鉄道と軍隊(3)

日露戦争を目指して

 ようやく手に入れた遼東半島をロシア・フランス・ドイツの3国による口出しで清国に返すことになった。油断も隙もないのが当時も今も国際的な力関係である。ロシアは清国に恩を着せて自分たちはしっかりと旅順と大連を手に入れた。この時の清を実質的に動かしていたのは李鴻章(り・こうしょう:1823~1901)である。李はロシアと接近した。ロシアもまた、シベリアの南に広がる満洲に関心をもっていた。1896(明治29)年6月、ロシアと清帝国は秘密のうちに、『露清防敵相互援助条約』というれっきとした対日攻守同盟を結んだ。もし、日本が清やロシアと戦端を開いたら、協働して作戦し、戦おうというものである。
 この条約の中に、黒竜江省と吉林省を通ってロシアのウラジオストックに通じる中東鉄道(東清鉄道ともいわれる)の敷設権がフランスとロシアの銀行に与えられた。李はこれによって莫大な財宝を得たといわれる。さらに1898年には清国内で起こった排外運動の賠償と、日本に下関条約で払った賠償金援助の担保として旅順・大連の25年間の租借権と、中東線から分岐して遼東半島末端の旅順まで
通る鉄道の敷設権を得た。これを南支線と当時言った。シベリア鉄道は厄介なことに大きく迂回していた。それを一気にウラジオに直線的に通す路線をロシアは手に入れたのだ。
 では、わが国はどのように外国に線路を延ばそうとしていたのか。まず、1898(明治31)年には釜山から漢城(のちの京城)への鉄道敷設権を入手した。1901(明治34)年には民間会社による鉄道建設が始まっている。この時にはすでに朝鮮を縦断して満洲に進み、シベリア鉄道を通ってヨーロッパへ届く大陸鉄道の構想がすでにあったという。なお、ソウル(京城)の外港にあたる仁川(じんせん)との間を結ぶ京仁線はアメリカ資本が手を着けていたが、これをわが国が買収し、1900(明治33)年にはすでに営業を始めていた。この会社の社長は有数の資本家、渋沢栄一(1840~1931)だった。
 日露間に戦争が始まるとわが国はただちに韓国に圧力をかけた。清国内の義州とソウル(京城)を結ぶ京義線の建設を認めさせた。もともとは韓帝国(1897年に改称)が独自に建設し、釜山からの日本建設路線と結ぶはずだったが、その国力もなく、約束が果たせそうもなかったのでわが国が工事を始めることとなった。工事を進めたのは陸軍臨時軍用鉄道監部である。名称は大げさだが、のちの鉄道大隊のことである。その完成は日露講和後の1905(明治38)年12月になった。

