鉄道と軍隊(4)

鉄道職員と機材の派遣

 ロシア軍は撤収にあたって線路を壊し、車輛を持ち去っていった。乃木将軍の指揮する第3軍は要塞攻略の前に、この破壊された東清鉄道を復旧して大連港から長嶺子までの区間を使えるようにしていた。さらにそこから南西ほぼ10キロメートルまでトロッコレールを敷いた。攻城資材や銃砲弾などを運ぶためである。ただし、東清鉄道のゲージはロシアの誇る5フィート1インチ(154.9センチ)という広軌だった。しかも、機関車をはじめとして客・貨車はほとんど残されていなかった。鉄道部隊は線路の復旧・補修だけでなく、わが国の規格に軌間を直さねば貨車も動かせなかったのだ。
 改軌された東清鉄道も内地から機関車や客・貨車が運ばれてくるまでは、人力の手押しで動かすことになった。トロッコもまた、人が取りついて押すしかなかった。軽便鉄道を建設するために部隊がつくられた。1905(明治38)年4月、第1と第2軽便手押鉄道班が、7月20日には第3軽便手押鉄道班が編成された。この3個の班には、技手26、判任文官3、雇員14、工夫代用兵卒26、通訳と職工25の合計94名の民間人が含まれた。同じく臨時鉄道大隊にはやはり技手(1ないし2)、傭人50名が加わっていた。
 このような鉄道関係の諸部隊には多くの鉄道関係職員が配属された。各省の定員外とされて陸軍に出向、派遣されて戦時勤務をした政府職員はおよそ2万人にのぼった。その内訳の最大は逓信省所属の人々である。業務内容別では鉄道事務1万7000、電信事務1700、郵便事務1700となった。圧倒的に鉄道関係が多かった。派遣された鉄道職員は、臨時鉄道監部、臨時鉄道大隊、野戦鉄道提理部に配属を受けた。
 待遇は次の通りである。高等官待遇が93名、判任官待遇は5034名、傭人待遇約1万2000名だった。高等官とは高等教育を受けた者で文官技師、事務職では高等文官をいう。戦地での居住や給養などでは同官階の将校と同じ待遇を受けた。判任官待遇は陸軍では下士・准士官(判任武官)と同待遇、陸軍文官の官名では書記にあたる。そうされたのは逓信省書記や駅長、駅長助役などである。技手・電信掛・貨物掛・保線手・機関庫主任・機関庫助手は書記補待遇、事務雇・技術雇・車掌・操車掛・保線手助手・機関手取締・機関手・火夫・工長・工場取締などの雇員待遇者である。これら約5000名は技能をもつ者として下士と同じ給養を受け、恵まれた待遇を受けていた。これ以外の傭人待遇、鉄道作業局職員の身分を認められていたのは約1万2000名である。
 こうした官吏の細かい区分は現在でも行なわれているが、当時は戦時である。また戦地でもある。不慮の事故や戦闘に巻き込まれ死傷することも捕虜にもなる可能性もあった。身分関係、国家との雇用関係を明らかにしておかなければ補償や叙勲、恩給の支給などでも公平性が期待できなくなる。
 これだけの職員が出征したことで逓信省鉄道作業局は大きな混乱をきたした。とりわけ長い教育期間を必要とする管理職である文官補充はたいへんだった。内地の役所では職務を兼任したり、下級の人を上級職にあてたりといった緊急手段で業務に取り組んだ。陸軍側が戦後になって不満を述べた「鉄道職員には軍事輸送に不慣れ」などの状況は当然でもあった。
 戦う軍隊が要求したのは人ばかりではなかった。モノもである。膨大な数の鉄道機材が海を渡った。
 開戦時の官鉄・私鉄の機関車の総数は1538輌である。うち官鉄は489輌(全体の31.8%)、その14.7%の72輌が戦地に送られた。続いて多く供出させられた会社は日本鉄道(のちの東北本線)、九州鉄道の2社で、それぞれ23輌、15輌である。それは各社の機関車保有数のそれぞれ7%余りになった。
 貨物を運ぶのは貨車であり、人員輸送は客車である。貨車の開戦時保有総数は有蓋貨車(屋根がある)が9400輌、無蓋貨車(屋根がない)は1万3400輌、合計で2万2800輌、それぞれ1900輌と2800輌が海を渡った。実にそれぞれ全体の20.2%、20.9%が軍用になって内地から消えてしまった。これに対して客車は開戦時にあったのが4400輌、戦地に向かったのは126輌というわずか2.9%という数でしかない。戦地では有蓋貨車に、馬や濡れてはならない物を載せ、あとは何でも無蓋車に載せてしまったからだ。野戦の軍司令部でも有蓋貨車の内部を整頓して椅子やテーブルを持ちこんで
幕僚たちが事務を執っている場面が日記などにも出てくる。
 戦地へ向かう動員輸送や作戦輸送の時には、まだ戦地への人・機材の転用はあまり行なわれていなかった。しかし、戦争も後半になってくると機関車が足りない、貨車が不足しているということが普通になっていた。熟練した鉄道員も姿を消し、臨時に養成された不慣れな人たちが業務に従った。戦後の復員、100万人の凱旋輸送はこうした人不足、車輛不足の中で行なわれたのだ。

