鉄道と軍隊(20)─朝鮮の鉄道あれこれ

鮮鉄の急行列車「ひかり」

 下関から釜山までの連絡船と接続する急行があった。満洲国の建国があり、内地から朝鮮を経由して満洲を結ぶ、そのために1933(昭和8)年にダイヤ改正が行なわれた。釜山の桟橋から奉天までの間を直通運転する急行列車が「ひかり」と名付けられた。翌年には新京(現・長春)まで直通区間を延ばし、1942(昭和17)年にはハルピンまで直通した。敗戦直前まで、この列車の運行は続けられた。
 所要時間はおよそ36時間である。上りは釜山を、下りはハルピンをそれぞれ夕方に出発する。そして翌々日の朝に終着駅に着くというダイヤだった。車輛は濃緑色に塗られ、最後部は展望車である。そのバルコニーには「ひかり」と平仮名のテールマークが付いていた。この展望車には1等寝台が前部にあり、車輛記号は「テンイネ」と内地にはないものである。テンとは展望車、イは1等車、ネが寝台車を示す。編成はこの他、2等寝台車、同座席車、3等寝台車、同座席車と食堂車である。シベリア鉄道経由でヨーロッパまで行く場合に、この「ひかり」が使えるようになっていた。
 内地の食堂車は「和食車」と「洋食車」に厨房設備の違いによって分けられていたが、「ひかり」の食堂車はどちらにも対応できた。和定食は1円20銭、洋定食が1円50銭になっていた。いずれも1円=2000円で換算すれば、2400円と3000円となり、まずまずの設定だろう。ちなみに内地の「つばめ」や「富士」も洋定食は同額だった。

急行「のぞみ」

 1934(昭和9)年11月のダイヤ改正で釜山と京城を結ぶ急行の運行が奉天まで延伸されたときに「のぞみ」と命名された。昭和13年には新京まで運転が伸びた。上り・下りとも関釜連絡船の夜行便と接続していた。奉天・新京へ向かう下りの「のぞみ」は釜山を朝に出て、上り便は夕方に釜山に着いた。先に書いた「ひかり」は連絡船の昼間の便と接続したので、乗客は昼か夜かを選ぶことができた。
「のぞみ」の最高部にはやはり展望1等寝台車がつながっていたが、この車輛は台車が3軸になっていた。欧米にはよくあるが、内地の国鉄には珍しかった。ふつうは2軸なので線路の継ぎ目では「ガタン、ゴトン」と音が響くが、3軸だと「ガタタン、ゴトトン」と聞こえたそうだ。軸を増やせば振動が減るというわけだ。
 展望スペースには本棚もあり、旅行地図やガイドブックも置かれた。安楽椅子とソファーが窓際には並べられ、床にはカーペット、木部はチークというのだから欧州調を十分意識していた。専門の給仕がいて、飲み物なども提供されている。

特急「あかつき」

 1936(昭和11)年12月のダイヤ改正でただ一つの特別急行ができた。釜山から京城まで6時間40分で結んだ。急行「のぞみ」の7時間50分を一気に1時間10分も縮めたわけだ。停車駅も大邱と大田の2駅だけにしぼった。最高部の1等展望車、2等車、3等車と食堂車の合計7両に手小荷物郵便車1両の合計8両編成。この「あかつき」のためだけに新造された高速運転用軽量客車群だった。外の塗色はやはり濃緑だった。
 各車両には車内放送装置が完備された。案内放送や音楽まで流されていた。冷房装置付きの食堂車には4人、2人用のテーブルがあった。3等車の座席は4人がけのボックス・シートで固定。ただし、3等車としては初めて天井に扇風機が付いた。2等にはリクライニングはできないが2人かけの回転式座席が通路の両側にあった。最高部の1等展望車は「ひかり」「のぞみ」の開放式の展望台はなかった。ガラス窓で密閉されていた。車輛の中央には定員3名の特別個室もあった。

