鉄道と軍隊(2)

鉄道の利用に注目した陸軍

 1872(明治5)年に始まったわが国の鉄道は、欧米に比べればほぼ40年の差をつけられていた。このことは大きな危機感をもって受け止められたかというと、そうでもなかったと思わざるを得ない。なにぶん、何から何まで後発国である。産業も、社会の在り方もひどく違っていて明治維新政府もどこから手を付けていいか分からないといったところだったのだ。あまりに絶望的な状況では、人はある意味、楽天家になるしかない。楽天家は同時に現実的でもある。とにかく目の前のことを片付けようとする。
 すでに同70(明治3)年の普仏戦争ではプロシャ軍は、鉄道によって戦場に多くの兵員と物資を集中させ、フランス軍に勝利していた。この直前にヨーロッパに渡り、現地の軍事情勢を視察していた山縣有朋他のわが陸軍首脳陣がこれに目を付けないわけはなかった。
 この戦争までのドイツは多くの王国や公国の連合体だった。なかでもプロシャ王国はほぼ1世紀前のフリードリッヒ大王(1712~86)のころから抜きん出た軍事力を誇り、同66(慶応2)年には隣国オーストリアをも破っていた(普墺戦争)。この戦争ではプロシャ軍は5路線の鉄道でエルツ山脈の北側に20万の大軍を集めた。開戦のほぼ1カ月前である。1路線しか使えなかったオーストリア軍は、同じころようやく十数万の兵力を集めただけだった。
 プロシャ軍はこの経験を生かした。当時のプロシャ王国の首相は鉄血宰相といわれたビスマルク(1815~98)であり、諸王公国連合体から統一ドイツ帝国を生み出そうとしていた。それを支えたのがプロシャ陸軍参謀総長だったモルトケ(1800~91)である。モルトケは鉄道の大量輸送力に注目し、対フランス戦では9つもの路線を使えるようにした。そのために鉄道建設に努力し、自分でも鉄道会社の役員を務めたほどだった。
 鉄道には運行状況の把握のために駅間や本部などの間を結ぶ通信線が引かれる。わが国でも大正時代には、一般に電話が普及していなかった頃、鉄道電話が地方と東京・大阪をつなぐ便利な道具だった。大正バブルといわれた景気がよかった時代には(1920年ころ)、駅の鉄道電話を地方の投資家が株の売買に使っていたぐらいである。
 さておき、普仏戦争のころの軍隊が移動できたのは徒歩で1日20キロくらいだった。大砲や弾薬、食糧、その他軍需物資などは馬による輸送だったので、集結には思わぬ時間がかかった。これが鉄道ならば、搭載(積み込み)や卸下(しゃか・積み下ろし)に手間が必要でも、移動時間そのものは5分の1くらいで済んでしまった。つまり、1日に100キロの移動が可能になった。しかし、問題点も指摘された。積み下ろした物資を保管する倉庫がないことや、せっかく大量に物資を送っても停車場から先は、やはり馬による不完全な輸送に頼らねばならないことだった。
 また列車の輸送力も問題になった。そのころの非力な機関車や貨車の能力では1列車で400トンが限界だった。のちの時代のわが国の主力貨車は1輌で15トン積載が標準であり、せいぜい25輌編成といったところである。1個師団が250キロを移動するのに、50本もの列車が必要だったという。当時の列車の平均速度は毎時25キロぐらいだった。
 普仏戦争では鉄道の利用で両軍には大きな差がついた。プロシャの宣戦布告(7月19日)より4日前からフランス軍の動員は始まった。ここでいう動員は平時編制の軍隊を戦時編制に変えることである。具体的には民間にいる予備役軍人を召集し、備蓄していた軍需物資を配分し、軍隊が大きく膨れあがることをいう。対してプロシャ軍の動員開始は3日前の7月16日からである。プロシャ軍が第一線兵力の集結・展開を終えたのは8月3日だった。兵力は38万人である。フランスは同じ時期に25万人。この差が生まれた理由の一つは鉄道の利用の違いによってできたものだった。プロシャが9路線を使えたのに対して、フランスは半分以下の4路線でしかなかった。
 もう一つの理由は、兵役制度の違いだったと指摘されている。当時のフランスでは納金制度、つまり一定の金を納めれば入営することはしなくて済んでいた。したがって教育が終わった予備役兵、すぐに戦える現役兵力も少なかったのである。しかも、数少ない現役兵の多くは国境にあった要塞守備部隊に配当されていた。軍隊移動の機動力がひどく不足していたという実態があった。これに対してプロシャ軍は鉄道を使って、全土から予備役兵力を集めることができた。しかも、大兵力を短い時間で移動させて、敵軍が予想しなかった地点から進攻が可能だった。鉄道の運行統制も商務省と参謀本部から出向した軍人たちで委員会をつくった。民需輸送と軍需輸送の調整のためである。
 戦後の反省点も生まれた。進攻後の敵地の鉄道利用である。フランス軍は撤退に際して、必ず鉄道路線を破壊し車輌を後送していった。ドイツ軍は軽便鉄道を建設したり、破壊箇所の復旧を行なう鉄道部隊を編成したりした。それでも前線への物資を送り届けるにはさまざまな困難があった。組織にも、機構にも、人材にも大きな不備があったのだ。
 戦争の結果は大きく両国の国家体制をゆるがせた。セダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世は捕らえられ、フランスは第3共和制に移行する。プロシャ国王ウィルヘルム1世は皇帝となり、全ドイツ帝国の主権者となった。ビスマルクは帝国の首相となり、モルトケも帝国陸軍参謀総長の地位を得ることになる。このモルトケが推薦し、日本の新しい陸軍建設に大きな力を発揮したのが有名なメッケル参謀少佐だった。メッケルが来日し、陸軍大学校で教鞭をとったのは1885(明治18)年のことである。

