鉄道と軍隊(29)─戦時下の鉄道(3) 戦時のこぼれ話

職員から出征が相次ぎ女性が進出

 戦争が続き、まともな動員計画が立てられなくなり、正規の計画に基づいた「充員召集」や「補充召集」ではなく、手当たり次第に「臨時召集」が乱発された。いわゆる赤紙である。よく『一銭五厘のハガキ一枚で召集された』という俗説があるが、それは明らかに間違い。召集令状は神聖な兵事行政の一環の中にあり、役場の兵事掛がきちんと配達し、本人、もしくは戸主が受領印をおさねばならなかった。おそらくハガキという俗説は、留守家族が出稼ぎなどで不在の当人に、令状が来たことをハガキで知らせたからではないかという説もある。
 ともかく国鉄職員にも召集令状が舞い込み、若い人は現役、補充兵役の区分に従って入営していった。もともと頑健な人が多い職場だから、令状がやってくる率は高くなる。そこで穴埋めに女性を採用することになった。車掌、駅の出札、改札業務、小荷物掛などは当然のこと、1944(昭和19)年の末頃になると、転轍手(ポイントの切り換えをする)、炭水手(機関車の水や石炭の補給をする)、トラックの運転手などにも女性が進出した。
 女性車掌が、山手線、中央線に乗務し始めたのはやはり昭和19年のことであり、2か月の教育を受けて現場に配属された。制服がスマートだからという理由で応募した人も多かったらしい。年少では小学校高等科を出たばかりの満15歳から、平均で17・8歳だったというから可憐なものである。ところが指導掛を悩ませた。感情の起伏が激しく、乗客に威張って叱ったり、つっけんどんな対応をしたりという苦情も多かったらしい。
 1943(昭和18)年9月23日には厚生省が告示を出した。男子の従業員の雇用や使用、就職と従業を禁じる職種と年齢範囲を決めたものだ。その男子が禁止された職種名を出してみる。事務補助者・現金出納掛・小使・給仕・呼売・受付掛・物品販売業の店員・売子・行商・外交員・注文取・集金人・電話交換手・出改札掛・車掌・踏切手・昇降機運転掛・番頭・客引・給仕人・料理人・理髪師・髪結・美容師・携帯品預り掛・案内掛・下足番(すべて当時の表し方による)とある。サービス業は根こそぎ禁止というわけだ。
 もちろん、年齢による禁止範囲であり、『14年以上40年未満ノモノ』とあるから、これ以上の老齢者は構わない。だから国・私鉄の現場、駅などには若い男性の職員は見えなくなってしまった。新潟県の高田駅などは駅長と助役だけは男性で、あとはすべて女性職員だったという話がある。
 1942(昭和17)年には国鉄職員定数は約37万6000人だった。うち女性職員は1万4000人であり、占める割合は3.8%にしか過ぎなかった。それが翌年には5万人、11.9%になり、19年には、全職員数45万人のうち10万3000人となり、占める割合は22.8%にもなっていた。昭和11年を基準指数100とすると、なんと1263にも達していたのである。
 応召(召集令状による)・入営(現役や補充兵役に服する)・軍属採用などで在籍するのに不在な者は、昭和11年度には1864人だった。それが12年度には1万5000人に増え、19年度には17万2300人にも達した。年度末現在員の38.4%にまで増えてしまった。18年度から19年度末までの不在者は10万人も増えていた。
 東京の有楽町駅には62人もの女性職員が朝8時から夜の11時まで働いていた。女性たちの多くは地方では農家だったが、都会では下町地区が多かったようだ。ところが前職がカフェーの接客女性だったり、飲み屋のおねえさんだったりという人もいて話題にもなった。当時、芸妓といわれた接客婦からも多くの応募があったといわれている。
 上越線や信越線の分岐点、群馬県高崎の車掌区では300人のうち80人が女性であり、大活躍していた。彼女たちは老齢の男子車掌を励ましながら鉄道の定時運行に励んでいた。
 貨物列車の増加による機関手や機関助手の不足も問題になった。何より若い頑健な機関助手が次々と戦場に向かった。そこへ石炭の劣化、車輛の故障頻発である。満足な整備、点検も人手が足らず、カロリーの低い石炭となると機関車も満足に力を発揮しなくなった。
 東海道線の沼津機関区では6000カロリーの石炭が必要だったのに支給されたのは4500カロリーの低級品だった。そうなると大量に石炭をくべなければならなかった。しかも大量の灰が出た。投炭する18歳くらいの助手も栄養が足らず、力がなかった。仕方なく助手を2人乗せて、どうやら機関車が動くといった状態になった。
 女性の職員数は敗戦の昭和20年末期には5万8000人となり、全体の11.8%と激減し、21年にはさらに少なくなった。そして24年には49万人の全職員数の3.2%、1万6000人となる。軍隊から復員した男子職員に席を譲り、家庭に帰って行ったからである。

