鉄道と軍隊(5)
第4軍の輸送力不備のため遼陽会戦の構想を変える
日露戦争の経緯については途中でも軽く触れていきながら記述を進める。読者は遼陽、沙河、奉天の3大会戦や満洲軍の行動などについてはすでに知っておられるだろう。だから以下は私自身の再確認のためのメモである。
第1軍(黒木為もと(木へんに貞)大将)は近衛、第2、第12師団によってなっていた。韓国の仁川、鎮南浦に上陸し、韓国を制して平壌付近に集中したあとに北進し、5月の鴨緑江の渡河作戦の緒戦に成功した。重砲を多く集めてロシア軍野砲を圧倒したためである。
第2軍(奥保鞏大将)は第3、第4、第6師団を中心に5月、遼東半島塩大澳に上陸したあと、大連港を根拠地として確保するため金州付近の敵を撃破、南山の要塞を突破した。このとき、機関銃による大損害を受けた。そののちは、東清鉄道に沿った地区を遼陽に向かって進撃した。
この両軍の中間地点には、5月中旬に独立第10師団が上陸、北上して(6月には第4軍として編成)、各軍は遼陽での会戦に向けて準備を行なった。この師団の兵站線は半島付け根に近い大洋河の河口にある大孤山から岫巌(しゅうげん)、続いて折木城へ、さらに東清鉄道の海城にとどく陸路があった。また、大孤山から大洋河をこぎのぼって哨子河へ北上し(水路輸送)、そこからは陸路で岫巌に進む路線もあった。
上陸当初は1個師団を中心にした第4軍だったから兵站補給にそれほどの困難はなかった。ところが7月中旬に第5師団が第4軍(野津道貫大将)の隷下に入ると事態は変わってきた。
『大洋河の輸送力も次第に向上したが、陸上運搬力が弱く、揚陸した糧秣がだんだんと哨子河に堆積するようになった。補充輸卒隊を増やしたが、とても水路輸送力とは比べ物にならなかった。これは哨子河と岫巌の間の道路が不良で車輛の積載量が追いつかなかったことにある。兵站監はこの道路に軽便鉄道を敷設したらどうか、主として糧秣を輸送し、患者の後送にも使いたいと大本営に具申した』という。
ところが上申を受けた大本営は所見を異にした。
と、大本営は兵站監からの具申を容れなかったのである。この第4軍の兵站輸送力の弱体は満洲軍の遼陽会戦の構想に大きな変更をもたらすものになった。
遼陽会戦の構想は次のようになっていた。第4軍の右翼を岫巌から北に直進させ、同じく左翼を折木城から北北東に直進させる。この間、第1軍は鳳凰城から北西方向に遼陽を目指す。第2軍も東清鉄道に沿って北東に遼陽へ進む。こうした理想的な「分進合撃(ぶんしんごうげき)」を実現できるように考えていたのだ。それぞれの軍が別々のルートをとり進撃し、最後には目標地点で同時に攻撃を行なうことをいう。日清戦争では清国軍が立てこもる平壌城を攻撃したのも、この分進合撃の方法だった。
ところが、第4軍への糧秣補給が不十分である。そこで第4軍の進撃経路に変更が加えられた。8月8日には第4軍は東清鉄道の海城に出て、鉄道沿いの東側を北東に進むことになった。第4軍の兵站補給は臨時に第2軍兵站倉庫から行なわれることにされた。このトラブルで遼陽会戦では右翼の第1軍の正面はひどく広いものになった。右へ戦線を広げることが兵力不足でできなくなり、遼陽の西方を流れる太子河を渡って右岸での「繞回(じょうかい)運動」の半径が小さくなってしまった。繞回とは敵にもつれ合うように接触しながらつつみ込む軍隊運動をいう。
第4軍の兵站監部は9月5日に主地を海城に移した。それでも第2軍の兵站線上の輸送力が2個軍をまかなうにはとても不足していたので、旧兵站線も維持しなければならなかった。限られた軍兵站の組織、人員は新旧2つのラインを維持しなければならない。ただし9月14日には占領地警備の遼東守備軍の編成があった。満洲軍が遼陽に支倉庫を設置したので、25日には主地を遼陽に移転して海城より南の兵站線の撤去を始めることができるようになった。
