鉄道と軍隊(15)─弾丸列車計画と昭和初めの鉄道

弾丸列車計画と海底トンネル

 1936(昭和11)年9月、関門海底トンネルは起工式が行なわれた。九州の門司側からだった。
トンネルは上下線が別々に2本掘られることになった。その方が安全だし、万一、完成後に事故があっても、戦時に被害があっても復旧が易しいということもあった。
最初の一本を掘るにかかる費用は1612万円であり、およそ1円を現在の2000円と見れば320億円余りで、丹那トンネルの建設費2600万円(約520億円)と比べれば、はるかに安かった。
もちろん、長さが3600メートルで丹那の半分以下でもあった。
 技術的にも進歩があり、難しい問題はあまりなかったといっていい。そこに北支事変、のちに日華事変、今は日中戦争といわれる日中両軍の衝突が始まった。
1937(昭和12)年7月のことだった。当初、小規模紛争で収まるかと思われたが、中国側の挑発や陰謀もあり、戦争というような事態になる。そうなると大陸への兵站輸送の需要も拡大する。掘削工事が急がれた。
下り線の開通は1941(昭和16)年7月のことになった。待望の上り線の開通は翌年6月になり、電気機関車による運行が始まった。正式の開通は11月のことだった。
 こうして関門トンネルが開通すれば、次は朝鮮半島から満洲への直通路線の建設計画が本格的になった。
しかし、関門トンネルに比べると、朝鮮海峡の路線予想は130キロメートル以上になる。そこでとにかく東京-下関間の路線を改善し、下関と釜山の国鉄連絡船を使って大陸へ延ばそうという計画が立てられた。
そのためにも朝鮮に投資してきた標準ゲージの鉄道につなげるための国内線の改軌が必要になった。青函連絡船のように連絡船内に線路を敷いて、列車をそのままに載せる。到着地では連絡船と地上の
レールを接続すればそのまま継続して走らせることができる。
 鉄道省内でも全面的な改軌について意見が分かれた。国内での必要性の問題(つまり狭軌のままでも十分に輸送需要には対応できる)というグループ。トンネルや橋梁、駅設備、機関区などを改造・整備する改造費用がかかるから今のままでいい。そういう意見をもった人たちである。
もう一方には、そういうコストパフォーマンスを考えるのだったら、別に新しい路線を建設すればいいという第2のグループもあった。思い切って在来線とは別に広軌で新しい線路や設備を用意する。大陸と同じ規格でトンネルや橋梁にも十分な配慮をすればいいと主張した。
 軍の要求は当然、広軌がいいというものだった。まず、輸送量が倍になる。速度を速くできる。そしてトンネルの最大幅が狭軌のままだと4.5メートルしかない。それも安全限界は2.2メートルにしか過ぎなかった。問題になるのは重火器や戦車のサイズである。
戦車兵だった司馬遼太郎氏はわが国の戦車がちっぽけで貧弱だったというが、大きくしようとしても(当然、大きい戦車が有利な事は当時の軍人は誰でも知っていた)、輸送時の安全を考えたら2.2メートル以上の車幅をもてなかったのだ。
 このことは戦後になっても問題になった。新戦車(のちに61式戦車と制式化された)が計画されたときに戦前の苦しみがよみがえらされた。
陸軍はシベリアの森林地帯を突破するために、工兵機材としてクローラー付きの伐開機(ばっかいき)という車輛を開発した。東部満洲からウスリーの密林地帯を突進し、ウラジオストックを占領しようという作戦計画に応じるものだった。
ところがこれを九州に運べない。やむなく日本海側を回してようやく運ぶといった事件があった。
 自衛隊では国産新主力戦車の幅を3メートルを切るようにまとめるとした案に落ち着いた。戦後の陸自の戦車には米軍供与のM4、M24、M41と3種類があった。
このうちM41は主砲口径76.2ミリ、車重23.5トンという軽戦車だったが、全幅3.20メートルだった。全長は6.94メートルである。姿を見てもバランスのとれた安定感ある優美なものだった。縦横比がおよそ7:3。
 戦車は敵の上陸地点近くまで鉄道輸送をしなければならない。あるいは専用トレーラーで運ぶ。そうなると道路の規格や橋の強度が問題になる。
そこで61式戦車の幅は3メートルより狭い2.9メートルとなり、重量は35トン、主砲は口径90ミリで全長は8.19メートルとなった。縦横比がおよそ8:3である。全体的バランスが「いささか阻害された」という証言がある。
どうしても大きくなった90ミリ主砲を載せた砲塔の割に正面から見るとアンバランスに下部が小さかった。
 しかし、素人が考えるほど単純に広軌がいいというものではないようだ。レールの幅が鉄道のもつ能力のすべてを決めると考えてもいいが、制約はゲージではなく、線路の基盤の軟弱さやヤード(停車場や貨物停留所の有効長)の長さが不足するなどの施設面が問題だった。
また、旅客列車の高速性については、当時は牽引する機関車の動輪の直径に頼っていたから(旅客用は1750ミリ、貨物用は1400ミリ)、線路の幅が広い方が安定性に優れていた。
 広軌が優れている点は確かに多い。だが、それだけ余計に投資しなければ効果は発揮できないことを計算に入れて計画を立てねばならない。
なかなかに複雑な計算が必要なことはお分かりになるだろう。今まで造ってきた線路と長期間にわたって輸送の分断が起きるマイナスがあることも考えれば、それほど安易に広軌化に賛成できるものではない。
しかし、世論やマスコミはいつも面倒で厄介な複雑な問題の検討はしないで、華やかな主張に同調するものだ。当時の世論は圧倒的に国際化や大国化ということで、広軌を待望するものだった。
 改軌にもともと賛成だったのは陸軍である。しかし、戦時において考えた時、単に輸送量の比較ではなく、一気にはできない、つまり分断化による不利益が大きいとした。
その結果、陸軍が広軌化に消極的だったことはすでに書いた。しかし、実際に戦火が大陸に広がりそうになった1937(昭和12)年には貨車などの大型化が望める広軌化に反対する者は少なくなっていった。
 なお朝鮮海峡トンネルの計画は、朝鮮-対馬間52キロメートル、対馬-壱岐間49キロメートル、壱岐-呼子間24キロメートルになった。小倉-博多-唐津-呼子が地上部分の計画である。