軍事輸送の実態

 鉄道の発達による輸送への貢献は大きかった。わずか10年前の日清戦争では仙台から部隊が列車に乗り、広島の宇品港まで9日と14時間がかかった。それが日露戦争では青森から宇品まで4日間、新橋からは2日と7時間、名古屋からは1日と9時間に短縮された。相手のロシア軍はモスクワから奉天まで、約1万キロメートル。一応の直通運転ができたが、単線でもあり、列車の運行も1日あたり4~5往復でしかなかった。1本の列車が運んでくる食糧や弾薬などはおよそ5万人の1日分にしかならなかったという。最初に増強された兵力6万人の将兵は集結の完了まで50日間がかかった。
 当時、野戦運輸通信長官として大本営にいたのは大沢界雄(おおさわ・かいゆう)という輜重兵大佐だった。大沢は愛知県出身、陸士旧4期、陸軍大学校4期生である。日清戦争中にはドイツに駐在して戦時輸送や鉄道統制について多くを学んだ。参謀本部第3部部員から1901(明治34)年には中佐で部長心得、大佐には同年11月に進級した。陸大卒業時には恩賜であり、運輸通信のエキスパートだった。戦時中の明治38年1月には少将になっている。
 この大沢が1898(明治31)年に帰国して報告したのが『鉄道ノ改良ニ関スル意見書』である。その内容は、ドイツでは軍部関係官庁とその他官庁とが緊密な連絡をとって軍事輸送の計画や実施の態勢がつくり上げられていることをいい、行政面での態勢の確立が重要だと主張していた。こうした努力もあり、開戦が間近に迫った1904(明治37)年1月23日には『勅令第12号鉄道軍事供用令』が出され、25日には『鉄道軍事輸送規程』も公布された。
 供用令は私設鉄道(以後私鉄とする)会社に軍事輸送に従うことを義務付けた。他の私鉄会社から援助を求められたときには可能な限り応じることが定められていた。また、何より効率を高めるために、官有鉄道(以後官鉄とする)・私鉄、会社の違いをこえて、搭載地から卸下(しゃか)地まで軍用列車の直通運転を義務付けた。また、軍事輸送での物資・兵員の搭載・卸下に必要なものは様々な分野にわたった。ホームの延長、したがって線路の付け替え、移設、駅施設の改良、倉庫の建設、各種機械設備の規格の見直しなどは、軍から要求されたときには拒むことができなかった。馬の輸送時に必要な水の供給なども鉄道会社を困らせた。軍馬は1日に水を大量に飲む。ふだんの駅前の荷馬車屋の数頭の馬の需要を満たす状況どころではなかったからだ。新しく井戸を掘り、あるいは水を水路で引き、
貯水場まで設けるといったことも負担のごく一部でしかなかった。しかも指示に応じなかった時には会社の役員には刑事罰まで適用されることになっていたのだ。
 戦中・戦後に陸軍が行なった鉄道輸送は、動員輸送、作戦輸送、還送輸送、臨時編成部隊充足要員と補充のための徴発馬の輸送や凱旋輸送があった。その評価は『戦役統計』に載っている。まず、『戦争で先制の利益は動員と集中の迅速が必要だが、運輸業務が整えられていなくてはならない。それなのにわが国の鉄道は小会社が各地で独立営業していて、鉄道作業局(官鉄のこと)と1、2の大会社線(日本鉄道や山陽鉄道など)を除くと、およそ軍事上の価値に乏しい。主要の大幹線すら狭軌単線で、機関車や客貨車も豊富とはいえない。しかも鉄道の職員は軍事輸送に慣れていない。軍の要求する「輸送効程」に対して、ひどく不十分だった』という。

召集の手抜かり

 当初の計画では、全軍同時の動員輸送を計画していたが、実際は船舶輸送力の問題があり、第1軍と第2軍、その隷下部隊の輸送は普通列車と臨時の計画で行なわれた。その他の動員輸送はほとんど平時からの事前計画で対処することができた。手抜かりと分かったのは召集令状を受けた者が指定地に集まらなかったことだった。各自が最も近い停車場から普通列車に乗ってきたので、調整して用意した軍用列車に空席が目立ったことである。
 この動員輸送に大変な手抜かりがあったからである。それは充員召集令状を配布するシステムが実態に合っていなかったからである。令状の裏には注意書きがあった。動員計画は「一人一馬」に至るまで召集した部隊に到着する日時が明記されていた。それは厳密に企画されたもので、各部隊の動員室では列車・汽船などの乗車船時刻を指定することで成り立っていた。決められた日時に、決められた場所から乗車、乗船がされる、その前提で計画は作られていたのだ。また、駅や港では令状を発券係員に見せて、割引値段で優先的に乗車船できるようになっていた。
 しかし、当時からすでに人口の都会集中という実態が存在した。東京や大阪、名古屋といった大都会には現役をおえて出稼ぎに、あるいは職を求めていた予備・後備役の下士卒が多くいたのだ。令状は本人の本籍地に出される。当時は、大隊区司令部がそれを警察や市長のもとに発送していた。本人が都会に寄留、あるいは旅行中で不在だった場合は収集通報人とされた戸主に兵事掛が手渡しし受領証を受け取ることになっていた。それを受け取った召集人は、急いで令状受令者(被召集者)に召集部隊の所在地、到着日時を通報しなければならなかった。
 本人が遠いところにいた場合は電信(電報)を使って連絡し、本人に令状を渡さねばならなかった。問題はここにあった。令状は戸主の元にあり、本人は電報しか持っていない。旅費は当然、割引の適用を受けられず自分払いである。このため上野駅ではたいへんな混雑があった。仙台の第2師団に動員が下されたのは2月5日だった。野戦師団を編成するためには多くの予・後備兵が要る。その他、兵站諸部隊、留守部隊、第1次後備隊、陸上勤務補助輸卒隊8個その他である。
 本籍地が第2師管にある東京に寄留していた召集を受けた下士卒は上野駅に集まった。歩兵第16(新発田)、同30聯隊の応召兵だけで200名以上が集まったのが2月7日のことだった。私鉄日本鉄道(のちの国鉄東北本線)の駅員は「令状がないから割引切符は発行できない」というのである。この事件は応召者の代表である後備役曹長が憲兵隊に事情を訴え、憲兵隊から駅側に説明をすることで決着がついた。同じようなことは第3師団の動員下令時の静岡駅でも起きている。
 積雪期の冬には多くの東北地方の農村人口が出稼ぎに都会に出ていた。このような事件は、当時の動員担当者が、そうした農村の事情にうといことから起きたことだった。動員計画をいくら緻密に立てていても頑固に本籍地主義をとっていれば、どうしても起きてしまう手違いだった。

