鉄道と軍隊(7)

南満洲鉄道株式会社設立まで

 満洲に固有の権益を手に入れることができた。とはいえ、確立した鉄道は東清鉄道南満支線とその付属線(野戦鉄道提理部がゲージを変えた)、安東・奉天間の安奉鉄道(陸軍臨時軍用鉄道監部鉄道大隊が建設)だけであり、奉天と新民屯の間の新奉鉄道は清国がすでに英国に敷設権を与えていたので日本の経営権は認められなかった。
 問題はその認められた鉄道の経営主体はどこかということである。というのは、これらの鉄道はいずれも陸軍が建設したものであり、資産としては陸軍のものであることは明白だった。だから経営について陸軍の意向がどうしても重くなるのは仕方がなかった。しかし、満洲の門戸開放については1906(明治39)年3月19日には英国から、26日には米国から抗議を受けていた。早く軍政から民政に移管することが必要になっていたのだ。ただ英米両国が主張するように満洲の占領地を民政に移管するということは、同時に軍用鉄道の経営もまた民間が担当するようになることを意味した。
 当然、陸軍は軍政の継続を願う。しかし、戦後経営を含めて英米との協調を重視する外務省は当然、民政移管、門戸開放を要求した。この3月4日には西園寺第一次内閣の加藤高明外相が辞任した。在任、わずか2カ月だった。表向きはこのときの内閣による鉄道国有化政策への反対ということだったが、ほんとうのところは陸軍の影響を受けて満洲の門戸開放に消極的な内閣への反発だったといわれている。満洲の門戸開放についての政府部内の対立解消が戦後の最初の課題であった。
 満洲を西園寺公望首相は自ら視察することになった。4月14日から密かな旅行だった。総理の外国視察という前例のない行動だったために、大蔵次官若槻礼次郎に満洲視察を命じ、その随員に紛れ込んで正体をくらますという方法までとった。奉天では清国の奉天省官吏とも懇談し、対日不信を除こうと努めたという。5月14日、西園寺は初めての外遊から帰国した。
 満洲問題協議会が開かれたのは5月22日のことだった。初代の韓国統監に就任していた伊藤博文は首相官邸に元老や政府・軍の関係者を召集した。元老は枢密院議長山縣有朋、枢密顧問官松方正義、井上馨、元帥大山巌、政府からは西園寺首相、寺内正毅陸軍大臣、斎藤実海軍大臣、阪谷芳朗大蔵大臣、林董外務大臣、軍からは桂太郎陸軍大将、山本権兵衛海軍大将、児玉源太郎参謀総長だった。
 会議はまず、伊藤がマクドナルド駐日英国大使からの私信を紹介した。中身は日本の満洲においての軍政がロシアの昔と変わらないこと、日露戦争で英米両国から支援を受けたにもかかわらず、両国の商業活動を制限しているかに見えると指摘し、軍政の早い時期の撤廃を要求したものだった。
 もちろん、すでに前年10月末には野戦鉄道提理部は「野戦鉄道普通輸送規定」を制定していた。民間人もこの軍用鉄道を使えるようにするためである。外務省もいずれ列強の資本が満洲に展開されたとき、対抗できるだけの邦人資本力を養っておくために有効であると陸軍に働きかけた結果だった。もちろん、野戦軽便鉄道である臨時軍用鉄道監部が管理する鉄道も規定を設けたことは言うまでもない。満洲各地の開市、開港を求める列強の要求と軍用鉄道の運営は密接に関連していたわけだった。
 満州鉄道協議会では意見が対立した。伊藤は軍政から民政への移行を主張し、児玉源太郎は陸軍を代表して強い反対意見を表明する。「十万の国帑(こくど)、十万の英霊」を費やした土地をみすみす列強の圧力に屈して好きに利用させるなど、満洲軍総参謀長として戦争を指導した児玉にとっては何とも承服できないことだったのだろう。しかし、伊藤は言う。「満洲は決してわが属地ではない。純然たる清国の一部であり、属地でもない場所にわが国の主権が行われる道理がない」
 6月7日、勅令によって満鉄の成立が公布された。7月13日には西園寺首相は満鉄設立委員を任命した。その数、80名にも及んだ。メンバーは渋沢栄一、竹内綱といった京釜鉄道建設に携わった財界人、野戦鉄道提理竹内徹、のちに鉄道大臣も務める仙石貢といった技術者たち、外務省の山座円次郎政務局長、石井菊次郎通商局長をはじめとした大蔵、逓信両省の高官、軍部の代表などによって構成されていた。これを見ただけで満鉄が京釜鉄道のような純民間鉄道でないことがよくわかる。
 7月25日、児玉源太郎が急死した。設立委員長の後任には寺内正毅陸相が就いた。8月1日には阪谷芳朗蔵相、林董外相、山県伊三郎逓信相の3大臣の署名による命令書が寺内に渡された。この命令書の重大な内容は、開業の日から3年以内にゲージを国際標準軌間に改築するということがあったことだ。大陸の鉄道は標準軌間(1435ミリ)で敷かれることが決定したのである。

