鉄道と軍隊(26)─昭和戦前期の鉄道

国鉄の旅客運輸の状況から

 1929(昭和4)年、アメリカのウォール街の株価の大暴落から始まった世界恐慌。わが国も大正末期からの震災不景気の痛手が癒えないまま、さらに大きな打撃を受けた。
 一方では1931(昭和6)年には陸軍が満洲事変を起こし、上海事変などを経て、37(昭和12)年には盧溝橋で北支事変が勃発する。事変は拡大化し、宣戦布告もないままに国内は準戦時体制とでもいうような変化が生まれてきた。
 逆にいえば、満洲事変以来、軍需を中心に生産活動は活発化した。昭和30年ごろには「もう戦後ではない」という言い方と同時に、「昭和8年に戻りたい」という声もあった。事変以後、戦争は景気に活気をもたらしていた。デパートには物があふれ、街にはネオンサインがともり、戦前社会最高の消費水準は1933(昭和8)年にあった。
 自動車も普及し、鉄道は貨物をトラックに奪われ、旅客もバスに流れた場面もあった。鉄道は自動車というライバルと戦いながら、貨物や旅客の誘致に努力もした。それが準戦時体制に入ってからは、軍需輸送を中心に需要が大きく増えた。おかげで技術開発や輸送力の増強に国鉄も民鉄も精力を振り向けるようになった。
 このため戦火が内地に及ばなかった昭和10年から15年までは戦前鉄道の最盛期といっていい時代になる。列車本数も最大になり、施設の改良も進んだ。新型車両も投入され、輸送基盤の強化がされた。

路線の改良

 この期の特徴は3つ挙げられる。
 1つ目は輸送需要が高まったので路線の中に「隘路(あいろ)」が生まれてしまった。ネックのことである。まるで大きな頭と胴体の間にある首のように狭くなっている様子を喩えたものだ。正常な流れがせき止められ、そこに物資や旅客が溜まってしまう。道路でいう渋滞のようなものである。こういうところは複線化する。
 2つ目は付け替え短絡線の建設。これはたとえば、熱海線という盲腸線を進めて丹那トンネルを掘りぬき、御殿場経由から12キロの短縮に成功したことをいう。さらに勾配も緩くなるようにする。
 3つ目は電化である。考えてみれば蒸気機関車ほどエネルギー効率の低いものはない。石炭をたき、水を沸騰させる。あげく多くのエネルギーを煙突から煙として噴き出し、蒸気をシリンダーから洩らして走る。計算すると、ざっと全エネルギーのうち7%あまりしか走行に使っていないという。煤煙はトンネルの中で乗務員や旅客に迷惑をかける。昔から勾配区間の、トンネルの多い路線では機関車乗務員の失神や病気が多かった。
 丹那トンネル開通(昭和9=1934年)と同じころに、山陽本線も付け替えで経路を23キロも短くした。岩国と櫛ヶ浜の間は高水を経由して結んだ。それまでの柳井経由の線路は柳井線となった。東海道の国府津から御殿場、沼津のルートは御殿場線になったようなものだ。九州の長崎線、鹿児島本線、日豊本線などが次々と昭和初めには付け替えによって経路が短縮されていた。
 清水トンネルが開通するまでは東京から越後新潟に出るには信越線回りが普通だった。高崎から急勾配の碓氷峠を越えて軽井沢に登り、長野へ出る信越(信濃と越後を結ぶ)線。これを高崎からまっすぐに北上するように上越(上野と越後同)線が開通する。清水トンネルの開通(昭和6=1931年)のおかげである。
 昭和8年には主要幹線中でもっとも全通が遅れていた山陰本線で、京都から幡生(はたぶ)の間が開通した。そして、幹線と幹線を結ぶ連絡線が多く建設された。伯備線(伯耆と備中)、豊肥線、筑豊線、高山線、久大線、土讃線、仙山線などがその例である。
 電化は長いトンネルのある東海道の国府津と沼津(丹那トンネル)、上越線の水上と石打間(清水トンネル)、山寺と作並間の仙山線などが早々と実現化した。大都市圏でも次々と電化は進んだ。「電車」がどんどん走るようになったのである。