好転した第2軍の兵站輸送
柳樹屯にはロシア軍が撤退の時に、破壊できず遺棄していった無蓋貨車45両があった。6月17日には、それらを普蘭店に搬送して得利寺との間の手押し輸送を始めた。さらに第3軍(乃木希典大将)が大連で鹵獲した無蓋貨車300両の投入によって北瓦房店まで鉄路が利用できるようになり、さらに事態は好転した。もちろん、機関車ではなく人が押すのだ。また、7月には大連湾の機雷掃海が進み、柳樹屯に物資の揚陸ができるようになった。6日には柳樹屯から金州へ、続いて金州から普蘭店への貨車手押し輸送が始まった。しかも洋上輸送も順調になり、野戦鉄道提理部の活動で26日には柳樹屯と金州間の列車運転を可能になった。こうして8月の初めには柳樹屯から鉄路に沿う兵站主線を除いて他の路線を撤収するようになった。
続いて8月10日、黄海の海戦が行なわれ、旅順艦隊は傷つき港内に逃げて行った。14日には第2艦隊が蔚山(うるさん)沖でウラジオ艦隊を撃破した。この通商破壊を狙いとした艦隊はウラジオストックを母港とする大型巡洋艦3隻でなっていて、日本列島の周りを周遊し、海上輸送路をおびやかしていたのだった。国民はいら立ち、『海上の濃霧によって敵を発見しえず』という海軍の発表にも納得せず、「濃霧、濃霧、逆さに読めば無能なり」とまで海軍を非難していた。
しかし、この通商破壊戦を行なったロシア艦隊は再起不能となった。これでわが海軍の制海権を優位とすることができた。これによってわが国内の港から渤海湾に面した営口まで輸送船が直航できるようになった。営口は、東清鉄道の大石橋を経由した貨車による輸送と、大遼河をさかのぼり牛荘城へ向かう水路輸送の起点となることができた。そして牛荘は物資の中間集積のための重要な基地となった。これ以後、戦場が北に進むにつれて、東清鉄道の手押し貨車輸送と大遼河の水運輸送実績も大きく伸びていった。
遼陽会戦はかろうじて勝利に終わった。両軍の交戦兵力、わが13万4500、ロシア軍22万4600という大規模なものだった。人的損害もまた大きく、わが軍は2万3500、ロシア軍はおよそ2万と数えられる。
東清鉄道の改修と野戦鉄道部隊
野戦鉄道提理部は1904(明治37)年7月5日から7日の間に大連に到着した。まず、最初の作業はゲージ(軌間)をどうするかが問題になった。東清鉄道はロシアの5フィート1インチ規格だったからだ。将来にシベリア鉄道とつなげることから考えれば、改修などせずに破壊された箇所の修理だけでおえれば簡単なことだった。ところが、ロシア軍が残した車輛は無蓋貨車ばかりだった。機関車も有蓋貨車・客車もすべてロシア軍は持ち去ったか破壊していったのである。だからせっかくの貨車も当初の手押し運行にしか使えなかった。
朝鮮の鉄道と同じく標準軌(4フィート8インチ=1435ミリ)に改修することは、規模も小さく、作業量も少なかったし、機関車も含めて車輛関係の部品や資材もアメリカからの輸入がすぐ間に合った。しかし、その輸入費用が大きかったし、制海権が不十分。現にウラジオ艦隊が小笠原諸島にまで出没している。とても輸入は不安だということから、国内の鉄道と同じ3フィート6インチ(1067ミリ)にすることとなった。そこで大本営運輸通信部は国内の官私設鉄道から機関車をはじめとする車輛を徴発したことはすでに書いた。
野戦鉄道への改修は旅順付近、柳樹屯支線と金州へ通じる線路から始まった。8月頃にはすでに運転を開始したのだからたいしたものだった。9月になって遼陽を占領し、会戦での負傷者は初め手押し貨車で後送されたが、営口から乗船させるために営口と大石橋の間を改修し17日には列車運転を始めた。9月中には患者4000人あまりを営口から船に乗せることができた。
