鉄道と軍隊(19)─朝鮮半島の鉄道

戦前日本の国土

 (明治43)年の韓国併合により、正式の領土(統治区域)は内地・朝鮮・台湾・澎湖島・樺太に確定する。内地にはその存在が古来の日本領土であり疑うものがないものがある。
1910
○小笠原諸島(文久元年に幕府が開拓について各国公使に通知する)
○沖縄(明治5年に琉球国王を藩王として領土であることを確認)
○千島(安政元年に択捉島を日本領土、得撫島(うるっぷとう)以北クリル諸島をロシア領土とする。「樺太千島交換条約(明治8年)」によりクリル群島、すなわち得撫島以北の18島を領土とした)
○大東島(明治18年沖縄県に編入)
○硫黄島(明治25年東京府に編入)
○魚釣島(尖閣列島、明治28年沖縄県知事に標杭建設)
○南鳥島(明治31年東京府に編入)
○沖大東島(明治33年沖縄県に編入)
○竹島(明治38年島根県に編入)
○沖ノ鳥島(昭和6大韓帝国の鉄道は高規格
「国内鉄道路線は国際規格とする」と李氏朝鮮政府が決めた。そのため韓国最初の鉄道は初めから軌間1435ミリの国際標準規格だった。仮運行の最初は1899(明治32)年に港町仁川(インチョン)
から現在のソウル駅の南西になる鷺梁津(ノリャンジン・漢江南岸になる)までの33.6キロメートルだった。もともとその敷設権をもっていたのはアメリカ人実業家である。それをわが国が買収し、合資会社をつくった。朝鮮にもわが国が横浜から東京への路線を建設したように、首都とその外港と結ぶ線路が初めてできた。
 翌年、19世紀最後の年に漢江を渡る橋が完成し、全長41キロの京仁線が開業した。興味深いのはこの軌間がいっとき、1524ミリの超広軌になりそうになったことがあった。それはロシアの影響を受けた李氏朝鮮政府がそのように決めたからである。シベリア鉄道と同じ規格だったのだ。当時、釜山から京城へ伸びる線路を建設しようとしていたわが国はこれに猛反対をして、朝鮮全土の鉄道は標準軌に決まった。
 日露戦争に前後して、南北を縦断する京城と釜山を結ぶ京釜線、京城と新義州の間の京義線は戦時という非常時のおかげで突貫工事が行なわれた。1906(明治39)年にわが国が保護国として「統監府」を置き、部内に鉄道管理局ができた。株式会社だった路線もすべて国有化されたのは言うまでもない。
 1910(明治43)年にわが国は韓国を併合した。朝鮮総督府鉄道局の誕生である。内地の官鉄に対して鮮鉄と呼ばれる始まりだった。翌年には鴨緑江を越える橋梁も完成し、対岸の満鉄との連絡が
できるようになった。この直通運転が実現したことで、朝鮮の鉄道は日本と支那の間の物流の大動脈の地位を築いた。1917(大正6)年には朝鮮半島の国有鉄道の運営が満鉄に委託された。満鉄は京城管理局を置いて、京釜・京義の両本線の旅客列車は満洲に直通させたり、関釜連絡線(下関~釜山航路)を通じて内地の官鉄といっしょに朝鮮・満洲も同時にダイヤを改正したりする。
 この満鉄への経営委託は1925(大正14)年にはいったん解消した。朝鮮総督府が軍事優先から産業振興に方針を変えて、満鉄も戦後不況(世界大戦後の不況)で朝鮮の鉄道への意欲が減退したからだ。ただし、昭和に入って満洲の軍事的緊張が強まると北部の一部の路線は1933(昭和8)年以降、またまた満鉄に委託されるようになった。
 1927(昭和2)年になると、帝国議会は『朝鮮鉄道12年計画』を承認する。朝鮮の鉄道網はこれによって大きく拡がることになった。新線を1400キロ敷設、私鉄を買収する政策が実行される。敗戦まで朝鮮の国鉄の総延長距離は5000キロになっていた。また私鉄の勢いもすごかった。鉄道6社が合併して、朝鮮鉄道は延長600キロ余りの当時、国内最大級の私鉄になった。これを「朝鉄」と呼んだ。
 大東亜戦争が進むと軍事優先。鮮鉄も1943(昭和18)年には総督府交通局へと改組された。軍事輸送が増えて、動員についての取り組みが本格化したからである。
 第1次大戦からロシア革命、シベリア出兵などで中断していた日欧連絡路線も1927(昭和2年)に復活した。満洲国が建国されると、釜山から奉天、あるいは北京まで直通する国際急行が多く走った。
 1936(昭和11)年からは急行の3等寝台車では、毛布1枚が30銭で貸し出された。枕の貸し出しも同額でされたという。「あかつき」「ひかり」「のぞみ」といった急行列車のサービス向上なども並行して行なわれた。これは朝鮮の鉄道の収入がどうしても旅客収入に頼らざるをえない所から起きた。これは旅客が多いからではなく、相対的に貨物輸送が少なかったからである。朝鮮の中に十分な産業が育っていなかったからだった。そのため鮮鉄の経営は慢性的に赤字であり、総督府の一般会計から充填されていた。
 苦労が多かったもう一つの理由が競合路線があったことからである。内地と大陸を結ぶルートは、朝鮮半島を縦断しなくても海路を使える便利さがあった。内地から関東州へは大連への直通の航路があった。また、ソ連のウラジオストクや、北朝鮮の清津などを通って満洲へ向かう路線もあったからである。