弾丸列車計画は進む

 実行案が答申されたのは1939(昭和14)年11月6日だった。東京─下関間は9時間だった。昭和30年代の「新幹線計画(東京・新大阪)」を下関まで延長すれば、やはり6時間くらいであり、現在の「のぞみ」では5時間だから、電車列車ではなかった当時のこと、ずいぶん野心的な計画だった。
 その答申を詳しく見ると、

  1. 路線は在来線と並行する必要はない。
  2. 線路はすべて複線とする。
  3. 長距離高速の旅客列車を集中して運転する。貨物列車を走らせるために旅客列車の速度を落とさない。
  4. 線路のレールの幅は1435ミリ。
  5. 線路と建造物の規格は朝鮮・満洲と同等もしくはそれ以上。
  6. 東京-大阪間は4時間30分、東京-下関間は9時間。

 これによって、この案は15カ年計画で実行に移されることになった。総額で5億5610万円(およそ1兆1000億円)と計算されたが、昭和15年から600万円(同120億円)が投じられ用地買収と、それにともなった測量を始めることになる。
細かい数字を青木槐三氏の著書から借りると、ゲージは1435ミリ、曲線半径は1500メートル以上、最高速度200キロメートルの走行ができ、勾配は上りの連続最高は1000分の10(水平面で1000メートル走ると10メートル登る)、下りは1000分の12、レールの規格は60キロ以上(1メートル当たりの重量)、カント(カーブする時の片側線路の高さ)最大で160ミリメートルである。
停車場の有効長は旅客列車500メートル(現在の新幹線は16両で約300メートルといったところか)、貨物列車600メートル、旅客用ホームの高さは1200ミリだった。
 牽引用に想定された蒸気機関車をHD53型という。軸配置は2C2、前・後従輪はそれぞれ2軸、動輪は3つ、3気筒過熱テンダー機関車である。もう一形式はHC51型といわれた。
これも同じく2C2スリーシリンダー、他に貨物専用機のHD60型、2D2過熱機関車の3種類だった。合計4種である。HC51型は運転整備重量160トン、HD60型は172トンというから、在来規格のC55(昭和10年製造・114トン)やD51(昭和11年同・125トン)等と比べるとその大型化が想像できる。
国際標準軌間を走る機関車とはこういうものだった。電気機関車はHEF10とHEH50である。動輪がそれぞれ6つ(F)と8つ(H)の2種類だった。Hが付くのは試作機の記号である。制式化される前の仮の呼び名だった。
 こうした機関車の設計と試作は1年間もあれば十分とされた。その前に検討されたのが停車駅である。東京、横浜、小田原、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、福山、広島、徳山、下関の17駅であり、いまの新幹線より少ない。
路線の実キロ数は東京-大阪間492.5キロ、大阪-下関間489.7キロを予定していた。全線では10%以上も短縮化している。問題になったのは「熱海」である。結局は停車することになった。
 特別急行の停車駅は、東京、名古屋、大阪、広島、下関で全線1100キロ。これを1つの踏切もない立体交差路線を、最高時速200キロで駆け抜ける。
そのころドイツでは時速80マイル(約130キロ)を超す列車は2本もあった。フリゲント・ハンブルガアという特急列車である。海の商船オイローパ、ブレーメンといった大型船、戦艦ドイッチランドとともにドイツ国民の誇りだった。
 アメリカの高速列車はユニオン・パシフィック鉄道のシティ・オブ・デンバーである。これが80マイルで走った。
時速70マイル(約100キロ)以上を出す列車はいくつもあった。ハイアワサ号は74マイル、デトロイト・アロー号は73マイルを出した。イギリスのコロネーション号はやはり72マイルである。いずれも平均時速だった。
これに対して、わが国の超特急「つばめ」は平均速度43マイル(69キロ)、最高速度95キロでしかなかった。そこへ最高速度150キロも出す列車を走らせようとするのだ。
 次回は、設計された新形機関車の話を中心にさらに弾丸列車計画を語ろう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)10月12日配信)