満鉄の開業

 1906(明治39)年11月26日、満鉄が設立され、初代総裁に後藤新平が就任した。前職は台湾総督府民政長官である。幕末に奥州水沢藩の下士の家に生まれ、福島の須賀川医学校を卒業し、愛知県病院に勤務した。1883(明治16)年から内務省衛生局に入り、ドイツ留学後1892(明治25)年に衛生局長となる。翌年、相馬家のお家騒動に巻き込まれ起訴され非職となった。その翌年、無罪が確定して官職に復帰する。98(明治31)年3月、児玉源太郎台湾総督に呼ばれ民政局長、続いて民政長官になる。まさに維新動乱期の出世ストーリーである。
 児玉と出会ったのは兵站と関係があった。日清戦争の復員業務の中の重要だったものは、内地上陸時の検疫である。1895(明治28)年3月に臨時検疫部がつくられた。部長は児玉源太郎陸軍次官である。その隷下の宇品検疫所で働くことになったのが後藤だった。児玉から応援されて後藤は衛生局長に戻ることができた。後藤にとって児玉は悲惨な末路しかなかった自分を引き立ててくれた恩人だった。この児玉と後藤の関係が満鉄の企業としての性格に大きく影響したと評価する研究者は多い。
 時計の針を少し戻す。設立4カ月前の7月22日のことである。原敬内務大臣に首相官邸に行くように指示された後藤に提示されたのは、満鉄総裁のポストだった。西園寺首相からの要請だった。ところが後藤は辞退した。自分は不適任だというのだ。児玉は説得した。満洲経営案を自分に寄せてきたのは貴官ではないか、満鉄総裁にふさわしいのは貴官しかいない、そう児玉は説きつづけた。
 しかし、後藤には不満があった。受けようとはしなかったのである。満鉄は満洲経営の根幹でなければならない。満鉄による一元支配がもっとも効率が良い。そうであるのに満鉄に対する監督権という行政指導力をもつ関東都督府や、外務省などの内地官庁の口出しが気に入らなかったのだ。
 ところが、その夜、児玉が急に亡くなった。後藤は総裁就任を受けることにした。8月1日、後藤は条件を付けて総裁就任を受けた。関東都督、外務大臣の指揮監督を受けるが、自身も関東都督府顧問として都督府行政の全般について関与するというものである。このことはのちに満洲の三頭政治といわれる統治システムのもととなった。つまり関東州の長官である都督、満鉄総裁、そして在奉天総領事の3つのトップによる行政があった。これらはバラバラではなく、あくまでも協議体制として存在したものの、やはりそれぞれの思惑のせいで決して一枚岩になるようなものではなかった。

改軌工事

 開業した満鉄にとって最初の課題は全線を標準軌にするといった大問題だった。期限は3年以内だから1910(明治43)年3月末日までに工事を終えなければならない。面倒だったのは、工事にあたって列車運転を続けるという条件があったことだ。この問題を解決するために満鉄はこれまでの狭軌線路の外側にもう一本のレールを付けた。もちろん、ポイント部分は除いての全線である。このゲージ改築工事はたいへんな事業だったのだが、満鉄は3線の内側2本を使って狭軌列車を走らせた。そして外側2本を使って広軌列車を動かした。狭・広両方を運転させながら工事を完成したのだった。
 最初に旅順と大連の間が完成した。1907(明治40)年12月には初めて広軌の列車が運転された。翌年の1月には本線の大連から瓦房店まで、2月には遼陽まで伸びた。3月には奉天、4月は鉄嶺、公主嶺、西寛城子までの区間で試運転がされた。5月に入ってからは、全区間で広軌、狭軌両方の列車が同じ線路の上を走るようになった。
 5月20日からは長春から大連方向へ次々と狭軌車両を回送し、逆に大連からは広軌車両を長春方向へ送り出した。そして30日からはついに全線で広軌車両だけの運転が始まった。営口線その他の附属線もすべて広軌になった。こうして安奉鉄道を除いて、南満洲から軍用鉄道は姿を消した。

告別式

 5月31日、大連の郊外に狭軌車両がすべて集められた。これらは満鉄が野戦鉄道提理部から引き継いだものだった。機関車217両、客車157両、貨車3727両である。それがつながれた全長は30キロメートルにもなったらしい。これらは再び海峡を越えて母国に帰った。全国各地の鉄道で再び活躍することになる。
 満鉄社員も在留邦人も軍人も3000人余りが狭軌車両との別れを惜しんだ。社員の大部分は野戦鉄道提理部から身分を移していた。そこに集められた車両には多くの思いが宿っていた。戦時中の苦労や悲しみ、そして戦勝を得た喜び、戦後の運行の苦労、厳しかった改築工事、それらさまざまな思いが人々の心の中を占めただろう。
 次回は鉄道の国有化について
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(2016年(平成28年)6月15日配信)