日本人は何をしに朝鮮に行ったか?

 それは「史跡」見物に出かけたのだ。当時の中学生の修学旅行記を見ると、それがよく分かる。秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)についての古戦場などが観光の目玉になっている。島津氏が立てこもった蔚山城、小西行長の奮戦地などなどがガイドブックにも紹介されている。被害者?というべき朝鮮の方々にはお気の毒だが、ご先祖の奮戦の地でもあったから当時の国民には大切な場所でもあったのだ。
 また、朝鮮は日清戦争(1894~5)年の古戦場でもあった。『渡るに易き安城は♪』と軍歌で知られる「成歓の戦い」で戦死した喇叭手木口小平の記念碑もあった。そして平城には「玄武門一番乗り」で知られた原田重吉1等卒の逸話の門もある。木口の話は進撃する中で銃弾に撃たれながらも喇叭を口から離さず戦死した英雄譚である。これは戦前の国定教科書にも載っていた話だった。また、原田は門を攻めあぐねた味方からただ一人、城壁を乗り越え躍進し、清国兵を倒して内側から門を開けた勇士である。
 日清・日露の両戦争はまだ国民の記憶に新しく、その体験者も多かった。現地の戦闘経験者も多く生きていた時代である。1905年の日露戦争は昭和10年からしても、わずか30年前だった。昔を懐かしみ、あるいは過去の知恵から学ぼうとする人たちがいて当然である。
 現地を知ることの大切さは言うまでもない。事実、戦後5年目に起きた朝鮮戦争では国連軍が、日清戦争と同じように平壌に進撃した。わたしも面識がある韓国陸軍白善?大将は『当時の国連軍首脳が日清戦争の戦史をよく知っていたらもっとよかった』と語ってくれた。白大将は満洲国軍官学校(陸軍士官学校)卒業のいわゆる「日本刀(いるぼんど)将校」だった。発足当初の韓国陸軍にはのちの朴大統領も含めて「旧」日本陸軍出身者が多かった。白大将は当時、少将の師団長だったが、釜山から平壌への進撃作戦では、国連軍はほとんど日本陸軍の作戦の基本と同じだったと語ってくれた。戦史の知識は必須のものだと大将は教えてくれたのである。
 興味深いのは、いまは存在がほぼ否定されている「任那日本府」の故地とされた金海も貴重な遺跡として紹介されていた。古代、わが国が朝鮮半島に領土をもっていたのは『日本書紀』に書かれた史実だということから当然であろう。他には慶州、扶餘、開城などをガイドしている。
 観光地ではいまは北朝鮮の名所になっている金剛山もある。スキー場もあった名所で、西洋式ホテル、日本旅館、朝鮮旅館が多く開業していた。足は京城からの直通、金剛山電気鉄道という私鉄があった。また、日本海側の海沿いを走る東海北部線にも京城から直通運転の列車が週末を中心に運転されていた。
 温泉が日本人にとっての魅力の一つだが、古くから朝鮮の人たちはあまり入浴しなかった。そのため温泉に関心が薄かったが、日韓併合以来、日本人による温泉地開発が始まった。史実として日本人が進出すると温泉施設が整備される。台湾も同じである。
 京城からおよそ100キロ南下した天安から私鉄に乗り換える。その朝鮮京南鉄道は沿線にある温陽温泉を大阪の「宝塚にも負けない」として豪華なホテルを経営していた。鮮鉄もまたタイアップして往復
割引乗車券を発行していた。週末の列車はなんと5割引きにまでしたというから、当時に京城に住む日本人が家族連れで出かけた記録もあるのも当たり前だろう。
 1938(昭和13)年からは日本航空輸送が定期便の旅客機を飛ばした。京城~咸興~清津に空路を開いた。同じく朝鮮航空は京城~裡里~光州を結んだ。
▼宿泊・駅弁
 旅行客にはJTBの案内所がサービスした。釜山港桟橋構内、京城・羅津の駅構内、清津桟橋の前や、京城の和信百貨店内や三越百貨店内にカウンターがあった。また、釜山、大邱、平壌、咸興にあった三中井百貨店内にあって、旅行案内、割引乗車券、旅館などの宿泊手配などを行なっていた。
 ホテル・旅館などは各地にあった。鮮鉄が直営した朝鮮ホテルのような西洋式の大ホテルが大都市には開かれていた。朝鮮式旅館は床にオンドル(床下に煙を這わせ床暖房をする)があるのが特徴で、ただし食事は朝鮮式だった。たくさんの漬物が出て、豪華ではあるがひどく辛いのが特徴だと書いた旅行記もある。
 少し前まで和風旅館には勘定の他に「茶代」というチップが慣行としてあった。明治時代の小説『坊ちゃん』でも主人公が帳場に5円の「茶代」を出したら待遇が一変した。いまは温泉旅館でも仲居さん達にチップを渡す人も減ったらしいが、戦前社会では常識のうちだった。だから旅費についていえば、朝鮮式旅館にはそうした慣習がなかったからだいぶ安くすんだらしい。
 旅行中の食事の楽しみは食堂車や駅弁、または各駅構内の食堂だった。食堂車のメニューは洋食と和食であり、ふつうに考えればなかなか高価だった。3000円から4000円くらいに換算される。駅弁はどこでも35銭というから700円くらいと考えられる。