兵站輸送のための新線建設

 戦争の全期間を通じて陸軍が企画経営した鉄道は、
(1) 朝鮮の京義線(臨時軍用鉄道監部)
(2) 馬山浦線(同上)
(3) 満洲の安奉線(臨時鉄道大隊から臨時軍用鉄道監部へ渡された)
(4) 新民線(臨時鉄道大隊)
 と、占領地内の東清鉄道の改築運転(野戦鉄道提理部)があった。そのほかに起工後すぐに講和成立で中止になった京元鉄道(京城から東進して元山を結ぶ)と手押軽便鉄道だった。この軽便鉄道も総延長は数百マイルといわれている。
 ソウルと義州を結ぶ京義線は建設途中の京釜鉄道と竜山で連絡する。釜山から鴨緑江左岸の義州までを通して結ぶ計画だった。開戦すぐの1904(明治37)年3月に着工された。この鉄道が通れば、ソウル外港の仁川から京釜鉄道京仁線経由で、鴨緑江北岸までの兵站鉄道輸送が実現するはずだった。
 しかし、この計画ルートは開城の直前で臨津江、平壌の手前で大同江、安州の先では清川江と大寧江という4つの川を越さねばならなかった。しかもこの区間といえば山間の僻地ばかりを通る。およそそれが100マイル(約160キロ)にもなったので建設用の資材・機材を送ることから困難が始まった。内地から船で送って揚陸してからも大変だった。結局、わざわざ支線を敷いて陽陸場から現場に運ぶことになった。
 大急ぎの工事で1905(明治38)年の1月中には橋梁のほかは軌条を敷くことができた。2月には臨津江、3月には大同江の鉄橋が完成、4月にはなんとか2つの橋で中断部分を除いて運転開始。しかし、2つの鉄橋が完成したのは翌年4月になってしまった。しかも、完成を急いだために、難しかったトンネルの掘削をしなかったために最大勾配が300分の1(御殿場線の1000分の25よりきつい)、曲線半径が800メートルという急カーブもあった。おかげで全線の直通運転が可能なのは22トン車3輌がやっとという有様だった。戦後の営業運転に対応するには全面的なルート変更や路線改築が必要なものに過ぎなかった。
 馬山浦は朝鮮半島突端の鎮海湾に面している。はるか昔、元寇といわれる高麗・元の連合軍による日本への遠征時にはここに「征東行省」が置かれた。ここで侵攻用の艦船を艤装し、物資の搭載も行なった港である。しかし、逆に豊臣秀吉による朝鮮征伐では物資の卸下(しゃか)地に使われた。また1900(明治33)年にはロシアがここを租借しようと軍艦マンチュリアンが占拠した。このころのロシアは武力を背景にして無法であり、対岸の巨済島を他の国に割譲することもしないよう朝鮮政府に要求した。これに対抗してわが国も巨済島を割譲せよと要求した因縁深い要地でもある。
 日露戦争の勃発により鎮海湾は日本海軍の根拠地になった。この地の防備のために大本営は開戦の年7月、要塞建設を始め、11月には鎮海湾要塞砲兵大隊が編成され、翌年4月には要塞司令部が置かれた。釜山から北へ向かった地、三浪津から分岐する馬山浦線の建設はこの動きと関連がある。講和の年5月に洛東江をわたる橋梁が完成し、京釜線との連絡ができるようになった。しかし、水害で橋梁が使えなくなり、再開通は10月にずれこんでしまった。結局、戦時の海軍根拠地とそれを守る要塞への兵站機能は果たせなかったといえる。

