写真を元に測量をしたのは象に乗った軍属の測量隊である。レールを敷設するルートや橋の位置を決める。簡単な道路を造り、資材を牛が牽く車やトラックで運びこんだ。橋脚や積みあげる材木の基礎材のセット位置も決まる。
いざ工事開始となると建築隊には軍属の身分で徴用されていた技術者が活躍する。職人である。石工や大工、佐官、とび職といった人たちのこと。基礎部分などの構築はお手の物だった。とはいえ、急な増水があると上流から現地人が材木を流したり、水流が強くなったりしてせっかくの工事がやり直しになることもある。
橋の工事はレールの延伸より先になる。だからトラックや象による運搬が重要だった。現地の牛車なども徴発された。もちろん現地徴発は部隊付の経理将校が支払いや交渉を担当した。現地の象や牛などもタダで使うことはなかった。戦後の誤解で軍隊は何でも現地人から無償で取り上げたかのように理解する向きもあるが、そんなことは決してしない。逃げられたり、敵に協力されたりしたら大変な結果を招く。
ルートの中で鋼鉄製の橋が造られたのはただ1か所である。それが映画で有名になった『クワイ河鉄橋』ならぬ『メクロン河永久橋』だった。また現地では『クウェイ河』と発音するらしい。場所は前にも書いたように密林の中などではなく、平野から山地にかかる奥地の入り口にあった。
英軍将校が指導助言したり、設計に関わったりなどということはない。鉄道第9聯隊の技術者たちが設計した。鋼材はジャワ(インドネシア)から運んできた。映画の中では最後に脱走した捕虜たちが木造橋を爆破してしまうが、そういう事実はなかった。
次回は後編として開通についての話題にする。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)2月22日配信)