鉄道の輸送量については興味深い数字がある。沙河の会戦後のことである。いずれ奉天の占領も確実だろうということから、満洲軍総参謀長の児玉大将は井口高級参謀の意見を採用し、大連と奉天の間の複線化構想を参謀総長と陸軍大臣に提案をしている。『勝敗結局の争は運搬力の争というも過当の言にあらざるなり』とし、ロシアはヨーロッパから1万キロの単線をもっている、これを複線化するのは大変だという。これに対して我は地の利があり、『この上の兵力の増加は適度の程度に止め』て、努力を輸送力の増強に努めて彼に対して優越しようというのが児玉の意見だった。
しかし、この計画にかかる経費を大本営が試算したら複線化には700万円の金がかかる。しかも竣工は11月下旬になり、路盤の固定や軌条面の平準化にも時間が要る。単線であっても、すれ違いのための中間停車場を23カ所設ければ、30個師団の補給軍需品の日量3000トン、臨時輸送500トンが運べる。経費も22万円ですむと大本営は主張した。つまり日露戦争時の1個師団は1日あたり100トンの物資を必要としていたことがわかる。
補助輸卒隊の悲惨さ
補助輸卒隊は大活躍した。鉄道・水路輸送の整備、末端輸送、手押し貨車、手押し軽便鉄道による輸送、水運では舟の運行まで補助輸卒隊は働いた。戦地勤務をした軍人は約94万5000だった。そのうち輜重輸卒は、戦列にある部隊の大行李や縦列、兵站の各種部隊の要員などで25万2000人を占めた。全体の26.6%にものぼった。くり返すが、戦場で戦ったのは将校・下士・兵卒ばかりではなかった。4人に1人は一等卒にも進級できなかった万年二等卒の銃ももたない輸卒だったのだ。
補助輸卒隊は、陸上勤務、水上勤務、建築勤務の3つに分かれた。水路輸送にあたる水上、建築資材の運搬にあたる建築の各勤務もあったが、主力はやはり陸上で糧秣輸送にあたった陸上補助輸卒隊である。開戦の2月、動員された補助輸卒隊は39個隊、建築1、水上2、陸上36がその内訳だった。人員数でも建築194、水上723に対して陸上は1万6373名にもなった。
くり返すが、輜重輸卒は砲兵輸卒とともに正規の部隊の定員の中にあった。輜重兵大隊や歩兵聯隊大行李、弾薬大隊などに属していた。あるいは、兵站諸部隊の中で働いた。これらに入らないのが「補助」輸卒隊だった。大江志乃夫氏の著作にもあるが、近衛歩兵第4聯隊中隊長から第1軍兵站参謀になった一将校の手記がある。
鴨緑江を越えたのちはさらに状況はひどくなった。現地人の馬車さえ通らない山間の悪路を荷車で進んだ。輸卒の中には1日に数十回も河川を渡る者もあり、水虫が悪化し、栄養不良にもなり、おかげで夜盲症となる者も出た。
悲惨だったのはその外見である。補充の被服、靴もなく、ほとんど裸で足も素足、現地の中国人は彼らを『苦力兵(くーりーぴん)』とバカにしていた。
実はこの補助輸卒隊の輸卒こそ、『輜重輸卒が兵隊ならば、ちょうちょ、とんぼも鳥のうち』と差別され、蔑視された輜重輸卒なのだった。その兵役区分では第二補充兵とされた平時では教育もされていない体力もなく、体格も劣った人ばかりだったのだ。その出身はといえば、『文士もあり、医師あり、僧侶あり、富豪の子息あり、門地高き人もいるだろう。いわゆる箸より重いものは持ったことがない人が少なからずいた。学校教育を長く受け、専門職などになっていたのに体格不完全なために第二補充兵などになってしまった』というのが当時の新聞記者の書いたものにある。
こうしたひ弱で体格の劣った人が、同じ兵隊たちからさえ軽蔑され、仲間とは見てもらえないという境遇に落とされた。手押し貨車といい軽便貨車といい、彼らが現地の労務者と混じって綱を引き、手で押し動かし続けたのが鉄路兵站の実態だったのだ。
次回は、日露戦後の鉄道国有化のことを書こう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)5月25日配信)