各種輸送の問題

 軍事輸送の中でも重視されたのが「大輸送」ともいわれた「作戦輸送」である。運輸通信長官部では全国の鉄道網を数個の線区に分けるのは不利であると判断した。機関車や客貨車の運行上、すべてを掌握させるように線区司令部を1個だけ置いた。その隷下に出張所を配置しておいた。1列車以上の組織を必要とする諸部隊の輸送は運輸通信長官部で企画・管理した。その他は線区司令部が担任してほぼうまくいった。ただ、集中の初期のことだった。仙台と広島の間に、毎日14本以上の軍用列車を運行したところ、普通列車はわずか2列車しかなかった。おかげで沿線の普通貨物はひどく滞留してしまい、やむを得ず、3月10日以後では軍用列車は最大13本、民需用の普通列車を3本と改めることとなった。また、輸送途中には人馬に水や食料、飼葉などを支給する。約6時間ごとに停車できる給養停車場を置いた。
 還送輸送とは主に傷病兵や馬、戦場から集めた再生可能な傷ついた軍需品などである。これらは急ぐ必要もないので、集中輸送に使われた列車が返送されることを利用した。凱旋鉄道輸送は戦後の明治38年10月から39年3月までに行なわれたが、検疫所を通すために広島、門司、神戸と限られた。
 どれほどの量になるかを統計から見てみよう。開戦の翌月、明治37年3月の数字である。軍用列車本数は312本、客車1372両、貨車2722両、人員5万6600人、軍馬1万1419頭、車輛3752台、貨物9290駄、火薬854箱だった。もちろん、最大の記録は開戦の2月だった。貨物は3月の2倍、火薬は10倍にのぼっている。
 軍事列車の運行の複雑さは人員・馬匹・貨物の混合編成であることだった。ある部隊には人だけいて別の列車に弾薬がある、馬も到着が遅れるなどでは戦力をただちに発揮することなどとてもできない。どうしても同じ列車で装備・軍需品・馬を運ぶ客貨車混合にならざるを得なかった。しかも、生き物は水と食糧を必要とするのだ。
 東海道線では沼津、浜松、名古屋、米原、大阪の各停車場を給養停車場に指定した。特別運行では1時間30分、普通運行では30分から1時間の停車を行ない、弁当を渡したり、馬には水を飲ませたりする。そのために特別運行の場合は野戦第1師団(品川─広島)では54時間がかかった。走行時間は各列車の平均では36時間。平均18時間が停車している時間になった。
 野戦第1師団の細かい記録が残っているが、兵站部隊や後備部隊を除くと集中に必要な列車数は82本、客車462両、貨車1193両になった。細かい事例をいくつか見てみよう。歩兵第1聯隊第1大隊(ただし第2中隊と大行李は欠)は人員476名が馬29頭と一緒に客車11、貨車6の編成で、新橋から54時間かかり広島に到着。馬が多い野砲兵隊はどうかというと、第1大隊本部と1中隊の段列(補給中隊)大行李で人員83、馬匹99頭が2両の客車と21両の貨車で移動。品川─広島間をやはり54時間である。こうした大移動が集中輸送の一端である。
 このころの普通急行の運行時間は新橋─大阪間を14時間13分だった。軍隊輸送が優先されたために26時間がかかるようになった。これは上野─盛岡間の日本鉄道も同じで14時間39分がやはり26時間かかった。