ダイヤ編成について

 輸送力が増えるということは、当然新型車両が投入された結果である。新しい機関車も採用され、1929(昭和4)年9月には列車のスピードを上げ、旅客を誘致するダイヤ改正が行なわれた。東海道には特急列車も2種類走った。1等と2等しかない特急「富士」と3等車のみの編成である「櫻」があった。
 上野と青森を結ぶ東北本線では新しい急行が1時間も短縮して両市を結んだ。上野-金沢間も同じく1時間短くなった。全国的に急行列車網が整備されていったのだ。
 各地では快速列車(準急行)を増やして近郊への旅行を便利にする。関東の日光や伊豆、中部の伊勢など観光地へ気軽に行けるようにした。昭和5年には前にも書いた特急「燕」を走らせた。9年には丹那トンネルを走るので「燕」は東京-大阪間を8時間で結んだ。この記録は全線電化された1956(昭和31)年まで破られることがなかった。そして東海道線には「燕」の姉妹列車として「鴎(かもめ)」が12年から走った。
 準戦時体制なのに、14年、15年にも列車は増発されていた。これは数字を見ればよく分かる。営業キロ数は1926(昭和元)年に1万2900キロだったものが、41年には1万8400キロと40%以上も増えた。輸送人員も7億3570万人から18億7830万人と2.6倍にも伸びている。車輛の数も客車が9200両から1万760両へと17%増え、電車は820両から1700両へと2倍の伸びになる。非電化区間用の気動車(ジーゼル車)は16両から272両へと17倍にもなっている。
 通勤客が増えているという事実が見て取れる。そのバロメーターは定期券客の増加である。昭和元年には全旅客数の30%だったのが昭和11年には56%にもなっている。大都市圏ではこの影響で、昭和7年には東京から埼玉県大宮まで電車運転となり、総武線電車も終点の両国からお茶の水までの乗り入れ運転を始めた。関西でも事情は変わらない。大阪府の吹田から須磨へは昭和9年、次は延長されて12年には吹田と京都の間に電車が走った。通勤時間帯の列車増発が企画・実行された。

新型客車

 国鉄はじめ多くの鉄道会社の客車は木製だった。台車や台枠はさすがに鋼鉄製だったが、屋根から壁はみな木製である。昔の万世橋にあった交通博物館には木製客車の精密模型があった。何層にも重ねられた側壁や屋根のダブルルーフなどのカットモデルには興奮したものだ。
 その客車の鋼製化が始まったのが1928(昭和3)年である。最初の鋼製客車はオハ31といった。長さはこれまでと同じ17メートルだったし、窓配置や室内の設備も変わらなかったが、鋼製化したことは大きかった。快適性、安全性の両立を達成できた。
 現在と同じ全長20メートルとなったのは、翌年から製造が始まったスハ32からである。画期的だったのはそれまで20メートル級の大型客車は3軸ボギー台車だったが、スハ32は2軸のままだった。台枠も台車も技術改良が進んだ結果である。
 ダブルルーフというのは屋根の形のことをいう。通風を考えた2段式屋根(モニタールーフともいう)は客車内の屋根の高さを低くして暗くもした。明治・大正の夜汽車の暗さはたいへんなものだった。照明はランプだったので、隅の方には明かりが届かず、強盗や泥棒も出たという。女性は恐ろしくて一人旅をしにくかった。
 それが丸屋根という現在と同じ構造になった。窓も幅が70センチから1メートルになった。この丸屋根は昭和6年からだが、おかげで3等寝台も3段式になった。旅客の数も増やすことができた。この新形式はオハ35という。昭和14年に製造が始まった。この明るい、大きな車両は10年間にわたって同型車も含めて2000両余りが造られた。筆者も昔、乗ったことがある。背もたれに緑色のモケットも昭和10年頃かららしい。
 注目すべきはこうした改良が一般向けの3等車が中心であったことだ。このころの客車は1等が白、2等が青、3等が赤色の帯を巻いていた。切符も同じ色にされている。今もJRの切符がピンクのような赤色なのはその名残だろう。それまで客車の改良といえば、1・2等車輛が優先だったが、この時期は3等車という大衆向けの改良が進んだことが特徴である。

