鉄道と軍隊(11)─自動連結器への交換(2)─

ブレーキシステムのこと

 島安次郎という天才ともいうべき鉄道技師がいた。大正末の自動連結器への交換を推進し、その恩恵をいまも私たちは受けている。島は和歌山県和歌山市出身で東大を出て、関西鉄道に入社、国に買収されるとそのまま官吏となった。満鉄筆頭理事などを経て、1925(大正14)年には鉄道車両製作の「汽車製造」の社長となる。
 この島が手がけた偉大な仕事の一つにブレーキの改良もあった。
 考えてみれば、列車は走らせることが何より大切だが、安全に止めることもできなくてはならない。自動車のブレーキも同じで、速度を落とし、停止させ、その状態を維持し続けるというのがブレーキの役目である。ところが鉄道のブレーキは単独走行が多い車やバイクと違って、複数の車両をつないでいるときに一斉に同時にブレーキをかける必要がある。また、モーターやエンジンといった原動機がある車両と、ただ引っ張られている車両もあり、それらが一斉に制動されるということからシステムも複雑になっている。

鉄道ブレーキの初め

 昔といっても筆者が高校生のころには貨物列車にも車掌がいた。長い編成の貨車の列の後ろには緩急車(フという記号だった)という車掌が乗っていることができる車両が付いていた。この名前の付け方に歴史を感じるが、「緩急」ゆるめたり締めたりするという意味があり、これこそまさにブレーキが付いている車両だった。
 つまり19世紀の初めころ、鉄道の草創期にはブレーキが付いている車両が少なく、長い編成の時には、緩急車を間に挟み、それぞれに制動手という人を乗せていた。もちろん、ブレーキをかけるときには機関手が汽笛を鳴らすなどの合図を送る。制輪子というと難しく聞こえるが、車輪にパッドを押し付けて摩擦で回転を止める方法では、この制輪子を手動で押し付けていた。また、その位置をロックすることもできたので、駐車中も動かないように自動車でいえば、パーキング・ブレーキにもなった。
 下り坂にさしかかると、まず、いったん停止し、ブレーキ付の車両の中から一定の割合で選んで駐車ブレーキの位置にロックして再発進したらしい。つまり一部では制動しっぱなしで坂を下りて行った。それだけでは足りなくなると、また緩急車のブレーキを制動手がかけて歩いたという。平坦な線路で、また停止し、ブレーキを解除して歩いたのだから、ずいぶん運行上の時間的ロスもあったものだ。
 有名なスチーブンソンは蒸気力を使ったブレーキを製造した。1833年のことである。これは機関車だけに付けられ、ふつうの客貨車はやはり手動だった。

貫通ブレーキ

 いまはどんな列車も運転士の操作一つで一斉にブレーキがかかる。これを「貫通ブレーキ」という。明治20年代には旅客列車にはこれができていたらしい。ただし、この時代のものは真空ブレーキ、英語ではバキューム・ブレーキといわれるシステムだった。もちろん貨車にはこの装置はついていなかったので、貨物列車には一定の割合で間に緩急車が連結されて、制動手(車掌)が手でかけていた。一斉にうまくはかからないので、がたがたと大きな音をたてて停車していたという。
 真空ブレーキの発明は1874(明治7)年のことだそうだ。機関車に載せられたエクゼターあるいは真空ポンプでブレーキ管から空気を抜き、ブレーキシリンダーのピストンを動かすものだった。これは値段も安く、構造も簡単で効果もあった。しかし、問題は走行中にブレーキ管に穴でも開くとまったく作動しなくなるといった致命的な欠陥があった。
 ウェステイングハウス社といえば空気ブレーキで有名である。1872(明治5)年には、現在の自動空気ブレーキの原理で特許をとったのが創業者のジョージ・ウェスティングだった。これは圧力を高めた空気を使うもので、空気圧がブレーキ管から抜ける時に作動するようになってもいた。わが鉄道で使われるのは1919(大正8)年のことである。翌々年の大正10年から取り付け工事が始まり、1925(大正14)年
までに全車両に空気ブレーキが採用されていた。これを決定し、実行したのもこの島技師である。貨物列車が長く、したがって飛躍的に輸送量が伸びたのもこのおかげがあった。