朝鮮と満洲の鉄道輸送

 国内の鉄道輸送は軍需優先のために民間の物流に大きな影響を与えた。工業の原材料の輸送や製品の搬送なども大きな被害があった。それに加えて、朝鮮や満洲での鉄道の新設と改修、また運行のために国内から多くの資材や機材、人員が大陸に送られたことも国内鉄道輸送にしわ寄せがあった。
 すでに前に書いたように、京仁鉄道、京釜鉄道(一部竣工)が利用できた。対してロシア軍はハルピンと旅順間の東清鉄道南支線が開通していた。開戦後に大本営は京義鉄道を建設しようと臨時軍用鉄道監部を編成し、馬山浦(まさんぽ)から京釜線に接続する鉄道を建設しようと建築班を編成し、監部の隷下に入れた。他にも安東から奉天に向かう路線や京城から元山に向かう路線も計画された。
 また占領地の中の東清鉄道の修理と利用のために野戦鉄道提理部を編成した。この提理部は1904(明治37)年5月14日に編成が発令された。武内工兵中佐が提理(長官)となり、野戦鉄道第1運転班、同第1建築班、同第1工場班、同第1材料班の編成も下令される。これらの提理部と隷下諸班は6月14日、輸送船佐渡丸に乗船して宇品を出港した。
 ところが悲劇が起こる。ウラジオにいたロシア海軍の、ロシア、グロムボイ、リューリックの3隻の巡洋艦戦隊に襲われた。この巡洋艦隊は、捜索・追跡する上村提督が指揮する日本艦隊をかわし続け、通商破壊に従っていたのである。僚船だった常陸丸は撃沈された。これには後備近衛歩兵第1聯隊本部第1大隊が乗っていた。後甲板で軍旗を焼き、幹部将校は自決し、多くの下士兵卒が溺れ死んだ。
 野戦鉄道提理部、攻城砲兵司令部、第2築城団を載せた佐渡丸も大破し、徴用されていた鉄道技師1、書記5、技手5、書記補1、工長1、作業雇員25、工夫長3、機関手6、転轍手8、操車掛2、鍛冶工6、木工8、煉瓦工3、製罐工6、組立工2、車輛検査番5、諸品番1、火夫6、作業傭2、注油夫3、工夫31、駅夫6、掃除夫10の合計146人が死亡した。鉄道という組織は、これほど
多種多様な人材を必要とする。それを知らせたくていささか煩雑な数字をあげた。もちろん、すべて護国の英霊である。被害を受けた諸班は下関で再編され、7月5日と7日に大連に到着。業務を開始した。
 近衛師団の管下にあった鉄道大隊が動員令を下されたのは、2月17日のことだった。臨時軍用鉄道監部に配属されて、4月5日には第3中隊が増設された。本部、3個中隊による臨時鉄道大隊が編成され、臨時鉄道大隊と名称を変えられた。翌年にはさらに第4中隊が加えられた。通常の建制による常備団体であるのに「臨時」の名称がつけられた。おそらく編成の中に多数の官有鉄道の職員を含んだからだろう。
 次回は戦場での鉄道の様子を調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)5月11日配信)