戦時型車輛の製造

 貨物用蒸気機関車の傑作といえばD51型であろう。初めてのボックス動輪の採用、牽引力も1000トンという長大貨物列車も牽くことができた。しかし、戦時とは輸送力増強である。10%の勾配を1200トンを牽いて走ることができる、狭軌の機関車の限界に挑む新型が企画された。設計の着手は1941(昭和16)年である。動輪1つあたりの軸重(載せる車体重量を軸数で割った数値)を16トンというから、線路の規格も最高の路線しか走れない。
 1943(昭和18)年に第1号機が完成した。ボイラーは大型化し、火室の前には燃焼室を備えて、ガスを十分に燃やし尽くしてからボイラー側の水に熱を与えるという凝った仕組みになった。昭和19・20年度に262両が生産された。しかし、資材の節約は戦時型のD51型と同じことになった。
 戦時型とはどういうものか。資材が不足して代用資材が使われた。もともと蒸気機関車は複雑な機械装置である。設計上では金属製品が基本であり、耐熱や耐圧にも配慮される物だった。複数の動輪の連結棒などは「摺動(しゅうどう:こすれ動くこと)」部分や、回転部品などには砲金が使われた。1938(昭和13)年から製造が始まったC58型機関車などは、新造時から機関車の銘板やナンバープレートは金色の青銅製から黒い鋳鉄製のものに替えられていた。
 1939(昭和14)年には「蒸気機関車代用材一覧表」が作られた。新しく製造するもの、修理を施されるものに適用された。銅の合金は鉄に、皮革や石綿は人造材料にされ、全体に薄っぺらな印象になっていった。1942(昭和17)年のD51型を例にすれば、金属材料の節約が叫ばれ、銅は55%、鉛は68%、鋼は1%の節減がされた。さすがに鋼は限界だった。鉛は比重が高いので動輪のバランスウェイトのために封入されていたが、これを改めるために設計変更もされた。
 戦争の様子が厳しくなってきた1943(昭和18)年1月になると、いよいよ戦前国鉄の最期としか言いようのない措置が取られた。「戦時企画委員会規定」である。まず、設計安全率の低減、耐久命数大幅短縮、質的規格転換、検査時期の延長、加工・艤装などの工程の短縮を中味とするものだった。とにかく、ここ数年を乗り切れればいい。そういった割り切り方である。
 鉄製だったものを木製にするなどは、その皮切りだった。煙突部分の両側に立ったデフレクター(除煙板)、ボイラー横のランニング・ボード(歩み板)、給水温め機の覆い、石炭庫のサイド、機器台、運転席の椅子、ひじ掛けなどは木製になった。見えにくいところではボイラーや煙突関係の鉄材を薄くした、シリンダー関係の寸法なども切り詰めて短くした。粘着力を増やすには車体重量も大きくするが、セメントを流し込むことまでした。
 興味深いのは、これが案外、新しい技術を生み出したことだ。炭水車の資材を節約するために、骨組みを全廃して「船底形」といわれる設計をしたが、車体全体で強度を上げて軽量化を図る戦後の軽量客車の開発の元となった。
 戦時設計は蒸気機関車ばかりではなかった。凸型のスタイルを特徴にしたEF13型電気機関車(重量101トン)というものだった。これも重量確保のためにコンクリートを詰めこんでいた。敗戦までに7両しか作られなかったが、大きな機関車が凸型というのは目をひいた。貨車でもとうとう3軸のトキ900が製造された。トはトラック(無蓋車)のト、キは積載重量が30トンを表す大型貨車である。石炭の輸送には大きな威力を発揮した。
 戦時型は電車にも現れた。戦後、大事故を起こしたモハ63型という。シートの大部分がなく、運転席も切り詰め、床面積を大きくした。出入り口は4か所だったが、立っている乗客のために換気を良くしようと窓を3分割した。中の窓は固定化し、上下の窓を別々に開け閉めすることができた。天井板もなく、屋根から垂木がむき出しでそこに裸電球が点るというものである。つり革や吊り輪もなかった。吊りひもで木の棒がぶら下がっていた。網棚は網などなく、木製のスノコが張ってあった。
 このようになりふりかまわぬ状態で、鉄道は決戦のかけ声で走り続けていた。次回は戦時被害や、鉄道員の奮闘、犠牲などについて調べよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2017年(平成29年)5月3日配信)