強力な機関車を生み出す

 鉄道は国有化され、政治・社会のシステムに組み込まれ、さらに全国津々浦々までの地域に密着していった。鉄道は輸送力を増やすための変革を行なっていく。1930年代の半ばまでに非常に高度な鉄道技術を手に入れることになった。明治の初めには大きな異文化として導入された鉄道は、わずか40年の間に建設も車両製造も欧米からは自立し、独自の発達を遂げている。
 大量輸送の実現ということから考えてみよう。輸送単位の増大と線路網の充実が生まれた。世界大戦(1914~1918)を通じて、わが国の化学工業や重工業は大きな発展をした。そこで起こる変化は原料や材料、製品を運ぶ時に人や馬が引く馬車ではとてもまかなえないものになった。大量輸送手段が必要になってくる。
 わが国で自給できる鉱業産物としてはセメントがあるが、その原料である石灰石は東京近郊では奥多摩が産地だった。それが800トン、900トンといった単位で列車が編成されるようになったのは大正時代の中期である。1923(大正12)年には国産大型テンダー機関車である9900型(のちにD50)が東海道本線で900トンの列車を牽引し始めた。それまでの9600型では600トンから650トンしか運ぶことができなかった。重化学工業の発展が機関車の大型化、強力化を要請していたことになる。
 こうした大量輸送の態勢が1910年代の終わりから20年代の初めに整えられていった。明治の最末期から大正のほぼいっぱいにかけてである。ふつう、重工業部門が鉄道に頼ることが多いのだが、わが国の場合は化学工業がとくに鉄道に依存することが多かった。化学肥料やセメント、さらには燃料の石炭などが鉄道によって運ばれていた。この体質は第2次大戦後の80年代まで続いていた。当時の国鉄では、石油、石炭、石灰を3Sと呼んでいた。この3つのSは国鉄解体まで貨物列車で多くが運ばれていたのが事実である。

工業地帯の形成と鉄道

 いまも京浜東北線JR鶴見駅から小さな電車が伸びている。鶴見線という。それは京浜工業地帯が埋立地に大正時代に造られた。それにあたって敷かれた分岐線である。駅名も浅野財閥で有名な「浅野駅」や、安田財閥の創始者善次郎にちなむ「安善駅」が残っている。また、多くの人が集められた。横浜市鶴見区には沖縄県出身者が今も多い。それはこの時代の労働力として、本土へ渡って来た人がいたからだ。
 九州では門司から小倉にかけての臨港鉄道の線路網、関西でも阪神工業地帯と鉄道との関わりなどがいまも残っている。中京地区の名古屋も変わらない。貨物駅の新設や名古屋港の建設なども同じような状況のおかげである。また、輸送量が増えるにつれて、レールがより頑丈に重くなっていく。1メートルあたりの重さが37キロから50キログラムに増えていった。これを重軌条化というが、主要幹線ばかりか重い工業製品や原材料を運ぶ列車の通る路線は次々と改良されていく。
 1913(大正2)年には東海道本線の複線化が完成する。主要幹線の複線化は大都市や工業地帯を中心に進められた。単線では上り下りの行き違いによる停車時間が増えたり、安全確保のための信号管理などが複雑化したりする。御殿場線は丹那トンネルの開通により、複線が撤去され単線に戻ったままだが、いまも各駅ですれ違いのための停車時間を体験することができる。
 複線化と並んで幹線の勾配を緩やかにしたり、曲線半径を大きくしたりするための改良や新路線の開設などが行なわれた。別線や短絡線といわれるものだ。象徴的なものは滋賀県の大津から京都へ向かう線路である。東海道本線は御殿場付近でも知られるが急勾配の限度を1000分の25とした。水平距離1000メートルの間の高低差を25メートルとするという意味だ。これでは機関車の力が不足して補助機関車を後部に付けた。いまも神奈川県の山北駅はその雰囲気を残しているが、東海道本線時代には大きな機関庫があった。補助機関車がいつも待機していたからだ。
 大津と京都の間も1000分の10という緩やかな勾配にするために新線を建設した。新逢坂山と東山トンネルという難工事を行なって路線を短くすることに成功する。これと同じ目的で計画されたのが、神奈川県国府津と静岡県沼津の間のルートである。この工事では熱海と三島の間の丹那トンネルの建設が大きな課題となった。なにぶん、箱根・富士火山帯の真下に長い隧道を掘ろうというのだから難工事だった。17年の歳月がかかったのだ。
 次回は丹那トンネルの建設をくわしく調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)8月17日配信)