新しい機関車と電関(デンカン)

 SLなどという言葉はいつからだろう。数的に劣勢になってからの言葉だろう。なぜならわざわざ言わなくても機関車はみな蒸気(スチーム)に決まっていたからだ。それが電化区間の延長につれて、電気機関車が現われた。ついた愛称が「デンカン」である。これもまた今は死語になった。
 違和感があるのが、僕らが子供のころ、機関車がひく客車の列を「列車」といっていた。もちろん、非電化区間でジーゼル機関車が牽引する車列もレッシャだった。ジーゼル客車(気動車)が走ってもそれはレッシャであり、デンシャとはいわなかった。それがいまはすべて鉄道の車列はデンシャというようになった。たしかに、ジーゼルも発電して走るタイプばかりだから電車でもいいようなものだけれど。これは余談。
 昭和になると電気機関車も国産が本格化された。EF52や53である。Eはエレクトリックであり、Fは動輪が6軸であることをいう。続いて同56、57である。先輪部分はどれもがオープンデッキになり、乗務員は前から運転室に乗りこんだ。
 蒸気機関車も大型化、高出力化して有名なD51(デゴイチ)、3シリンダーのC53、C55、同57、58などが開発された。とりわけD51は蒸気機関車の代表だった(昭和11年)。外見的な特徴は動輪のボックス型の採用である。それまでの機関車の動輪は自転車のようなスポークタイプだった。それが大きな穴が開いたものに変わった。工作が容易なのはいうまでもない。強度も向上した。
 幹線では1000トンを超す長大な貨物列車が生まれた。それを新形D51は力強く引っ張っていた。旅客用の高速機関車も開発された。昭和3年にデビューしたC53はスマートな大型機である。シュッシュッポッポという2気筒の音とは異なって、シュポッポ・シュポッポという3拍子の音が珍しかった。アメリカからの輸入機であるC52に替わって東海道や山陽本線を走りぬけた。このうち1両が流線型のカバーがかけられ、大きな話題になった。しかし、保守・整備にも手間がかかり、97両の製造にとどまった。
 C55(昭和10年)は最初からカバーがついたスマートな急行専用機だった。話題になったがだんだんカバーが外されて普通の外観に戻った。昭和12年に登場したC57は「貴婦人」という異名がついた美しい機関車である。万世橋の博物館にはこの形式が保存されていた。また、現在も山口線には動態保存されて走ることもあるという。
 デンカンも次々と投入された。EF10(昭和9年)は丹那トンネルの開通に備えて造られた貨物専用機である。長く使われたEF57(昭和14年製造)は国鉄を代表する機関車だった。スマートだったのは、青梅鉄道公園に保存されているEF55型(昭和10年)である。流線型のカバーがかけられ、戦後には「ムーミン」に似ているといわれたが、これも保守・整備上の問題があった。さらには終着駅での向きを変える手間などがいわれ、3両しか造られなかった。デンカンの良さは前後というか両方向とも同じ形であり、運転台が両側にあることだ。それが片方だけなら、向きを変えるには転車台(ターン・テーブル)が必要になる。SLと同じような不便さがあったのだ。
 EF56(昭和12年)という両端が丸みを帯びた機関車もあった。なお、56と57の両形式には客車暖房用の蒸気発生装置を搭載していた。これは軽油を焚いて蒸気を生みだしたものだ。
 またローカル線用の小型SLも製造された。近郊列車や近距離の運行のために、タンク機関車のC11(昭和7年)や小さなテンダー(炭水車)をつけたC56が生まれた。
 このように、世界を相手にする大東亜戦争までに国鉄は最盛期を迎えていた。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)3月22日配信)