官有鉄道と私設鉄道

 有事にあたっての動員、補給の継続などからみて鉄道は官有がいいか、それとも資本を持つ者たちが経営する私設鉄道が良いか。この問題は鉄道建設が順調に進み始めてから幾度も話し合われた。
 鉄道の軍事利用は当初、建設にあたった人々には関心外だった。伊藤博文や大隈重信、初代鉄道頭(てつどうのかみ)井上勝も同じだった。鉄道といえば鉱山という英国の技術指導で始まったせいもあるだろう。英国はもともと島国であり、海軍の勢力が強く、陸軍にも鉄道を軍事に利用するという発想が薄かったに違いない。
 それは当初の陸軍が「鎮台」というシステムをとっていたことにも関係がある。元の大藩があった城(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に本営を置き、各地に分営という部隊配置を行なう。これは内国の治安維持のための軍隊であり、兵力の移動や軍需品の輸送には海運や水運を使うという考え方である。事実、西南戦争では徒歩でしか移動できない西郷軍は、政府軍の海軍や民間からのチャーターだった輸送船の機動力に負けたといってもいい。
 西南戦争の翌年に山縣有朋が参謀本部長になると軍制もプロシャ式の導入に決まり、陸軍も進んで軍事利用に関心を持ち始めた。敵国が(具体的には清国)どこかの地方に侵攻してきた場合、制海権はあてにならず、鉄道を使って兵力を集中すべしと考えたからだ。こうしたことから鉄路が脆弱であってはならない。海岸線からなるべく離す、当時の主力艦砲である口径32センチの射程外が安全であり、海岸線から3キロメートル以上離せという要求があった。新設路線の位置は陸軍と鉄道当局の合議とすることを認める太政官の裁定で確定した(1884年)。
 とはいうものの、明治初年の貧しい国家予算では戦時の輸送力増強に応じることができる官有鉄道の建設は思うように進まなかった。それでも政府と軍は軍隊の命脈が輸送力にあることを重視し、多くの手を打っていた。
 現在の御殿場線は1934(昭和9)年に難工事だった静岡県の丹名トンネルができるまでは東海道線だった。東京から沼津に向かうと、国府津から線路は右に折れ曲がり、神奈川県の松田町から山北町に向かう。山北には大きな機関庫が置かれた。御殿場は標高400メートルの高地にある。そこにたどり着くまでに当時の鉄道技術の限界である1000分の25という急勾配があった。平地で1000メートル進む間に25メートルを登るという傾斜である。
 こうなると、条件によっては蒸気の圧力を上げ、砂を線路に撒いても、機関車は動かなくなり、車輪は空転し、最悪の場合は坂道を滑り落ちてしまう。この区間は後ろから補機をつけたり、強力な機関車を輸入したりしてなんとか工夫をしていたのである。ここの輸送力を向上させるために複線化が進められたのは1891(明治24)年に終わっていた。
 日清戦争が始まってから広島から宇品港までの鉄路が造られたことは前にも書いた。それに似た突貫工事が東京の品川や神奈川県の横浜でも行なわれた。当時、青森や高崎から南下する路線は私設の日本鉄道だった。大宮から現在の池袋、新宿、渋谷を経て目黒を過ぎ、大崎から大きく左にカーブし品川に入った。
 するとどうなるだろう。機関車は一番前で新橋方向に向いている。横浜に向かうには機関車を付け替えて最後部に回す。それが無駄な時間を生んでしまう。戦時の輸送の損失を考えて、陸軍は大崎から品川に出ずに南下して東海道線につながる線路を建設した。これが現在も湘南新宿ラインといわれる品川西南線と名付けられた官有鉄道のコースである。
 横浜でもよく似た事情があった。現在の三代目横浜駅近くの高島付近は海の中の築堤を走った。初代横浜駅である現桜木町駅には大きく左カーブをして到着した。そこから神戸方面に走るにはやはり機関車の付け替え作業が必要になる。そこで、保土ヶ谷方面に直行する新線が建設された。昭和30年代後半になって根岸線ができるまでは桜木町までが盲腸線だったのはそういう理由があった。