満洲の軍用鉄道と第1軍兵站

 満洲では鴨緑江の北岸の安東から奉天に向かう安奉線と、新民屯と奉天を結ぶ新民線があり、さらに最大の仕事は占領地内の東清鉄道の改修と運行だった。
 安奉線は第1軍(黒木軍・近衛、第2、12師団)の兵站輸送(糧食、被服、陣営具、衛生材料、獣医材料など)を目的に建設された。臨時鉄道大隊が開戦の年、8月に起工し、11月3日までに安東と鳳凰城の間を結び、翌年2月11日に鳳凰城と下馬塘の間を開通させた。下馬塘から奉天へ直行するように線路を延ばしたが開通は戦後の12月15日になった。結局、戦時の輸送に役立ったのは
安東と下馬塘の間、110マイルだった。
 第1軍の行動は鴨緑江の戦い以前では、鎮南浦を揚陸地にし、平壌を兵站主地として兵站監部を置いた。次に、梨花浦─安州を結ぶ線に北上し、鴨緑江の渡河戦に勝利してからは竜厳浦─安東のラインに進んだ。ここで竜厳浦を除いて、鴨緑江の南岸の管轄を野戦軍ではない韓国駐箚軍に任せるようになった。これから第1軍は竜厳浦に碇泊場司令部を設け、安東を兵站主地とした。これ以後、満洲軍の右翼として行動する第1軍は安東を起点とする兵站線に支えられるようになった。ところが第1軍の進撃路は山地が多く、水運が使えず、陸路に頼るしかなかった。補助輸卒隊を増加投入しても、その数が少なすぎ、輸送手段も少なかった。現地の中国人から牛馬や車両を徴発し、朝鮮人を雇ってみてもとても満足はいかなかった。『賃金が安い、家から離れるのはいやだ、馬の飼葉も貰えない、雨が降るのも困るなどと言って、黙って逃亡する者まで出た』というのが当時の幹部の思い出話にも出てくる。
 ここで活躍したのは補助輸卒が押す軽便鉄道だった。7月には鳳凰城まで開通し、補助輸卒隊が軽便貨車を人力で推進することとなった。8月になると機関車式の鉄道の建設が始まり、軽便路線も通遠堡まで開いた。ところが、9月に遼陽会戦に勝利すると、軍兵站線は大きく変わることになった。東清鉄道の野戦鉄道が改修され開通すると、10月27日に第1軍は兵站主地を遼陽に指定した。すでに25日には下馬塘より南を韓国駐箚軍に任せて、兵站線を接続させるようにし、軍が必要とする軍需品の大部分を遼陽方面から送らせることにするようになった。つまり、安東からのラインは副次的なものになったといっていい。
 この竜厳浦から安東へ、安東から下馬塘の北上ラインが再び活気を帯びるのは、鴨緑江軍が編成された時のことだった。戦争2年目の1月23日、大本営は第1軍兵站監に『臨時鉄道大隊が管理する安東県以北の手押式軽便鉄道と機関車式同は状況の許す限り鴨緑江軍の軍需品を輸送させよ』という訓令を発した。問題は鴨緑江軍には独自の兵站監部がなかったことだ。とりあえず第3軍の兵站監部をそのまま転用することになった。現地で兵站諸部隊の転用というのはなかなか難しい。第3軍兵站部隊は半数が遼東守備軍の仮設した兵站線上にあって、その業務を助けていた。それに内地で編成された部隊が来るのは早くても3月下旬、いま手元の補助輸卒隊も少なかった。そうした兵站線が未完成のまま3月初旬の奉天会戦に参加した鴨緑江軍にとって、2月初旬に開通した下馬塘までの機関車式軽便鉄道の輸送力は大きな助けになった。

第2軍の兵站

 第2軍(奥軍・第3、4、6師団)は5月、遼東半島の塩大澳に上陸した。大連港を根拠地にするために金州付近の敵を撃破し、南山の堅固な陣地を占領する。そののちに東清鉄道に沿う地区を遼陽に向けて前進した。ところが当初、この軍の兵站は困難をきわめた。大連湾の掃海が終わらず、機雷が敷設されている危険があり、大連と柳樹屯の揚陸場が使えなかった。おかげで遼東半島がもっともふくらんだ所にある東岸の揚陸地、塩大澳から半島を横断して西岸にある普蘭店へ物資を陸送しなくてはならなかった。ところがこの半島横断道路がほとんど整備されていなかったのだ。そのため、第2軍は普蘭店から前進が難しく、いわゆる攻勢防御の態勢をとらざるを得なかった。
 6月15日の遭遇戦は南下して反攻するロシア軍との戦いだが、退却する敵軍を追撃できないという不手際を演じなければならなかった。これを得利寺の戦闘という。その時のことを「機密日露戦史」には次の通り書かれている。
『第2軍は当時、追撃のための兵站機能の諸準備が未定であることから、大本営に対し復州西海岸よりの側面補給について意見を具申したが、大本営陸軍部は海軍部の協力を得られなかったので、その実施をためらったという事実があった(言葉づかいを変え要旨を記した)』
 これは旅順艦隊の出撃を思うと軽々と船を出せないという事情があったことからだ。遼東湾の制海権をまだ海軍はつかんでいなかったのだ。
 第2軍の輸送状況が好転するのは、ロシア軍が無蓋貨車をたまた遺棄していったことからだった。
 次回はさらに詳しく鉄道輸送と各軍の行動を調べよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)5月18日配信)