言葉のこと

 言語はいたるところ不通だと鉄道院の文書は書いている(1919年)。朝鮮人口1669万人のうち、「やや解し得る」「普通会話ができる」者は合わせて30万人しかいなかった。約1.8%でしかない。しかし、鉄道旅行に限ってはそれほどの不便はなかっただろう。1921(大正10)年の満鉄京城管理局の統計によれば、駅勤務員のうち内地人は321名で、朝鮮人は44名だった。列車乗務員の車掌は内地人168名、朝鮮人12名である。駅長は内地人171名、朝鮮人1名のみ。助役も177名対3名。日本語ができなくては管理職や旅客を相手にする職には就けなかったのだろう。
 これが昭和10年になると、旅客掛では内地人92名対朝鮮人32名、駅務掛同276対157と朝鮮人の割合が増えていく。車掌も321対168となっている。この後の記録では、朝鮮人全体の12.4%が「国語を解する」とある。10歳未満の児童を除くと3分の1の人が日本語を読み書きできたと1943(昭和18)年の資料にもあるので、公教育の普及がしのばれる。
 ただ、鉄道利用者の80%は朝鮮人だった。それでも切符には日本語だけ、しかし漢字が使われているから乗客に不便はなかったという。駅構内や車内の表示には、漢字、ひらがな、ハングルを併記していた。
 駅名の表示には、漢字、ローマ字、ひらがな、ハングルの4つが書かれていた。ローマ字は漢字の日本語読み、たとえば大邱(テーグ)は「たいきふ」、ローマ字でTAIKYU、そしてハングルでテーグというわけだ。原則として漢字表記の地名を読むときは音読みにするが、東西南北を付けるときはそこだけ訓読みである。もちろん僅かの例外もあった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)12月7日配信)