日露戦争への準備

 日清戦争では鉄道の輸送力が高く評価された。全国津々浦々から召集された兵員は鉄道を使って兵営に到着し、あるいは徒歩で集まった。動員部隊に来れば、そこからは列車に乗って宇品や小倉、下関などの港に向かった。軍需品も鉄道で送られ、船に載せられた。そこでは同時に多くの反省点が生まれた。軍事ダイヤを作ることで、どこまで民需を保障しながら特別列車を編成できるか、武装した兵卒を乗せるのに普通の客車は適当か、馬を貨車に乗せるが、そのために便利な設備はどうか、停車場も馬や兵員、軍需品を同時に乗降させる、そのためには駅設備にどういう配置が適当か、などなどである。また、鉄道会社の存続も保障する形で運賃の体系も考えねばならなかった。日清戦争では平時の4割という特別運賃を適用した。
 軍事列車は重い。しかも通常より、少しでも高速で走らせることが必要だった。ということは基盤から始まり、レールも強度が高くなくてはならない。平時の運転に十分だった線路に大型の機関車を走らせることはできないのだ。橋梁やトンネル、ポイントなども戦時の輸送に耐えられるものにしなくてはならなかった。軍事ダイヤもいつも毎年、陸海軍の動員や輸送要求に対応するものを常備しておくことが必要になる。
 こうなると民営鉄道は不適当であることが多い。戦時という非常時に備えて、線路や施設に余裕のある設計はとてもできない。民営は少しでも利益を上げることが資本主義の原則だからだ。また、動員や物資の補給・兵站計画を民営会社に漏らすことになる。そうなると国家の安全が保てないという主張が出てきた。その上、お手本にするドイツはすでに鉄道国有化を進めていた。1892(明治25)年に制定された「鉄道敷設法」はそうした流れを背景に制定されたものである。
 興味深いのは日露戦争への準備の中で広軌への改良論が力を失っていったことである。東海道線は御殿場ルートの複線化が終わっても、続けて全線複線化を目指して工事を行なっていた。今でも新幹線が止まるほど関ヶ原は難所だが、1900(明治33)年にはここも複線化され、関ヶ原の北側を通っていた線路は南側に付け替えられた。すでに日露戦争の前には東海道線の全行程の70%は複線化していた。また、日清戦争の前には複線化していた御殿場の近くでもトンネルが掘られて登り勾配がゆるくなった。日露戦争に備えて幹線の複線化を急いだので、トンネルや橋梁の拡大・改修が必要な広軌化はいったん棚上げされてしまった。

