鉄道と軍隊(25)─泰緬鉄道の開通(2)

泰緬鉄道の開通

 1943(昭和18)年10月25日にコンコイタという駅で、鉄道第9聯隊と同5聯隊の奮闘努力の結果である開通式が行なわれた。予定の8月末より2カ月も遅れてはいたが、最初の年末に開通という計画よりも2カ月も早かった。いかにも鉄道聯隊の作業らしく、戦時急造の基準に合わせたスピード工事のおかげである。
 たとえば小さな丘を切り崩して造る「切通し」などは平時では、線路の両側それぞれに45度の角度で造られる。そこを土留めし、整地することになっているが、戦場では垂直に切り立った壁の間を線路は敷かれた。集められた線路を組み合わせて造ったカーブも急であり、資材を積んだ列車ですらしばしば脱線するようなものばかりだった。
 実際に線路がつながったのは10月14日だったが、式典は準備され、25日に執行された。総延長距離は415キロメートルに及んだが、北部のノンプラドックからコンコイタまでの152キロは崖を沿わせたり木橋を築いたり、工事が難しいところが多かった。それを担当した第5聯隊は苦労の連続だった。

工事参加者の犠牲

 いまの鉄道の完工式と同じで、接続された地点には金色の犬釘が打ちこまれた。兵士たちにはビールやタバコが配給され、長かった苦闘を慰労された。同時に部隊は犠牲者たちに黙祷を行なうことも当然のことだった。
 犠牲者の数はいろいろな数字がある。全体の三分の一に近い4万2000人ともいわれる。さらに現地や近くの国から連れてこられた労務者たちから出た死者もあり、合わせて7万人という大きな数字もある。こうしたことは正確な数字はつかみにくい。戦闘中であり、現地人労務者の出入りも多く、捕虜監視や実態把握も難しかった。工事の最中の事故による犠牲者もよくわからない。戦後、感情的な主張の中で捕虜延べ6万人のうち5200人が亡くなったというが、通説では3割という犠牲者数と合わない。
 戦場の常として、工事の事故が戦死とすれば傷病による死者が多かった。もともと衛生環境がひどく悪く、栄養補給や医薬品の補給も追いつかなかった。コレラ・チフスといった伝染病や、風土病であるマラリヤによる死者も多かったのである。
 陸上自衛隊が編纂した『大東亜戦争陸軍衛生史(昭和43年)』によれば、ビルマのラングーン第106兵站病院の伝染病科入院患者7100名中、約17%の1200名がマラリヤ患者だった。同じくコレラや赤痢・腸チフス患者は同じく50%の3500名にものぼっている。この数字は昭和17年7月から同19年7月の2年間で、給与も十分な第一線部隊の兵士の数字である。
 過酷な環境の中に身を置いて、栄養もろくにない生活では病気にかかればすぐに死を迎えたことだろう。捕虜の監視にあたった日本軍将兵も白米しか食べられなかった。そういうなかで捕虜収容所長たちは協力して豚を集め、工事現場の西洋人に肉を支給していた。

戦争犯罪人の摘発

 敗戦後になって連合国は捕虜たちの証言を元に「戦争犯罪」を摘発した。おかげで泰緬鉄道関係では2000人もの軍人・軍属が留置された。有名なシンガポールのチャンギ刑務所である。連合国が驚いたのは捕虜の下士官兵を戦闘に関係する労務に就けたことではなく、虐待したという訴えであった。日本兵がようやく手に入れたゴボウを炒めたり、煮たりして支給したら『木の根を食わせた』という誤解を生んだこともあった。
 殴られた、蹴られたという訴えも多かった。しかし、それは日本人社会での日常の光景でもあった。弱い立場の人は、戦前社会ではしばしば上級者や力ある者の暴力を受けていた。いま、懐かしそうに戦前の学校の体罰を語る人は減った。しかし、戦前の小学校教師はよく子供たちに重量物を持たせたり、正座を強要したりして「愛の鞭」とも言っていた。中学校の教員は当たり前に生徒の頬にビンタを喰わせていた。
 それが虐待だなどと誰も思っていなかったのだ。戦況は好転せず、ゲリラに悩まされ、自然は思うようにならない。そういう状況の中でただでさえ苛立ち、栄養不良の半病人の兵や軍属が捕虜の監視をしていたのだ。
 しかし、意外な事に予備審査の段階を経て、実際に裁判になった者は200名でしかなかった。そして英国やオランダ、オーストラリア軍の実際の法廷に立ったのは120名に過ぎなかったのである。有罪とされたのは111名であり、死刑判決を受けたのは32人だった。収容所の軍属だった朝鮮人看守は9名が処刑された。
 異文化であることも考慮され、殴打や蹴ったことはそれほどの問題にはならなかった。したがって、技術的な指揮を執った鉄道聯隊からは尉官が2人死刑判決を受けただけだった。多かったのは管理責任を問われた被告で、主に傷病対策や給食のことで追及された捕虜収容所関係者である。タイにあった「俘虜収容所長」だった陸軍少将が絞首刑とされた。これが最高位者だった。軍人にとって銃殺ではなく絞首刑の執行は不名誉なものである。欧州各国のモラルでは勇戦敢闘の末に手段尽きて捕虜になった者を「不当に取り扱う」ことは「軍人らしからぬ」態度と取られたのだ。
 裁判は案外、公平に行なわれたように見える。捕虜に瀕死の重傷を負わせるような暴行や、実際に殺してしまったような暴行を加えた場合は死刑になった。しかし、多くの死刑の受刑者は『国際法に違反して捕虜の環境に配慮しなかった』という理由が多い。直接、捕虜と接する機会が少なかった収容所の高級幹部が有罪になったことが多かった。
 また中には捕虜が裁判官になったり、陳述が許されないままに判決が下されたり、不当な濡れ衣で亡くなった方々も多いことは事実だろう。
 捕虜たちも監視に当たったり、技術指導をしたりする日本兵の状況を知っていた。それだけに報復の感情だけで告発するということも控えざるを得なかったらしい。事実かどうかは分からないが、終戦にあたって捕虜となった日本軍傷病兵を罵り、暴行を加えようとした英国兵を、泰緬鉄道で働いた捕虜将校が制止したという。
『ともに地獄で暮らした我々だけが彼らも人間であり、弱い存在であったことを知っている』と語り、弱っていた日本軍将兵に食物を与えたという。

戦場から届いた手紙

 英国人や豪州人、オランダ人の捕虜たちが不思議に思ったことがあった。それは日本兵から母国の家族に手紙を書くように勧められたことだ。看守の手で配られたハガキは赤十字社を通じて捕虜の母国の家族に届いた。
 もちろん、捕虜の側が日本軍の検閲を恐れて、事実や状況を正確に書くことはしなかったらしい。しかし、この1943(昭和18)年の時点では、日本軍にも国際法を守ろうとする「ゆとり」があった。不自由な中でも、精一杯の努力をする気持ちがあったのだ。
 次回からは戦時中の鉄道輸送について書こう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)3月8日配信)