急行「大陸」

 北支で盧溝橋事件が始まったものの、どうやら治安が回復すると、朝鮮や満洲を通って天津や北京に向かう旅客が増えた。1938(昭和13)年10月には、釜山から北京へ直通する急行が造られた。翌年11月に愛称がつけられ、「大陸」と呼ばれた。廃止されたのは昭和19年2月だから寿命は5年あまりだった。客車については、昭和14年に満鉄の傘下に設立された「華北交通」のものである。最後尾の1等展望寝台車は開放式のオープンではなく、ガラス窓の密閉式。ただ、「あかつき」とも仕様が異なるのが半円形の姿で曲面ガラスも大きかった。サロン(談話室)には紫色のカーペットで、内装全体は「中国風」に統一されていた。客室は折りたたみ式の2段寝台個室が6つ、定員は12名でしかない。
 釜山~京城~平壌~奉天を経て北京まで、総走行距離は2067.5キロ、39時間30分で結んだ。関釜連絡船との夜行便とつながり、東京~北京を3泊4日で行くことができた。この列車は、当時の「帝国内」での最長距離を走った。
 車輛を造ったのは大連の満鉄工場だが、戦後、中国国鉄に引き渡され、中華人民共和国の要人たちの専用車になった。毛沢東、周恩来などの公務用に使われた。現在も瀋陽の鉄道博物館に保存されている。

急行「興亜」

 1939(昭和14)年11月に、釜山~北京に「大陸」の姉妹列車として走った。所要時間38時間45分と「大陸」と似ている。ただし、展望1等寝台車はない。最大の特徴は関釜連絡船の昼間の運行便と結ばれているから「大陸」とは昼夜逆転になる。
 国際急行としては敗戦間際まで健在だった。その理由は対馬海峡の安全度だった。敗戦近くなると、連絡船は安全のために夜行運行を取りやめた。おかげで昼間の運行だけが続けられ、「興亜」や「ひかり」は最後まで命を長らえた。

雑学・戦前鉄道車両の記号

 戦前に使われていた車輛の記号についていろいろ。
 客車の記号で1等はイ、2等はロ、3等はハ。寝台車はねるからネ、展望車はテ、食堂車はシ、郵便車がユ、荷物車がニ、病客車が「べうかく」なのでヘ。イネというのは1等寝台車ということだ。切符の色
も1等は白、2等は青、3等は赤で、これは客車の窓の下に色帯が巻いてあったのと同じ。現在、旧2等車がグリーン車になり、グリーンの客車はロの記号を付けている。
 客車の記号は重さによって分けられていた。22.5トン未満が「コ」、22.5トン以上27.5トン未満が「ホ」、27.5トン以上32.5トン未満は「ナ」、32.5トン以上37.5トン未満が「オ」、37.5トン以上42.5トン未満が「ス」、42.5トン以上47.5トン未満「マ」、47.5トン以上「カ」となっていた。「コホナオスマカ」の順に重くなっていく。
 貨車の記号は難しい。有蓋車(ボックス型の屋根付き)はワゴンだから「ワ」。冷蔵車は「レ」、通風車(外壁がすだれのように穴があいている)が「ツ」、家畜車は「カ」、豚積車(豚専用の貨物車)は「ウ」。豚ならトンやブタの「フ」のようだが、「ト」は無蓋車だし、「フ」は緩急(かんきふ)車で使われていたから、工夫が要った。誰かが豚は「ウ~」とうなるからといい、「ウ」に決まったらしい。ニワトリなどの家禽を積むのは「パ」、英語のパウルトリーから。陶器運搬専用車は「ポ」、英語のポッタリーからとった。
 土運車は砂利の「リ」、石炭車は「セ」、長物車(材木などの長大なもの)は「チ」、英語のチンバーの頭文字。大物車は重量物の「シ」、タンク車は「タ」、水槽車はみずの「ミ」、ホッパー車の「ホ」は分かりやすい。
 これらをまた、荷を積める重量で4分した。14~16トンは「ム」、17~19トンは「ラ」、20~24トンは「サ」、25トン以上が「キ」である。順に「ムラサキ」となる。この「ム」については軍が関係している。
 軍需輸送で使い勝手がいいのが軍馬輸送用の15トン積載有蓋車だった。そこで大量に規格化されたが、「ムマ=馬」だから記号設定の時に「ム」とされた。その後、ムを頭文字にした4文字熟語があるかと相談し、ムラサキを選んだという。
 その他、ラッセル車は雪をかくから「キ」。検重車が「コ」、どうしてかというと衡重車(こうじゅうしゃ)からコになったという。工作車は「サ」、救援車は「エ」、操重車(クレーン車)が「ソ」、控え車の「ヒ」などまではなかなか覚えられない。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)12月21日配信)