鉄道建設のエネルギー

 日露戦争中の鉄道の活躍を見る前にここまででのわが国の鉄道建設の特徴などをまとめておこう。まず、英国をはじめとして欧米の先進国では産業革命と鉄道が深く結びついていた。同時に蒸気機関の採用といった動力革命も起きた。鉄道の建設は、この動力を車両の運転、とりもなおさず輸送に使おうということだ。だから鉄道の開通とは、産業革命を推進しようという目的と、動力の革命がそれを可能にしたということと、2つの相互作用のおかげで発展したといっていい。
 ところが、わが国は産業革命とは何の関係もなしに鉄道を建設した。そこがわが国の鉄道の大きな特徴である。重工業が何もない。たとえば、機関車を造る、線路やさまざまな設備を造る、そういったときに自前で製造することができない。結局、機関車や貨車・客車の台車やレールなどは全部、輸入しなくてはならなかった。
 もう一つの特徴は、産業革命を呼び起こしたということがわが国の鉄道なのだった。鉄道が敷かれることで、その地方に産業革命が起こっていく。そうした力を鉄道はもっていた。たとえば、政府は幹線鉄道を造っていった。すると、中世以来、あるいは前近代社会から地方にあった産業が活性化した。とくに繭や生糸といった輸出産業の製品が横浜や神戸に運ばれるというようになった。静岡の茶などもそうである。それまで手工業といったレベルで作られていたそれら製品が輸出用に大量に求められるようになる。そこから新しい工場を造って、動力革命も行なわれ、地域が近代産業化していくのだった。
 静岡の茶畑の中でも、旧幕臣が帰農して生産した茶は、もともと清水港に送られていた。そこで船積みされて横浜港に送られたのだが、茶葉は湿気に弱かった。そこで清水に原材料を集めて工場を建て、加工し、港から出荷するようになった。それがしばらく続いたが、鉄道が通るようになると、加工前の茶葉を直接横浜に運ぶようになった。生産地から貨車で横浜に送り、より大きな工場を建て、そこで加工し、船積みするといったやり方に変わっていった。
 繭や生糸についても同じことが言えた。群馬県の前橋から栃木県の足利にかけては有数の機業地だった。東京から前橋まで日本鉄道がつながり、前橋から栃木県の小山まで両毛(かみつ毛の国・しもつ毛の国、すなわち両毛)鉄道が開かれると機業地帯は結びついていった。この日本鉄道、両毛鉄道を走り、品川から横浜までの官設鉄道に直通運転する列車が走り始めた。おかげで、それまでより大量の繭や生糸が生産され、機業地にも蒸気動力の産業が育つようになった。
 1880年代(明治10年代後半)から鉄道の企業家たちがこうしたことに注目するようになり、産業革命を起こすために鉄道を使うといった傾向が強まっていった。同時に、江戸時代以来の「人は陸を、物は水上を」とはやされた内陸水運や道路輸送が力を失っていく。こうしてわが国の鉄道は発展していくのだが、完全な自立化にはほど遠かった。それはまだまだ重工業に力がついていなかったからだ。
 初めての国産機関車が造られたのはようやく1896(明治29)年のことでしかなかった。日清戦争の軍事列車をひっぱっていたのは、先進国から輸入された各種さまざまな蒸気機関車ばかりだったのだ。夏目漱石も利用したことで知られる「坊ちゃん列車」こと伊予鉄道のドイツ製タンク機関車も1887(明治21)年にドイツからやってきた。北海道のアメリカ製、本州の英国製、それに九州にはドイツ製が主流であり、さらにフランス、ベルギー、イタリアなどが激しい売り込み合戦を行なった。
 輸入する側は、それぞれの好みにしたがって買い入れた。輸出先はさまざまな国で、それぞれが製造会社を複数もっている。そうなると、機種や形式もふんだんになって、まさに百花繚乱、今も鉄道好きな方々の研究対象になるくらいだ。
 この問題点はすぐに分かる。規格の統一がなく、部品なども含めて標準というものがない。運行にも、保守、点検、修理にもたいへんな手間がかかるということだ。ほんとうの大量輸送が可能になるのは同じ形式の機関車を数多くそろえられるという状況があってのことである。
 重工業が確立していなかったというと語弊があるので最後に付け加えておく。軍事史ではすでに明治30年には、完成された連発式小銃である三十年式歩兵銃が生産されていた。また速射野砲や各種重工業製品はほぼ国産化されている。小銃弾や野砲弾の製造は立派な重工業だった。しかし、そうした国家安全の表舞台に立つ兵器の製造は自立化したが、背景にある民需用の重工業は残念ながらまだ不安定である。鋳物工業が弱いので高い圧力に耐えるボイラーは輸入し、動輪やシリンダーなどはみな海外から買うしかなかった。軍事工業は先行し、民需産業は後追いだったという日本近代工業の一つの形がここにあった。
 次回は日露戦争で実際に戦った鉄道のことを調べよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)5月4日配信)